50. 王女の座所
「入りなさい」
扉の厚さにわずかにくぐもって聞こえる、しかしそれは確かにアルティラ王女の声だ。意志の強い、きっぱりとした話し方。
無人の控えの間を通って、ついにその部屋に足を踏み入れたとき、ミカはほとんどその場に倒れ込みそうな気がした。真っ先に感じたのは温度だ。想像通り、王女の居室には暖かい空気が満ちていた。暖炉には火が入れられて、赤々と燃え盛っている。
アルティラ王女は、扉の正面の窓辺に立っていた。豪奢な刺繍の入った分厚いカーテンと対照的に、簡素な生成りのドレスをまとっている。いっそ質素と言えそうな部屋着の上に、柔らかな色合いの毛皮で縁取られた優雅なガウンを羽織っているのはいかにも不釣り合いだが、その無造作さが不思議と絵になる。
彼女の華やかな、どんな大ぶりな宝石にも決して負けはしない美貌は、見る者にどちらかと言うときつい印象を与えるが、そうした装飾がすべて消えてしまうと、アルティラはむしろ愛らしく見えた。昼間、外で見る彼女が王女であるなら、今は星の瞬きの下に現れる妖精のようだ。
だが、ミカが密かに賛嘆している一方で、麗しの王女殿下は彼の見た目を喜んではくれなかったらしい。離れた場所から、不機嫌そうに視線を投げたアルティラは、しかしミカの姿を目にした途端、ぎょっとしたように声を上げた。
「パトレス・ミカ! あなた、一体どうしたの?」
どうしたって。言われて、ミカは改めて自分の姿を見下ろす。まあ、確かに、王女殿下の御前にまかり越していい出で立ちではないかもしれない。先刻の門衛の態度から薄々察せられはしたが、こうして明かりを惜しむことなく照らされている場所に出てくると、かなり残念な有様だ。どうやら森を抜けてくるときに作ってしまったらしい、新たなほつれと汚れを見つけて、ミカは舌打ちしてそれを払った。瞬間、天地が傾く感覚に襲われる。
「…………」
けれど、ぎゅっと手を握る感触が、すんでのところで彼の平衡感覚を引き戻す。不用意に放された手を再び捕まえると、サナンは物言いたげな目でミカを見上げた。
――おまえ……『馬鹿じゃねえの』って思ってるだろ……。
非常に不本意な評価、しかしサナンに言い返す根拠も気力もない。代わりに、ミカは近づいてきた王女に向き直って言った。
「ああ、お見苦しい恰好でお邪魔して、申し訳ありません。ちょっと……忙しかったので」
「恰好なんかどうだっていいわよ! 待って、本当に大丈夫? ひどい顔をしてるわよ」
「昨日あなたに文句を言われたのと同じ顔ですよ。お気に召さないのはわかりますが」
「そういう意味じゃない、すごく顔色が悪いってことよ! どこか苦しいの? とにかく、そこに座りなさいな」
示されたのは暖炉の側にある、詰め物で膨らんだ優美な長椅子で、ミカは凍えた骨の髄が軋むように痛むのを感じた。あそこに腰を下ろせるのなら、何だってする。あそこに座って、あの赤々と輝く炎に当たっていられたら、どんなにか素晴らしいだろう。ただ、一度座り込むと二度と立ち上がれそうにない。ミカは小さくため息をついて未練を振り切り、王女に微かな笑みを見せた。
「朝、約束をすっぽかしたことは、怒ってないんですね?」
「たった今まで怒り狂っていたわ。そろそろ新しい悪口を発明する必要に迫られてきたところだった。でも、一体何があったの? それに……ユールはどうしたの? あなたと一緒ではないの?」
それを尋ねたいのは彼の方だ。あの単細胞がどこへ行ったかさえわかれば……しかしこの様子では、ここに姿を見せてはいないようだ。あまりいい兆候ではない。
「いいえ、私も彼を捜している。ですが、そうお尋ねになるということは、あなたは、ユールが修道院にいないことをご存じなのですね」
アルティラは一瞬、はっとして口を閉ざした。おそらく口止めされていたのだろう。しかしすぐに忌々しげに頭を振ると、吹っ切るように答える。
「そうよ。あなたたちがいつまで待っても来ないから、修道院に乗り込んだの。あなたは夜のうちに姿を消した、あなたの案内役を務めていたユールもいなくなったから、おそらく一緒にどこかへ行ったんだろうって教えてくれた。あなたの荷物はまだあるから、きっとすぐに戻るだろうなんて言っていたけれど。……ユールのこの先のことにもかかわりかねないから、内密にしてくれなんて言われて、ついその気になってしまったけれど、よく考えたら、私は彼に修道院での未来なんて望んでいないのよ。どうでもいいことだったわ」
「誰がそんなことを?」
「あそこの修道院長よ。その辺の修道士を捕まえて締め上げていたら、誰かが呼んだみたい。わざわざ家に呼んで説明してくれたわ。でも、そうは言っても、あの人も、ものすごく心配してるみたいだった。何か事故にでも遭っていたら大変だから、皆で手分けして探しているって」
