51. 侍女の話
「それを知るために、あなたの侍女から話を聞きたいのですが、構いませんか。――エーリン」
「! はい!」
ここへ入ってきたときから、気配を殺して扉の側に控えていた侍女は、突然話を向けられて仰天したようだ。狼狽に顔を赤くして、上ずった声で返事をした。
ミカの視界の端で、王女がいかにも感心しないと言いたげに唇を歪める。しかし、敢えて制止するつもりもなさそうなので、ミカはそのまま彼女に向かって話を続けた。
「昨夜あったことを、詳しく教えてくれませんか。具合が悪くなったと聞いたけど」
「は、はい、そうなんです……夜になって、急に」
「何時頃?」
「夕食をいただいて、少し経ってからです。急に手が震え出して、そのうちとても寒くなって……あの、恥ずかしいんですけど、戻してしまって、それで修道士様方が駆けつけてくださいました。熱が出ている、食べ物が悪かったのかもしれないと仰って、いろいろと訊かれましたが、私には何も思い当たらなくて……」
それはミカがあの夜、若いジルト修道士から聞いた話と一致している。ただ――あのときも思ったのだ。それは、彼女の病の症状として少し奇妙ではないかと。
「手が震えたのが先ですか? 寒気がしてからではなくて?」
尋ねると、エーリンは一瞬ぽかんとした顔をした。どうやらとっさに、質問の意味が摑めなかったらしい。困惑した様子で、記憶を確かめるようにしばらく宙に視線をさまよわせていたが、やがてこくりと頷いた。
「そう……そうだと思います。何だかとても変な感じがして……水を飲んで落ち着こうと思ったんですけど、手が震えてカップを落としてしまいました。そういえば、あのときは寒いわけではありませんでした……割れなくてよかったです」
「エーリン、あなた、そんなことを言っている場合じゃないわよ!」
アルティラが、いくらか驚いた様子で口を挟む。控えめに立っている侍女の側へ歩いていくと、心配と憤りが半々の表情で相手を覗き込んだ。
「そんなに具合が悪かったなんて! あなたったら、もう大丈夫っていうばかりで……どうしてちゃんと言わないの。そんなことなら、まだ修道院に置いておいたし、それでなくてもこうして働かせたりしなかったのに!」
「それは、本当に大丈夫なんです。朝、目が覚めたら何もかもすっかり良くなっていました。昨日のことは何だったのって思うくらい、何ともなくなってたんです。なのにアル様は、日中いっぱいお休みをくださって……これ以上じっとしているのは、逆に辛いくらいです。本当です」
「昨夜、施療所にいたのは誰ですか」
麗しい主従のやり取りは置いておいて、ミカは更に質問を続ける。エーリンはすぐに主から注意を戻して答えた。
「フィドレス・ジルトがいらっしゃいました。あそこにいる間ずっとよくしてくださいましたから、当直でいらっしゃるとお聞きして安心したものです。それに、あの、施療所の責任者の修道士様も」
「フィドレス・ヘルマー。他には?」
エーリンは困った顔をして、首を横に振った。
「他には……わかりません。施療所の他の区画にはいらしたのかもしれませんが、私がはっきりとお目にかかったのは、そのお二人だけです」
「はっきりと? では、はっきりとはわからないにしても、他に誰かいたのですか?」
「夜中に、声を聞いたような気がするんです。何か口論するような……。でも、フィドレス・ジルトとフィドレス・ヘルマーだったかもしれません。わかりません。すみません、私、ぼんやりしていて……」
だが、まさにそれこそが肝心なところなのだ。背筋を冷たい汗が伝い落ちて、ミカは密かに歯を食いしばった。もし、そこに誰かがいたのだったら辻褄が合う。だからこそヘルマーは渋々ミカにエーリンを診せることにしたのだし、ジルトが彼を呼びに来ることになったのだ。その誰かは、あのときミカがあの場所を通ることを知っていた。あとは、ユールに彼をロードリー伯爵と誤認させることができれば……。
しかし、答えを得る手立てはない。エーリンは恥じ入ったように縮こまり、その側で、アルティラが威嚇するような目でこちらを睨みつけてきたので、ミカはそれ以上の追及を諦めざるを得なかった。もちろん、エーリンを責めるつもりはない。そのときの彼女の状態では仕方のないことだ。でも……。
苛立ちに駆られ、その辺りを歩き回りたい衝動を覚えたが、足元が不確かでそれもできない。今や部屋は傾いているのみではなく、ゆっくりと回転している。
それでも一歩踏み出してみたが、すぐさまサナンがぎゅっと手を握って彼を引き戻した。これまでずっと置物のように黙ってミカにくっついていたが、黙っているからといって意見がないわけではないらしい。こちらを見上げる表情は、なまじ口に出して言われるよりも正確に意志を伝えてくる。
――だから、そう呆れ返った顔するのやめろよ。何が不満なんだ……てか、言いたいことがあるなら喋れよ!
