53. 婚礼
修道院の門前には、まだ多くの人だかりが残っていた。何かぺちゃくちゃと話し合っている女たち、街へ引き返そうとする男たち。名残惜しげに門を見やる者もいる。ここでの見世物はもう終わったのだ。
その門の前には、武装した兵士が立っている。いつもは来客の取次や、特別な場合の門の開閉のための門衛が一人、交代で置かれているだけだが、そこに、まるで人の杭のように微動だにせず並ぶ兵士たちは、場違いな威圧感を通りに投げかけている。王女の護衛をしてきた一隊だろう。
通りを横切り、まっすぐ彼らの前へ進みながら、ミカは密かに歯噛みした。既にアルティラとロードリー伯は修道院の中だ。素早く行われることが肝要なこの結婚は、こうした儀式につきものの宴や客の歓待などは一切抜きに、本人たちと最低限の人間だけで執り行われる。この兵士たちは、外から入りそうなあらゆる邪魔立てを防ぐように命じられているに違いない。
「申し訳ないが、ここを開けてください。アルティラ王女殿下に、至急お伝えしたいことがあるのです」
その場で一番偉そうに見える男の側へ行って、ミカが開門を求めたときも、案の定、兵士たちはすぐには応じなかった。男はまじまじとミカを凝視する。彼の正気を疑うような眼差しであったが、しかし司祭の法衣には敬意を払うに如くはないと判断したらしく、一応は礼儀正しい言葉で答えた。
「それは……できません、司祭様。ここで神聖な儀式が滞りなく完了するまで、何人も立ち入らせることはできません」
「その神聖な儀式が、流血の惨事に変わってもですか。ここだけではない、やがては全ベルリアの、ひいては王家の流血ともなりますよ」
もし今、この状況でロードリー伯爵が暗殺されるということになれば、問題は王家が協力相手を失うというだけではない。手を組むと見せておいて、その相手を殺したのでは、この先争いを収めるにしても、講和一つできなくなる。ただでさえ、他の諸侯をねじ伏せるだけの力を持たないベルリア王家にとって、かなり手痛い打撃になるだろう。
「何だと!」
ミカの無遠慮な言葉に、男は目を剥いた。何か怒鳴り返してやりたい気になったのだろうが、往来で、しかも司祭の法衣は相手が悪い。結果、一つ息をついて、声を低めて言った。
「……わかりました。何かご懸念があるようなら、部下をやって殿下にお伝えしましょう。あなたはこちらでお待ちください」
「その部下と一緒でいいですから、中に入れてください。何も狼藉を働こうというのではありません」
「そんなことはできない! 我々は命令を受けているのです。どちらのお方か知らないが、そもそも何の謂いあって王女殿下に……」
「――隊長、その方、王女殿下のお客人の司祭様ではないですか」
ふと、男の傍らから、控えめな声が割って入る。それまで、少し離れた場所で他の者と同じく微動だにせず立っていた兵士が、いつの間にか移動してきていた。ミカを正面から見ると、ああやっぱり、と声を上げる。
「間違いない。一昨日の夜、殿下を訪ねてみえた方だ。あのときは、随分とお加減が悪そうでしたが、もう大丈夫ですか」
言われて、ミカもまじまじと相手を見つめる。一体誰だ、覚えがない……いや、思い出した。
「あの晩、門を開けてくださった方ですか」
「僭越ながら、あの後あなたを寝台までお運びしたのも私です。覚えてはいらっしゃらないでしょうが」
そこまで言って、兵士は上官の質す視線に気づいたようだ。居住まいを正すと、急いで付け加える。
「申し訳ありません、王女殿下直々に、この方のことは決して口外してはならないと申しつけられておりまして。隊長にも報告するに及ばずと……」
「王女殿下は、私の身の安全のためにそう仰ってくださったのです、ハレス隊長」
思いがけない助力は好機だ。ミカはとっさに、記憶から
「お名前は、王女殿下からお聞きしました。信頼できる方だとも。だからこそ、こうしてお願い申し上げている。私を中に入れてください。その必要があるなら、どなたか一緒についてこられて構いませんから」
果たして読みは正しく、この男が護衛隊長ハレスであったらしい。名乗りもしないのに自分の名を呼ばれ、隊長は眉根を寄せて思案顔になった。ミカがただの半分おかしな行きずりの司祭などではなく、確かにアルティラ王女の知己であることには納得してくれたようだが、その扱いについては決めかねているようだ。推し量るような目付きで、じっと彼を見つめる。
ミカは気が急いて喚きたくなるのをぐっと堪えた。ここでこの男を信用させるのが、結局は一番早道だ。
やがて、焦慮の中では永遠に思えるほどの間の後で、男はついに言った。
「――よろしい! お入りください。ですが、くれぐれも騒動は無用です。ご案内に、一人つけましょう」
とはいうものの、それが案内役というよりは監視役であることは明白である。おい、と顎をしゃくられたのは先刻の兵士だ。有無を言わさぬ上官の鋭い眼光と、焦った様子で敬礼を返す兵士の一瞬のやり取りの意味は、見ているミカにも何となく察せられた――『何かあったらおまえの責任だからな』という、無言の威嚇だ。
ようやっと開けられた門から、中に入る。いつもなら、聖堂に祈りを捧げに来る者や、施療所を訪れる者の姿が途切れないはずの広場にも、今は誰の姿も見えない。今日は修道院の働き手たちも――サナンも含めて――滅多にない休みを与えられ、敷地内から追い出されている。