それで朝、ヘルマーがサナンの家に現れたわけだ。横柄な態度が目立つ男とはいえ、それでも朝っぱらから随分と機嫌が悪いと思ったが、おそらく院長の気分とも連動していたのだろう。アルヴァンはひどく焦っているはずだ。個人としてのミカがどうなろうとアルヴァンの知ったことではないだろうが、彼の修道院内で、教皇庁の特使の身に何かあってもらっては困るのだ。
まして、ユールも姿を消したとなれば尚更だ。
「では王女殿下、ユールはここには来ていないんですね」
「そうよ、当たり前じゃない。もし彼がここに現れたんだったら、今頃ふん捕まえて縛り上げてやってるわよ。私の話も聞かずにただ無視すればいいなんてやり口が通用するかどうか、目にもの見せてやるのに」
念のためアルティラに尋ねてみたが、勇ましい、というよりは荒々しい否定が返ってきただけだった。国で最高の貴婦人が、どうやったらそんな言葉を口走るようになるのか興味が湧かないこともなかったが、ともあれこれは良くない兆候だ――つまりユールは、まだ諦めていない。
「でも……本当に、どうしたのかしら。いなくなったって、どういうことなの。ユールは、この辺りに知り合いなんかいないはずよ。パトレス・ミカと一緒にいないのなら、修道院を出て、一体どこへ行くって言うの」
「どこにいるかはわかりませんが、どこへ行くかは知っていますよ」
半ば独り言のように呟いていたアルティラは、ミカの言葉に目を
「何ですって?」
「王女殿下、あなたの婚約者に連絡が取れますか」
ミカが続けてそう言うと、王女は一瞬、きょとんとした顔になった。どうやら『婚約者』という単語にピンとこなかったようだ。しかし彼女がここにいる理由は、まさにその『婚約者』のためだ。まるで侮辱されたかのように顔に朱を走らせて、アルティラはきつく彼を睨む。
「あなたが言っているのは、ロードリー伯爵のこと? そういう言い方は止めて。確かに私は彼と結婚するけれど、それで彼を何者かにするつもりはないわ。他人は他人で……」
「警備を倍にして、絶対に外へ出ないように言ってください。完全に信頼できる者だけに会って、他は誰も近づけないように。少なくとも、あなたとの結婚が完了するまでの間は、そうしているのが賢明です――殺されたくなければ」
険のある王女の言葉を遮って、ミカは構わず言葉をねじ込んだ。今はそれが最も緊急のことだ。個人的に、ロードリー伯には何一ついい印象を持っていないが、それでも彼に死なれては困るのだ。今ここで、こんなやり方で死なれるのは。
アルティラは再び絶句したようだ。鮮やかな緑の瞳が、探るようにミカを見つめる。そこに冗談や誤魔化しはなく、ただ真剣さだけがあることがわかると、今度は愕然と声を上げた。
「殺される、って……まさか、ユールがあの人を殺しに行くというの? そんなこと彼がするはずないわ!」
「どうしてです? むしろ、彼がしないはずはないでしょう。あなたが政略の都合で、婚約者と呼びたくもない男に嫁ぐというのに、彼がただぼんやりとそれを眺めていると思いますか。もし彼がそういう男なら、そもそもあなただって、彼に惹かれはしなかったのではありませんか」
そして、そう考えれば筋も通る。もしユールがアルティラの結婚に落胆し、泣き暮らして生きるつもりなら、何も王都を遠く離れて、ここリドワース修道院まで来ることはなかったはずだ。
愛する王女の嫁ぎ先の地までやってきた理由は、何も未練ではない。まだ諦めていないからだ。彼の王女に、もっと相応しい運命を――そのためには、どんな罪を犯しても構わない。
「そんな……そんなことはさせられないわ。私たちにはあの男が必要なのだし……それは私だって納得している。ユールだってわかっているはずよ、この国のためには、こうするのが一番いいって」
「単純に、彼にとってはこの国よりも、あなたの方が優先順位が高かったのではないですか。あなたが幸せになれないのなら、内乱が起きようが何千人が死のうが、どうなっても構わないと」
勝手なことだ。ミカは憤然とそう言ったが、一方で、果たしてユールがどこまでそれを認識していたかは疑問があるとも思っている。あの育ちのいい、市井の暮らしにとんと縁がなさそうな青年に、もし今王家が力を失ったときに具体的に何が起きるのかを想像するのは、かなり難しいのではないだろうか。もちろん、『何千人も死ぬ』と頭ではわかっていても、それが街中でどういう形で起こるのかわかっていただろうか。死は戦場だけのものではない。
――これだから、金持ちの坊ちゃんなんか嫌なんだ。頭ん中、空気しか入ってねえからな!
