第10章 薔薇の名前
52. 大遅刻
突然、放り出されるように目が覚めた。前触れもなく、夢もなかった。目を開けてはじめて、自分が眠っていたと気が付くほど唐突に。
しかも、目に入る風景に覚えがない。真っ先に見えたのはやたらと低い天井で、細かな刺繍入りの布地が一面に貼ってある。何故天井に布なんか貼っているのかとしばらく考えて、ようやくそれが寝台の天蓋なのだと気が付いた。
――そういや、内側から見上げたことねえな、こういうの。中、こんななってんのかー……って!
何で自分がこんなところにいるのか。そもそも、ここはどこなのか。ぎょっとして反射的に飛び起き――そこでようやく、ミカは本当に目を覚ました。
そこは、まったく見知らぬ部屋だった。おそらくは寝室なのだろう、彼がいる寝台の他には簡素な椅子が数脚と、戸板に優雅な彫り物が施された荷物入れがあるくらいであまり広くはない。右手には縦長の窓があって、その下には小さな書き物机が備わっている。
窓は明るい。光の色からすると朝、既に早朝ではなく、日が高くなるつつある時間に思える。
「――おはよ」
不意に反対側から声がして、ミカはまたしてもぎょっとした。慌てて振り返ると、今まで視線を向けなかった寝台のすぐ傍らに、見慣れた小さな姿がちょこんと座っている。
「うわびっくりした! サナン、おまえ何してるんだ? つか、ここどこ? え、ていうかおまえ、ここにいて大丈夫なのか? もう明るいし、修道院にいないと……」
しかしサナンは、ミカの質問には何一つ答えなかった。側にある水差しから、陶器のカップに水を注ぐと、彼の口を封じるように目の前にずいと突き出す。
「は? 何だよ……」
更に言葉を続けたかったミカだが、しかし手の中に澄んだ液体を見た途端にそんな気も失せてしまう。ひどく喉が渇いていることに気が付いた。
最初の一口を口に含んだ瞬間、他のことは何一つ考えられなくなり、ミカは夢中でそれを飲み干す。一杯では足りないが、その衝動を予期していたように、サナンが間を置かずに再び器を満たしてくれる。瞬く間にそれを飲み干してしまってから、ミカはようやく一息ついた。
「まだ?」
「いや、いい、ありがとう。あー……干物になった気分だな。何だこれ……」
「ねつあった」
「熱?」
反射的に訊き返したものの、答えを待つまでもなく記憶が蘇ってくる。確か、夜の早い時間にアルティラ王女の滞在先を訪ねたはずだ。彼女と、侍女のエーリンに話を聞いて、それから……修道院に戻らなければと思ったのだ。いろいろ確かめたいことが……だがその辺りから記憶が曖昧だ。
ミカは改めて、自分の状況を確認した。もう、どこも冷たくない――乾いて清潔な、着心地のいい服に着替えさせられている。知らないうちに他人の手でそうされたということには、多少居心地の悪さを覚えないでもないが、しかしそんなことは忘れてしまえるほどに体はすっきりしている。もう、骨まで凍えるほどに寒くはないし、変な汗をかくこともない。
こんな気分でいられるのは、随分と久しぶりに思える。あまり自覚はなかったが、こうしてすっかり楽になってみると、あれはかなり体調が悪かったのだと今更ながらに気が付いた。サナンの家で目覚めた直後、全く体が動かなかったのが衝撃で、それよりましだと思っていたから、回復した、あるいはしつつある気でいたのだ。だいぶ間違っていた。
「ってことは……ここはまだ、あの屋敷か」
室内の、簡素だが高価そうな設えを改めて眺める。記憶に靄がかかって判然としないが、確か王女の使っている部屋もこういう雰囲気だった気がする。同じ建物の中なのだろう。
「アルのいえ。よくなるまで、ねてていいって」
「おまえ、ベルリアの王女殿下を何て呼び方してんだよ。不敬罪で捕まるぞ」
その聞き慣れない呼び名の正体に思い至って、ミカはため息をつく。いつの間に、そんなことになったのか。まあ、これまで見てきたアルティラ王女の性格からして、修道院の下働きの子供に親しく愛称を呼ばれたからと言って、不敬だと目くじらを立てはしないだろうが。
「アル、いいっていった」
「マジかよ」
ミカは呆気に取られたが、やがて頭を振ってそれを放っておくことにした。彼自身の信条としては、王侯貴族などできる限り避けて、係わり合いにならないのがいいのだが、アルティラ王女に関しては既に手遅れだ。
――それに、することもある。
少し体を動かして、様子を窺う。しばらく寝ていたせいだろう、いくらか筋が強張った感覚があったが、大きく伸びをするとそれも消えた。寝台を降りて立ち上がる。突然の動きに、最初こそふらついたが、すぐに感覚を取り戻した。少しも問題ない。
「ミカ」
側で、まだ座ったままのサナンが呼ぶ。どことなく窘めるような響きがあるのは聞かず、ミカは戸棚に手をかけた。どこかに、彼の服を置いてくれていないだろうか。なければ、拝借できそうな何でもいいのだが、とにかくこうしてはいられない。時間は貴重なのだ――アルティラがロードリー伯爵と正式に結婚してしまうまで、使えそうなのは今日一日しかない。
「サナン、昨日の道を通って、もう一度戻りたいんだ」
何とか修道院に潜り込めないものか。それもできるだけ、彼が生きていることを知られない方法で。昼日中、誰にも姿を見られずというのは難しいだろうが、一人二人、口止めできそうな者を抱き込めればやりようはある。何も一生隠し通せというつもりではない、明日の結婚式まで黙ってくれていればいいだけのことだ。
だが、サナンは、あっさりとその頼みを拒否した。
「できない」
「えっ! 何で」
「はいれない」
「入れない……って、修道院にか? 何でだよ」
「けっこんしきやってる」
「…………」
一瞬、頭が真っ白になる。その場で動きを止めて、ミカはサナンを見返した。それは……つまり、どういうことだ?
