【15】竜化病
「竜化病だ、果実屋のガキが竜化病を発病したぞ!!」
ディオンの駆けていった方向を、蒼白な顔でエミリアは見つめた。
「……竜化病が」
つぶやくエミリアの肩を、ダフネがしっかりと支える。
「メアリ様、あなたには関係の無いことです。一般人には、竜人病を治すことなど絶対にできません」
エミリアはうつむいた。
「メアリ様!」
「……………………わかっているわ」
竜化病は、極めてまれな風土病。
何の前触れもなく発症する、脳の病気だ。精神に変調をきたし、魔力を暴発させてしまう。
発病者は一国あたり年間100人にも満たない。
治す方法はただひとつ――それは、聖女の儀式を受けること。
(……私、治せるのに)
しかし、今の彼女は一般人だ。竜化病を癒す立場にはない。
「メアリ様。馬車へ戻りましょう。ディオン殿下が戻られるまで、馬車で待機します」
エミリアは黙りこんでいたが、やがてかすれる声で尋ねた。
「ねえ、ダフネ……私、何もしないから。だから市場のほうに行くのは、問題ないでしょう?」
「メアリ様!」
「本当に、何もしない。見守るだけよ。約束するから。……お願い、心配なの。ダフネ」
切々と訴えられ、ダフネは眉を寄せて溜息をついた。
「仕方のない人ですね……わかりました。絶対に余計なことはなさらないように。万が一あなたが何かしようとしたら、私は全力で阻止しますのでそのおつもりで」
市場前の通りは、すっかりパニックに陥っていた。
爆炎魔法の暴発音がしきりに響き、人々は悲鳴を上げて逃げまどう。避難せずに遠巻きから、竜化病の少年の様子を伺っている野次馬もいた。
野次馬のなかには「忌まわしい!」「呪われたガキなんか、殺しちまえ」などと残酷な声を上げる者も少なくない。
竜化病を発症したのは、十歳にも満たない幼い少年だった。
荒い呼吸で背を折り曲げて、石畳に膝をついている。
少年の体は異様な電気を帯びていて、ぱりぱりと細かい放電が起こっている。苦し気に胸を掻きむしると、その指先から火の粉のような光の粒がこぼれた。
無数の粒が寄り集まって、少年の周囲に数本の火柱が上がる。
「ぅ、…………うぅ。ああ…………」
少年の呻き声は異様に低く、どこか人間離れしていた。ぎりぎりと食いしばった歯の隙間から魔獣のような唸り声が漏れ出す。
幼い顔立ちに憤怒の色が刻まれて、彼の瞳は鮮烈なまでの虹色と化している。それはまさに、竜化病患者の特徴だった。
「お兄ちゃん、マルクお兄ちゃん! どうしたの!?」
少年の妹――ミーリャは混乱しながら泣き叫んで、兄の名を呼んでいた。ミーリャはマルクのもとに駆け寄ろうとしていたが、老婆にそれを止められる。
「ダメだよミーリャ!! 行っちゃいけない、マルクに殺されちまう!!」
「なんで、おばあちゃん!? マルクお兄ちゃんがミーリャを殺すわけないでしょ! お兄ちゃん、すごく苦しそう」
「……ダメなんだよ、ミーリャ。竜化病は、ダメなんだ。全然違う人間になっちまう。ああなっちまうと、もう……」
マルクの祖母であるロッサは、血の気の失せた顔をしていた。絶望しきった顔で、わなわなと震えている。
人々はヒステリックに怒鳴っていた。
「あのガキを止めろ! 誰か魔法で戦える奴はいねえのか!?」
「早く殺せ!」
「そんなガキ、早く殺せ」
ミーリャは泣きながら自分の耳を覆った――塞いだ耳には、なおも「殺せ!」「殺せ!!」という残酷な叫びが聞こえてくる。
そのとき。
「――お前たち、落ち着け」
低くて響きの良い声が、ミーリャの耳朶を打った。
市場に現れたのは、ヴァラハ領の領主にして王弟・ディオン=ファルサス・ログルムントだった。彼は私服姿で、武器を持っている様子はない。
「ディオン殿下だ!」
「殿下がお見えになったぞ!!」
わぁ、と人だかりから歓声が上がった。
「殿下! 果実屋のガキが竜化病になりやがったんだ」
「あのガキを、やっちまってください領主様!」
色めき立つ彼らを、ディオンは冷めた目で見やった。
「騒ぐな」
ディオンは、ロッサとミーリャに微笑みかけた。
「心配するな。マルクは助かる」
そう言うと、石畳を蹴って一陣の風のようにマルクへ迫った。
マルクが魔獣のような咆哮をあげる――その瞬間、ディオンの周囲の空気が何かに引火したかのように爆炎を上げた。
ディオンは止まらない。
爆炎を抜けてマルクに迫ると、躊躇なくマルクの手首を取った。
少年の喉から咆哮がほとばしる。不可視の音の刃がディオンを襲ったが、彼はマルクの手首を握ったまま半歩さがってそれを躱した。
「眠っていろ」
ディオンに引っ張られ、マルクは前のめりによろける。マルクの首の後ろに、ディオンは「とん」と手刀を入れた。
少年の小柄な身体は脱力して倒れ込み、ディオンに抱き留められた。
あっという間に勝敗は決していた。
人々は息を呑み、場が静寂に飲まれたが、次の瞬間に歓喜の声が市場を埋め尽くした。
「殿下が勝ったぞ!」
「さすがディオン殿下だ」
凱旋する英雄を見物しているかのように、沸き立つ人々は「殿下」「殿下」とが口々に賞賛を始める。
ところがディオンは、とても不愉快そうな顔をしていた。
「――黙れ、お前たち」
ディオンの態度に気圧されて、人々は口をつぐんだ。
ディオンは気絶したマルクを抱き上げ、人々を非難した。
「竜化病は誰でも発病し得る病気だ――この大陸の人間は、全員が【竜の因子】を持っているからな。なのに、『化け物』だの『殺せ』だの、よくそんなことが言えるな。その罵声がいつ自分や家族に浴びせられるか分からないと、全員肝に銘じておけ」
水を打ったような静寂。
ディオンはマルクを抱えて歩き出し、老婆と少女の前で止まった。
「ロッサ、ミーリャ。怖かっただろうが、心配は要らない。しばらくマルクを俺に預けてくれ」
おずおずと、ミーリャが尋ねる。
「ディオンさま。マルクお兄ちゃんは、病気治った?」
「まだ治ってない。気絶してるだけだから、起きたら今と同じ状態になる。ちゃんと治すには、『竜鎮め』という特別な儀式が必要なんだ。隣の国の聖女のところにマルクを運んで、その儀式をしてもらう。あとで神官をロッサの家に寄越すから、詳しい説明はそのときだ」
ディオンは人だかりのなかに、エミリアとダフネがいることに気づいた。
「メアリ、……見てたのか。俺はこの子を運ぶから、悪いが先に馬車で帰っててくれ」
それからダフネに目配せすると、「メアリを頼む」と言い残して去っていった。
ダフネが押し殺した声でエミリアに囁く。
「メアリ様、屋敷に戻りましょう。……メアリ様?」
エミリアは何も答えない。
青ざめて立ち尽くし、泣き出しそうな顔をしていた。
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