「名前は?」
無人の広場をほとんど走るように横切りながら、ミカは傍らについてくる兵士に尋ねた。一体どうしてこんなことになったのだろうと、余計な口を挟んだことを後悔する顔をしていた兵士は、しかし質問にはすぐに答えた。
「イーサです、司祭様」
「腕は立つ?」
「こんな仕事していて、立たないっていうわけにはいきませんでしょう。そこそこだとは思いますが……何か、立ち回りでも起こる予定なんですか」
「そうでなければいいと思うけど、そうならない保証はないな。ちなみに俺は、そういうのそれほど得意じゃないからよろしく」
「そりゃ、司祭様が荒事が得意ってことはないでしょうからねえ」
実際のところ、司祭の中にも荒事が得意な者は結構いる。特に未踏の地へ向かう宣教司祭などは、世間一般でははじき出されるような荒くれ者しかいない。そうでもなければ務まらないからだ。元は傭兵だとか、間諜だとか、裏の社会で名を上げていたなどというのも珍しくない。路上の喧嘩くらいなら何とも思わないミカだが、ああいうのと並ぶ気はしない……が、イーサに詳細な真実を告げるのは止めておくのがよさそうだ。
代わりに、ふと別のことを思い立つ。足を止めずに、一直線に聖堂へと向かいながら、ミカは更に尋ねた。
「ユールを知ってるか?」
「ユール? 誰です」
「王女の……昔馴染みだ。何てったっけ、そう、エダル侯爵家の」
「侯爵家って、そんなもん俺たちみたいな下っ端が存じ上げてるわけ……あ、ああ!」
呆れたような答えが、途中で素っ頓狂な叫びに変わる。イーサは思い当たった様子で、驚愕の表情になった。
「ユールって、あの近衛隊のユール・レクシアか! 坊ちゃん揃いの近衛隊なんかにいやがるくせに、あいつだけはまずい……えっ何、あいつがどうかしたんですか。まさかやり合うんじゃないでしょうね、嫌ですよ!」
――そんなに嫌なんだ……?
確かにアルティラが、ユールは腕が立つと言っていたが、それは惚れた弱みの贔屓だと思っていた。だが今、イーサの反応を見る限り、まったくの贔屓目でもなさそうである。ミカには未だにピンときていない。あの温和で控えめなユールが、どうなったらそう言われるようなことになるのか……もっとも、それを詳しく知りたいとは全然思っていないが。
聖堂の扉の前にも、やはり衛兵が立っている。ミカは構わず近づき、扉に手をかけた。制止しようとする衛兵に、背後でイーサが何か言うのを聞きながら、重い扉板を力いっぱい押す。
扉は重くはあったが、動きは滑らかだった。手入れの行き届いた金具は音一つ立てず、扉が内側に開く。
音一つ立てないと思われたのは、聖堂に響き渡る聖歌のせいもあるだろう。扉を開けた途端に、豊饒な音が溢れるように流れてくる。正面に、輝く薔薇窓が見えた。午前の光が色硝子を透かして、何千もの鮮やかな色彩が一斉に視界に降り注ぐ。
聖堂内はがらんとしていた。百人近くは座れるはずの一般信徒席には、わずかに数名の姿しかない。祭壇横に修道士が並んで聖歌を歌っている様子だけ見れば、信徒の入らない時間帯の、修道院の日課のようにも思えたが、しかしそうではないことは、聖堂内の様子がありありと示していた。
内陣と外を仕切る腰高の柵が取り払われ、代わりに今ミカが立っている正面扉から、奥の祭壇へまっすぐに緋色の敷物が敷かれている。眩く輝く祭壇には、常と変わらぬ質素な修道服で式を執る、修道司祭であるイアルト副院長が立ち、その前に二人――黒の儀礼用のマントを羽織ったロードリー伯爵と、輝く銀糸のドレスに身を包んだアルティラ王女の後ろ姿。
遠目に、しかも後ろ姿だけ見ても、アルティラは実に見事な美しさだった。首元も腕も足もすべて覆った伝統的な花嫁の衣装は、しかし一方で、彼女の体の曲線を控えめながらしっかりと示し、ただの面白みのない礼儀正しさとは全く別の印象を見る者に与える。薄暗い場所でなら、白よりも灰色に近く見えるであろう銀糸の装飾も、薔薇窓の溢れる光の下で、彼女の美しさに荘厳さを加えていた。気高き貴婦人、天の女王――単純に見た目のことだけで言えば、横に立つロードリー伯の存在など問題にならない。彼女こそが主だ。
しかし今、新郎新婦はこちらに背を向けたままだ。席についているわずかな人々――王女側の席の端に、エーリンの華奢な背中が見える――も振り返らない。
ロードリー伯爵が未だ健在で、その場に立っていることにほっとしながら、ミカは急いで辺りを見回した。ユールは諦めたのだろうか。警備と、顔を知られていることに諦めて、企てを中止しただろうか――いや、そんなはずはない。必ずどこかからやってくる。
聖歌はまだ続いている。美しい、恍惚を誘う催眠めいた旋律が、神の栄光と世界の幸福を繰り返し称えている。
と、そのとき、微動だにしない修道士たちの列で、何かが動いた。平修道士の礼装のフードを目深にかぶった影が、ゆらりと群れから離れる。ぼんやり見ていれば、それは儀式の予定された手順だと思っただろう。作為のない動き、音もなく幻のように、雲を歩くような足どりで。
「ユール!」
気が付いたときには、ミカは既にその名を呼んでいた。通路の半ばから、大声で叫ぶ。
「ユール、そいつを殺すな! 今度こそ、本当に取り返しがつかない!」
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