「……王女の結婚式は、明日のはずだろ。何で……何か起きたのか」
「ミカねてた」
「嘘だろ!?」
理解と同時に、軽い眩暈を覚え、ミカは思わず叫ぶ。ここを訪ねて、アルティラとエーリンに会ったのは、昨夜のことだと思っていた。彼の体感では、本当にそうとしか思えない……が、どうやらその間に、まるっと一日が消えてなくなっていたらしい。
「何で起こしてくれなかったんだよ!」
「おきなかった」
思わず、どうしても必要な講義に遅刻しそうな自堕落な学生みたいなことを口走ってしまったが、もちろんそんなことを言っても仕方がない。ミカは再び自分の服を捜しながら更に尋ねる。
「今何時? 結婚式はいつ……王女がここを離れたのはどのくらい前だ?」
「さっき」
「ロードリー伯はまだ生きてたか?」
「ろーどりーはく」
「王女の側にいるはずの、いけ好かねえ感じのおっさんだ!」
「いた」
ロードリー伯爵を認識していない様子のサナンだったが、問うと思い当たった様子で頷く。少年の目から見て、どんな感じにいけ好かなかったのかと、ミカは興味を覚えなくもなかったが、ともあれ伯爵は無事のようだ。少なくとも、この屋敷を出て行くまではそうだった。
衣装棚の中に、彼が着ていたものが一式保管されているのを発見した。どれもきちんと洗濯されて、乾かされている。法衣に至っては、ほつれたところや穴の開いたところがきれいに修繕されていて、ミカはほとんど快哉を上げたくなった。誰だろう、エーリンだろうか――彼女に神の祝福を!
口の中で素早く祈りを唱えながら、急いで着替える。あまり行儀良くとは言えないやり方で、ポンポンと服を脱ぎ捨てていくミカの慌てぶりを、サナンは無表情ながらも興味深そうに見ていたが、やがてふと口を開いた。
「ミカ。ヒッグリー、たりない」
「は、何? ちょっと待ってくれ、今忙し……何だって?」
「ヒッグリー。やくそうだなの」
乾いた靴に足を突っ込んで、法衣に袖を通したところで、ミカははたと動きを止めた。ヒッグリー――薬草の一種だ。いくらか毒性があって、体内に入れば嘔吐を引き起こすので、催吐剤として用いられることがある。この薬草で人間が死ぬことはほぼないが、必要以上に用いれば少し苦しむことになるだろう。吐くのはもちろん、神経に作用して体温が上下したり、脈が不安定になったり……。
「……薬草棚って、施療所のか。足りないって、何でわかった?」
「びんのふた、ちょっとずれてた。こながおちてる」
性質からして、頻繁には使われない薬草だ。危険なものを飲み込んだ者や、誤ってもっと強い毒草を食べてしまった家畜などに使うことが多いが、そうそう起きることでもない。なのにこの数日の間に、その薬瓶に手を触れた者がいたのだ。触っただけではない、瓶を傾けて中身を出した――本来は慎重に秤にかけてから使うべきものを、手荒に瓶から直接振り出した。急いでいたのだ――振りまかれた粉の痕跡を残すほどに。
「――それ、いつのことだ?」
「きのうの、まえ。そのまえはなかった」
ミカはまじまじと子供を見つめた。驚きと同時に感動を覚える。――まさにそれこそ、彼の知りたかったことではないか。
衝動的に、足を踏み出す。考えれば妙なことだが、誇らしい気持ちになったのだ。誰もが薄のろだとか、知恵が足りないだとか、ものの数ではないように扱うこの少年は、しかしそう言う他の誰よりも聡明なのだ。注意深く冷静で、何でもよく気が付く。けれどそうして知ったことを、決して他人には漏らさない。目立たず、愚かなふりをしていることが最善だと心得て、用心深く……でもこうして、ミカにだけは話してくれる。何ていい子なのか!
「サナン、えらいぞ! おまえ本当最高だな!」
骨ばった小さな体を抱きしめる。気持ちの赴くまま、ぼさぼさに刈られた頭を乱暴に撫で回した。土と汗の匂いがする、けれど決して不快ではない。むしろ……。
しかし次の瞬間、ぐいと抵抗する力を感じる。突然抱きすくめられたサナンは一瞬固まったようだが、すぐにミカを押し返すと、するりと腕から逃げ出してしまったのだ。
「あっ、何だよ、冷てえな。せっかく感謝してんのに」
「いらない」
「要らないとか言うな!」
その上、少し離れて警戒の距離を取り、こちらを睨んでくる始末である。何もこの無愛想者に愛想よくしてほしいとまでは思わないが、少しは友好的な反応を期待していたミカはいくらかがっかりした。もう、だいぶ慣れてくれたと思ったのに。
とはいえ、ぐずぐずしている時間はない。結婚式だ。もし、ユールがアルティラを救おうと思い決めているのなら、そこが最後の機会になる。そしてミカにとっても、真実を明らかにする最初で最後の――何の準備も心積もりもできないままの、ぶっつけ本番だ。こんなはずではなかったのに。
だが、今更嘆いても仕方がない。何とか支度を整えて、ミカは部屋を飛び出した。
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