【9】初夜/偽聖女エミリアside
エミリアとディオンが領主邸に戻った頃には、日はとっぷりと暮れていた。
「旦那様、奥様。お帰りなさいませ」
メイドたちの手伝いで、ウェディングドレスからルームドレスに着替えさせてもらう。手際の良さに圧倒されているうちに、食事を出されたり浴室で体を磨かれ香油を刷り込まれたり。
気づけばほんのり湯気の上った状態で、薄紅色の上質な夜着を着せられていた。
メイドに案内されて、夫婦の共寝室へと通される――エミリアがこの部屋に来るのは初めてだった。
ディオンはまだ来ていない。広々とした室内を、燭台やランプの灯りが温かく照らし出している。
(……居心地が悪い)
エミリアはとりあえず、ベッドに腰を下ろしてみた。
(たぶん新婚初夜の新妻は、こういう感じに座って夫を待つのよね。……まぁ、私達は白い結婚だけど)
ディオンいわく「契約結婚だという事実を漏洩させないため、使用人たちの前でも本物の夫婦を演じたい」のだそうだ。だから今後も基本的には、共寝室で一緒に寝起きしたいと言っていた。
(深く考えずに了承しちゃったけど、寝室は別々にしてもらえばよかったわ。誰かと一緒に寝起きするなんて、親方の家に住み込みで働いてたとき以来だもの。……私、寝相悪いし。親方の奥さんのガーナさんが『エミリアは寝相悪すぎだよ』っていつも笑ってたなぁ)
などと呑気に考えていたが、寝相よりも重大な問題があることにふと気が付いた。……男女が同室で毎晩寝泊まりするなんて、どう考えても危なっかしい。
エミリアは、今更ながら慌て始めた。
(殿下は【白い結婚】ってちゃんと契約書に書いてくれたし、大丈夫だよね……? でも、あの破天荒な性格だと約束を無視しかねないかも……)
エミリアの愛らしい顔から、さぁ……と一気に血の気が引いた。しかし青ざめたのも束の間、挙式のキスを思い出して林檎のように赤くなる。
(ど、どうしよう、気まずい……逃げたいっ!!)
エミリアが腰を浮かせてあわあわし始めたそのとき、部屋の扉からノックの音が響いた。
「はぅっ」
はい、と答えるつもりが、上ずって妙な声が出てしまった。
黒のナイトガウンを纏ったディオンが、くつくつ笑って肩を揺らしながら入室してきた。
「君、いま噛んだろ。『はぅ』って」
「噛んでません。ちゃんと『はい』って言いました」
「声がうわずっている」
「……」
海色の瞳を柔らかく細めて、ディオンはエミリアを見ていた。一方のエミリアはヘビに睨まれたカエルのように縮こまり、うろうろと視線をさまよわせている。
「はは、そんなに怖がらなくて大丈夫だ。あらためて言っておくが、俺が君を愛することはない」
やたらと明るい口調で彼はそう告げていた――エミリアを安心させようという意図が、声音から滲み出ている。
不安を見透かされていると知り、エミリアは少し悔しくなった。深呼吸をしてベッドにしっかり座り直すと、エミリアは気丈な態度で大きくうなずいてみせた。
「あら、殿下がお約束を守って下さるようで安心しましたわ。あなたは私を愛さないし、私もあなたを愛さない。それが、あなたを雇う条件ですものね」
私を舐めないで頂戴! ――そんな気持ちを込めて睨んでみたが、身体が小さく震えてしまう。
「怖い顔をするなよ。そんなに俺のことが怖いのか?」
「べ、べつに怖がってなんか」
エミリアを見て、ディオンは愉快そうに笑っていた。
「俺は〝用心棒〟として、君に雇われることになった。そして雇用の報酬は、金銭ではなく君自身だ。君には、俺の契約上の妻になってもらう――つまり、俺が求めたときだけは『王弟ディオンの愛妃』としてふるまって欲しい。それ以外の時間は君の自由だし、もちろん身の安全はこの俺が保障する。そして、『君の過去』に関して一切詮索はしない。それが契約書の内容だろう? なにか不足はあったか?」
