【2】偽聖女と野盗

逃亡劇は順調だった。

追っ手に見つかることもなく、ダフネの操る馬に乗って逃げること数日。

このまま無事に隣国まで逃げきれたら、新しい人生を始められるかもしれない。


そんな期待が、徐々にエミリアの胸の中で膨らんでいった。



新しい人生に、多くは望まない。

慎ましやかに生きられればそれでいい。



――それなのに!!


   *





「きゃぁあああああああああ! だめ、死ぬ。死んじゃう!」

全力疾走する馬の背で、エミリアは悲痛な声を上げていた。


ここは竜の砂嚢キサド・ドラグネと呼ばれる巨大砂漠の西端付近。隣国ログルムントとの国境線が曖昧で、凶暴な魔獣がうじゃうじゃと湧く危険地帯である。おまけに『砂の民』と呼ばれる野盗まがいの蛮族もこの砂漠には暮らしていて、要するに命の惜しい人間ならば決して近寄らない場所だ。

だからこそ、密入国にはうってつけの場所だったのだが――。


エミリアとダフネは、不運にも魔獣に遭遇してしまった。


砂塵を巻き上げて追いかけてくる〝砂塵竜〟――体高3メートルを越える砂色の有翼爬虫類は、おぞましい咆哮を上げてエミリアたちに迫っていた。


「きゃぁああ! どうしようダフネ、あれは砂塵竜よ! 土属性の中級亜竜……騎士団の一個小隊を投入してようやく討伐できる竜だわ! 夜行性だから昼に遭遇することはないと思ってたのに――!!」


「エミリア様! 舌を噛みます、口を閉じてください」


エミリアを黙らせ、ダフネは馬を全速力で走らせる。背後の竜を振り返らずに、ダフネは前を睨み続けていた。


「このまま逃げ切ります。あなたを砂漠の塵にはさせません!」

鋭く告げて、ダフネは馬の手綱を巧みに操る。


砂まみれの風が、エミリアの亜麻色の髪をなぶった。馬の荒い呼吸音がエミリアの焦燥感を掻き立てる。エミリアは馬にしがみつき、歯を食いしばって恐怖に耐えた。


(どうすればいいの? 岩影に身をひそめる……? いいえ、こんな視界の開けた場所では竜の目をごまかすのは無理。それなら私が魔法で攻撃して、逃げる時間を稼いでみたらどうかしら……。雷撃魔法なら、砂塵竜を足止めできるかもしれない)


偽聖女エミリアは回復魔法だけでなく、攻撃魔法もある程度は扱うことができる。

地方視察に赴くときには、魔獣や野盗に襲われることもある――だから最低限の備えとして、火風地水の中級攻撃程度までは習得しておいた。


(でも私、馬上からの実戦なんて経験がないわ)


それでもやらなければ。

ブレる指先に全神経を集中させて、エミリアは雷撃の魔法陣を描き始める――しかし次の瞬間、


「エミリア様! 頭を伏せて!!」

「……っ」


竜の咆哮が音の牙となり、着弾した前後左右の砂地が爆ぜた。

エミリアは悲鳴を喉の奥でこらえ、ダフネは馬に発破をかける。


――ぽたり。

エミリアの手に、赤い雫が落ちた。


「ダフネ!? あなた、頭から血が――」

「この程度の傷なんでもありません。エミリア様、ここからは貴女に手綱を任せます。どうかご無事で」

「――え?」


ダフネはエミリアに馬の手綱を握らせて、ひらりと馬から飛び降りた。


「ダフネ!?」

「お逃げ下さい、エミリア様。このまま直進すればログルムント王国――ヴァラハ領の領都に着きます」


剣を鞘走らせたダフネは、砂塵竜を迎え撃とうとしていた。


(――無理よ、たった一人で竜と戦うなんて!)