「あ、あの」
そのとき、控えめな声音に、ミカは再び注意を引き戻される。依然、申し訳なさそうに肩をすぼめたまま、それでもエーリンはおずおずと切り出した。
「お尋ねのこととは、関係ないと思うのですけど……すみません。昨日の夜にお目にかかったのはそのお二人だけですけど、その前になら、もうお一方、おいでになった方がいます」
「誰ですか?」
「それが、その、お名前は聞いていなくて……年配の、威厳のある修道士様です。それまで、お食事を運んできてくださったのはフィドレス・ジルトだったのですが、夕方には急に違う方がお見えになったので驚きました。きっと偉い方なんだろうと思いましたが、でも親切にお話ししてくださいました。私がどの程度良くなったのか確かめて、院長に報告する必要があるからと」
「…………」
数瞬、ミカは呆然と彼女の顔を眺めてしまった。正確には、何も見てはいなかった。――どうして、そんなことになったのだ。
脳裏に、修道院の書庫で見つけた様々な記述が駆け巡る。田舎の素朴な修道院、平穏なだけでさして見るべきものもなく、人に注目もされない。それが次第に変わってきた。ここで『奇蹟』が起こりはじめてから――いや、多分、もっと前から。
「――パトレス・ミカ!」
突然鋭く呼ばれて、ミカははっと我に返った。すぐ目の前に、アルティラの美しい顔がある。もう少し近づけば、その蠱惑的な唇に触れそうなほどに……しかし今、それらはきつく引き結ばれて、甘い風情はどこにもない。
「あなた、本当に大丈夫? 気分が悪いんじゃない?」
ほっそりした手が伸びて、彼の腕を掴む。が、法衣の湿った感触に戸惑うように力が抜けた。
ミカはため息をついて、その手をそっと押しやった。まずは、しなければならないことからしていかなくては。
「とにかく……王女殿下、ロードリー伯に警告してください。いけ好かない悪党ですが、それでもこんなやり方で死なせるわけにはいかない……ユールのためにも」
「ええ、わかってる。でもそれはいいから、あなたはちょっとそこに座ったらいいわ。暖炉の前」
「よくありません。急ぐんですよ」
本当にわかっているのかと、ミカは憤然と言った。急ぎだと言っているのに、王女は知らせを送る気配もない。使者なり何なり立ててもらわなければ安心できない。
「その必要はないの。……実際ね、あの男はここにいるのよ」
と言ってもあっちの棟だけど、と、アルティラは少し声を落として言った。どういうことかと目を瞬くミカに、不愉快げに眉を顰めてみせる。
「伯爵家の館は、ここから少し離れているから、大勢を連れて移動するのは大変だって、明後日の結婚式まで、この建物に居座っているつもりみたい。警護のために、頭数がある方がいいなんてもっともらしく言ってたけど、どうかしら。大方、私が逃げ帰らないか見張っているんでしょう。腹の立つこと――でも、おかげでいくらか都合がいいこともあったみたいね」
つまり今この屋敷には、王家の兵とロードリー伯の手勢を合わせた警備態勢が敷かれているわけだ。この地にあって、これ以上のことは誰にもできない。
「……王家の兵の中に、ユールと知り合いだった者はいませんか。ユールはそいつを言いくるめて、警備を突破しないとも限らない」
「あなた本当に、聖職者なんて柄じゃないわね。この旅の警備責任者のハレス隊長は、ユールの近衛隊とは違うところの出身で、接点はないはずよ。それに、私は彼を信頼している。この建物に、誰であろうと近づけさせはしないわ。一応、念は押しておくけど」
「もしユールが現れたなら、それこそふん捕まえて縛り上げておいてください。それでだいぶ問題が片付く」
力を込めて、ミカは言った。あの男の性急な行動さえ防げるなら、他のことはまだ考える時間がある。
だがどうやら、ここでできることはこれくらいだ。ミカはバランスを失わない程度に微かに辞去の礼をした。
「ちょっと!」
しかし扉へ向かおうとしたところで、再び腕を掴んで引き留められる。突然の制止に、膝が崩れそうになるのを何とかこらえ、ミカはつい苛立ちを隠せず言い返した。
「何ですか!」
「あなた、どこへ行こうっていうの」
「は? どこって……」