ほとんど罪に近い単純さ、しかし今、ここで起きていることは、ユールだけの責任ではない。もし彼が自分の考えだけで行動していたなら、ロードリー伯は既にこの世にいないはずだ。馬鹿で単純なだけに、何一つ計画などなく、まっすぐ相手を殺しに行っただろう。修道院に身を隠して機会を窺うなどというまどろっこしいことを考えたのは、誰か別の人間だ。
そんなユールを使って、ミカを殺そうとした人間も。
「ユールが……?」
ミカの言葉に、アルティラは一瞬息を呑んだ。とはいえ、それは単純な驚きのためだけではないらしい。彼女の滑らかな頬がぱっと赤くなり、はにかむような表情が過ぎるのを見て、ミカは呆れたものか苛立ったものか判断をつけかねた。――そういう浮かれた話をしてるんじゃない。
「……急いで、彼を見つけ出さなければいけないわ」
しかしもちろん、王女は状況を忘れたわけではなかった。すぐに真顔に戻ると、真剣な眼差しで言う。
「彼が、心から望んでそんなことをするはずはない。それに、させるわけにもいかない。彼を見つけて、私が直接話すわ。顔を合わせて説得すれば、まだ間に合う」
「残念ながら、もうそれも望み薄でしょうね」
少し前なら、効を奏したかもしれないが。そういう意味では、一昨日、偶然に顔を合わせたアルティラとユールが一言も言葉を交わさなかったのは不運なことだった。もしアルティラが、修道院に入ったユールの意図について直接きつく問い質していたら、彼も隠しおおせはしなかっただろう。もっとも、本人もそれがわかっていたから、あれほど彼女を避けていたに違いないが。
「今更あなたに何を言われても、彼は引き返すことはできない。……あなたの影響力を、過少に見ているわけではないですよ。ただ、彼の性格からいって、今になって退くことができなくなったということです。既に、人を一人殺してしまったからには」
再び王女が息を呑んだが、今度は顔を赤らめはしなかった。驚愕の中にも絶望的な表情で絶句する彼女に、ミカは急いで付け加える。しまった、何気なく口走って、少し言いすぎた。
「ああ、ご心配なく。実際には死んでいません……まあ、とにかく今は。ただ、ユールは殺してしまったと信じているはずです。王女殿下、あなたは私よりはるかに、彼の性格をご存じのはずだ。自分の目的のために、誤った犠牲を払ったとして、それは仕方がないと割り切って諦めることができると思いますか――むしろ躍起になって、当初の目的を果たそうとするのではありませんか」
ミカの見るところは、そうだ。良くも悪くも、計算高さといったものを欠片も持ち合わせていない。そして彼がミカに向けていた素直な敬愛は――たとえそれが、彼にというより、彼の位階に対してのものだったとしても――間違いなく本物だった。ミカを刺し殺してしまったと気づいたとき、おそらくは刺されたミカ本人よりも、ユールの方がずっと死にそうな気持ちだったに違いない。ミカの方は、何が起こったかわからないまま倒れたのだし。
暗殺相手を間違えるなんて、あまりにもうっかりが過ぎる……しかしいくらユールが直情的で単純だったとしても、こんなことを『うっかり』引き起こすものだろうか。
「ただ、あなたが仰る通り、すべてがユールの計画でもない。むしろ、彼は利用されているのではないかと思います。ロードリー伯の手を、あなたから引きはがしたい一心で、別の何かに巻き込まれている」
あの闇夜の中、ユールは躊躇いなくミカを刺した。それこそ、ミカが彼の顔を見ることも、何をされたのか気がつく暇さえないほどに。よほどの確信がなければできないことだ。ユールは、あの時間、あの場所を通るのがロードリー伯爵だと信じ込んでいた――誰かが、信じさせたのだ。ユールではない、別の誰かが、ミカを殺したがったのだ。
「別の何かって……どういうこと?」
「それを知るために、あなたの侍女から話を聞きたいのですが、構いませんか。――エーリン」
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