ダフネは自ら死を選び、エミリアの逃げる時間を稼ぎだそうとしているのだ。


「そんなの絶対ダメ!!」

エミリアは馬の手綱を引き締めた。馬を止めて砂地に飛び降り、ダフネに駆け寄る。


ダフネは驚愕に目を見開いた。

「何をバカなことを――!?」

「私も戦うわ。あなたを見捨てるなんて、できるわけないでしょ!?」

叫びながら、エミリアはすでに左右それぞれの手で雷撃魔法の魔法陣を描き始めていた。


(……でも、きっと生き残れない)


たった二人で、竜に勝てる訳が無い。そんなことは、エミリアにも分かりきっていた。

砂塵竜の巨大な体躯が、すぐ目の前に。

巨大な翼が羽ばたくたびに、凶暴な風が頬を打つ。鮮烈なまでの虹色をした竜の眼は、エミリアたちを見下ろして愉悦の色を浮かべている。


(勝てなくても生きられなくても、戦わなくちゃ)


エミリアが覚悟を決めて、雷撃魔法を放とうとした次の瞬間。

エミリアとダフネは、予想外の展開に息を吞んだ。


岩陰から、ひとりの男が躍り出てきたのだ。

一足飛びに竜の頭上まで跳躍し、両手に携えた二本の曲刀で竜へと切りかかる。


首筋を切りつけられた竜は苦鳴を上げて怒り狂い、男に牙を剥いた。


「――はっ。生きのいい竜だな、殺し甲斐がある!」

その男は、心底楽しそうに笑っていた。


男が纏うのは、砂漠地帯に住まう『砂の民』の民族衣装。両手の曲刀も、砂の民が愛用するものだった。砂の民――それは竜の砂嚢キサド・ドラグネに住む遊牧民族で、たびたび国境付近の街を襲って野盗行為を働く蛮族である。


(……あの人、砂の民なの? でも、肌や目の色が違うわ)


砂の民の特徴は褐色の肌、そして漆黒の目と黒髪だ。

だがこの男の肌の色は、エミリアと同系統のようだった。ターバンからこぼれ出た髪は陽光のごとき黄金で、瞳は海のように青い。


左右の曲刀で自在に繰り出す剣戟はまるで舞のようだった。

本来なら数十人がかりで戦うべき竜が、たった一人の男に圧されている。

一太刀一太刀を、男は嬉々として振るい続けていた。


(竜討伐は一個小隊が陣形を組んで行うものなのに……この人、こんなに簡単そうに)


呆気にとられるエミリアの耳に、ダフネが囁く。

「エミリア様。今のうちにお逃げ下さい」


ダフネを振り返り、エミリアは驚愕に顔を歪めた。

「ダフネ、顔色が真っ青よ!? それにあなた、体が震えて……。まさか竜毒にやられたの?」


砂塵竜の唾液には猛毒がある――ダフネはそれに侵されているようだった。エミリアは解毒魔法を発動しようとしたが、ダフネはとっさにそれを拒む。


「いけません」

「どうして!?」

「あの男に見られているからです」


エミリアはハッとした。ダフネの視線の先では、砂塵竜と男が戦っている。


「あの男……かなりの手練れです。たったひとりで竜を相手取りながら、我々の様子もうかがっている。聖女の力を使ってはいけません――あなたの能力を、誰にも見せてはいけない」

そう語るうちにも、ダフネの容体は悪化していった。ふらついて砂に膝を付き、呼吸が浅くなっていく。


「でも、そんなこと言っている場合じゃ――きゃあ!」

エミリアが言い終わらないうちに、ダフネは彼女を突き飛ばした。

「今のうちに――お逃げ下さい!」


ダフネが声をふりしぼるのと同時に、巨大な竜が仰向けに倒れた。戦いは呆気なく終わり、男は勝者になっていたのだ。


「この程度か。もう少し楽しませて欲しかった」

溜息まじりに呟いて、男は二本の曲刀を鞘に納めた。


彼はゆっくりとエミリアのほうに顔を向ける。海の色をした瞳で、じっとこちらを見ていた。


「……お前、」


男が一歩、また一歩とこちらに歩み寄ってくる。エミリアはダフネを抱きしめながら、男を睨みつけていた。


(この男、竜を倒してくれたけど……味方になるとは限らないわ。どう見ても野盗にしか見えないし、竜の次は私達を襲うつもりかも)