「……ありません」
「それなら話は終わりだ。寝よう」
ディオンはエミリアのすぐ脇に手を付き、ベッドに上がり込んできた。
「! ちょっ、殿下……!」
「別に取って喰ったりしねえよ。ベッド半分貸してくれ、俺は眠い」
二、三の会話を続けたのちに、ディオンはエミリアに背を向けてまぶたを閉じた。
「俺は君を愛さない。だから、安心してお休み」
ディオンはそのまま、眠ってしまった。
(……もう。何なの、この人! 訳が分からない)
エミリアは彼と最大限の距離をとり、ベッドの隅で身を丸くして頭を抱えた。
(私はただ野盗を用心棒として雇って、慎ましやかに生きていくつもりだったのに! なんで王弟殿下と契約結婚をする羽目になってしまったの? 私、人生の決断を間違っちゃったのかもしれない……せっかく偽聖女をやめたのに、今度は自分の意志で偽の王弟妃になるなんて)
――いつでもどこでも、私は『ニセモノ』。
エミリアは、無性に悲しくなってきた。
偽聖女として過ごした11年が、ひどく虚しく思えてくる。
(私の存在意義なんて、【上手なニセモノ】を演じることだけだった。……私は所詮、ニセモノ。私がいなくてもカサンドラ様がいれば聖女の仕事は回るし、むしろ私が消えてカサンドラ様が役目を果たすのが正しい形なんだもの)
きつく閉じた目から、じわりと涙が滲んできた。
ニセモノ。ニセモノ。
分かりきっていたことなのに、なんだか悲しい。
――そのとき。ふと、遠い昔に言われた言葉が胸の中で蘇った。
『誰が何を言ったとしても、君は絶対に聖女だよ』
エミリアは、ハッとして目を開けた。
あの優しい少年の姿が、エミリアの脳裏によみがえる。
『エミリア、君こそが本物だ。君が私を救ってくれた』
(……ルカ)
あの少年に出会ったのは、もう8年も前のことだ。
儚げで、とても綺麗な子だった。
カラスの濡れ羽のような黒髪が美しくて、鈴のように澄んだ声のルカ。
『君は絶対に、ニセモノなんかじゃない!』
(そうだわ。……ルカは、私のことを本物だって褒めてくれた。嬉しかったし、ルカのことを思い出すといつも頑張れた)
いつでも折れずに頑張ってきた自分が、今さらクヨクヨするなんておかしい。
ベッドにうずくまっていたエミリアは、がばっと起き上がり、拳を握りしめる。
(そうよ、エミリア! 私はいつでも頑張って来れたじゃない。これからも大丈夫よ。むしろここでの待遇は、偽聖女時代よりもかなり良いはず……! ディオン様は得体が知れない人だけれど、たぶん悪人ではないし)
ディオンは命を救ってくれて、安全な居場所を与えてくれた。何かを無理強いすることもなく、破天荒な割には紳士的だ。それに、砂の民に胸襟を開く器の広さもある。
(前向きに考えよう。何とかなりそうな気がして来たわ。偽聖女だとバレなければいいだけだもの!! 大丈夫、きっと大丈夫)
小さい声で「よーし、がんばれ、私!」とつぶやくと、エミリアは再びベッドに寝ころんだ。
記憶の中で微笑むルカに、声には出さずに感謝を告げる。
(ルカ、ありがとう。あなたのおかげで、私がんばれそう。……私、ルカの国に来たんだよ? ルカも今、元気にやってる?)
心の中で、何度も『ルカ』と呼んでみる。胸がぽかぽか温かくなってきた。
――ルカ。ルカ。
遠い昔に出会った
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