証拠を探さなければならない。彼の推論が当たっているかどうか、何か確信できるものを見なければ。まずは施療所か。使われた薬の記録……いや、記録になど残していないだろう。実際に、薬品棚をこの目で見てみなければならない。どこかに使われた形跡があるか――どの薬なら、使われた可能性があるか。
それに、修道院の備品の記録。これは確実にあるはずだ。そしてどんな教会組織でも、その扱い方は大体似たり寄ったりである。リドワース修道院ではどうなっているか。もしミカの知っているやり方と、さして違いがないのなら……。
「……戻ります。いくらか……考えなければいけないことがあるので」
だが何よりもまず、ここを出なければ。ミカは肩で大きく息をついた。頭の中にふわふわしたものが詰まっていて、うまく考えがまとまらない。暖炉のせいだ、空気が悪い。外に行って、新鮮な空気を吸えば、気分が良くなるに違いない……。
「考え事なら、ここでだってできるでしょう。いいからこっちへ来なさい」
しかしアルティラは執拗だった。彼の腕を掴んだまま、思いがけない力強さでぐいと引っ張る。転ばないようにするだけで必死のミカに、抗う隙も力もなかった。ついには暖炉の前まで連れてこられ、「座りなさい!」という有無を言わさぬ命令とともに半ば突き飛ばされて、ミカはその場に座り込んだ。
全身の力が抜け、ほっとしたのは、しかし一瞬のことだ。暖炉の前は、想像したほどに素晴らしくはなかった。炎に面した側は焦げ付きそうに熱いのに、体の反対側は凍えている。
冷たい汗が吹き出す不快感に耐えて、目をきつく閉じる。途端、世界がぐるりと回った。
「――やっぱり」
落ち続けているような奇妙な浮遊感の中、何かしっかりしたものが額に当たる。冷たい――けれど柔らかく心地よい、人の手だ。
「熱がある……かなり熱いわね。もう、だから言ったのに! これで気分が悪くないわけないじゃない、どうしてすぐそう言わないのよ。ああ、いるのよね、こういう、もののわからない……何考えて……シアランだって」
何か叱責されているような……しかしそれが何を言っているのか、いまいち把握できない。背筋に震えがきて、ミカはきつく歯を食いしばった。熱なんか、あるわけがない。体中、どこにも温度を感じられない。こんなに寒いのに……。
「寒いの?」
しかしすぐに近くでそう声がして、ミカははっとする。口を開いた覚えはなかった。どうしてわかったのだろう。
「毛布か何か、持ってきてあげる。でも、まずはその上着を脱いでもらわなくちゃ。あなたたちにとって、法衣が命より大事なのはわかるけど、何も濡れているのを無理に着なくてもいいんじゃないの」
こんな鬱陶しいものが命より大事なわけがあるものか。寒いし冷たいし、捨てられるものならとっとと捨てたい。でもそうすると、あとで死ぬほど面倒なことになる。始末書を書かなければ……。
「え? 始末書?」
ミカは今度こそ、きつく口を閉ざした。まとまらない思考を頭から追い出そうとする。既にそれらは彼の意志を離れて、好き勝手に飛び回っているのだ。だったら、何も考えないでいる方がいい。とにかく今は。
天地が動き続けている。もはや、どちらが上なのかわからない。永遠に落下し続けている――と、それがふと止まった。頭の下にクッションが差し入れられる。いつの間にかあの不快な法衣はなくなっていて、代わりに滑らかな手触りの毛布が体を包んでいる。
「参ったわね、本当に具合が悪そう……エーリン、誰かを……どこかに……」
声が切れ切れに、近づいては遠ざかる。待ってくれ、と叫びたかったが声が出ない。人を呼ばれるのは困る、彼がここに生きていることを知られたくない。
「何言ってるのよ、ほとんど死んでいるみたいなものだわ」
呆れたような、けれど確かに心配の滲むその声だけが、急にはっきりと聞こえる。ミカはむっとして、相手を睨みつけたかったが、しかしどうやっても瞼を押し開けることができなかった。
瞼だけではない、体が重くて動かない。既に思考だけではなく、彼には肉体の支配権もないらしい。待ってくれ、と彼は再び思った。ちょっと疲れているだけだ、ほんの少し休んだら、また動ける。このまま目を閉じていて、ほんの少しだけ休んだら……。
再び落下がはじまる。これは良くない、何とか逃れようともがいて――そこで何もわからなくなった。
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