「それ以上近寄らないで!」

エミリアは威嚇の声を張り上げた。

「来ないでって言ってるでしょ!?」

しかし男は制止命令を無視して、エミリアたちに近づいていった。鍛え上げられた体躯と精悍な美貌は、すでにエミリアの目の前にある。



「……密入国するつもりだったのか?」



男の口調には、驚きがにじみ出ている。

エミリアは恐怖に飲まれまいとして、気丈に言い放った。

「ええ。砂漠経由で、ログルムントに入るつもりよ。何か文句でもある?」


――どうせこの男はカタギではないのだから、密入国を隠す必要はない。

だからエミリアは、堂々と答えた。


「……へぇ。自分から密入国者を名乗るとは、ずいぶん勇ましいんだな。俺がお前を不法侵入罪で捕らえるかもしれないとは、考えないのか?」


「捕まえて官憲にでも突き出してみる? でもそんなことをしたら、あなたも捕まるんじゃなくて?」

「俺が捕まる?」

「ええ。だってあなた、どう見てもカタギじゃないもの」

「そう見えるか?」


何が面白いのか、男はあははと笑い始めた。だが、ふと顔を歪める。


「……って、笑ってる場合じゃないか。お前の従者、死にそうになってるぞ」

「!」


エミリアの腕に抱かれたダフネは、蒼白な顔でぐったりしていた。


「ダフネ!」

「砂塵竜の唾液には〝竜毒〟がある。それが傷口から入ったようだな。ほら、解毒剤を飲ませてやれ」


男に手渡されたガラス瓶の中の液体を、エミリアは恐る恐るダフネの口へと運んだ。最後の一滴まで飲ませ終わったとき、


「あぁ、居た!! おーい、頭領ボス!」

という若い男の声が響いた。


ラクダに乗った三名の男が、こちらに近づいて来る。


「まったく、ディオン様ってばまた一人で勝手に行っちまうんだから」

「ディオン様。砂塵竜を一人で狩るのは危険でございます」

〝砂の民〟と思しき褐色肌の青年と、右目に眼帯をした青年、そして、頬に刀傷のある老人。彼らは全員、野盗の仲間に違いない。


(ボスと呼ばれているということは、このディオンという男が野盗集団のトップなのね。道理で強いわけだわ……!)


エミリアがそう考える間にも、手下たちとディオンの話は続いていた。


「陣を組んで討伐せねば、竜毒に侵されたときに対処できませぬ」

「おいおい。俺が今まで何匹の砂塵竜を狩ってきたと思ってるんだよ。今さら竜毒にやられるようなミスをするものか。だが――」


ディオンが視線をダフネに投じた。3人の手下も、ダフネを見る。


「ディオン様、彼女らは何者ですか?」

「……密入国者だとさ。黒髪の従者が竜毒にやられた。ひとまず解毒剤は飲ませたが、回復するまで面倒みてやれ」


はい。と答えて男たちがエミリアの腕からダフネを運び去ろうとする。

エミリアは、得体のしれない男たちにダフネを預けるのが不安でたまらなかった。


ディオンは「大丈夫だ」とエミリアに声をかける。


「別に取って喰いやしねぇよ。竜毒にやられると、二、三日はまともに動けなくなるんだ。安全な場所で休ませてやるから、お前も来い」

そう言うと、ディオンはエミリアを抱き上げた。


「……きゃあ! ちょっと」

「軽いなお前」

ディオンは彼女を横抱きにしたまま、エミリアが乗っていた馬のもとまで運んだ。鞍に彼女を座らせて、自分も後ろに騎乗する。


「心配するな。お前が密入国者だとしても、きちんと面倒見てやるよ」


エミリアに有無を言わさず、ディオンはゆったりと馬を歩ませ始めた。



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