第9章 誰が駒鳥殺したの

49. 始末書の亡霊

 屋敷の門は、既に固く閉じられていた。つい先ほど、目の前の修道院で、就床の祈りの時を告げる鐘が打たれたばかりだ。昼間の暖かさの名残も消え、春夜の冷え冷えとした空気が取って代わっている。


 歯ががちがちと鳴りそうなのを、ミカはきつく噛みしめて堪える。先刻まで汗ばむほど熱かった体は、今は湿った法衣の下で凍えるばかりだ。無理矢理袖を通した最初のうちは、強制的に熱が下がって少しすっきりした気にさえなったが、やはり濡れていいことなんか絶対にない。


 しかし、これを着ていなければ話にならないのだから仕方がない。法衣と聖印は、スワドの司祭の位階を示すものだ。逆に言うと、この二つがなければ司祭の身の証が立てられない。サナンの家で拝借していた、大きさの合わない農夫の服のままでは、この門の先へ入れる見込みはない。昨夜、ぐっしょり濡れた彼の服は、サナンがはぎ取って乾かしてくれていたらしいのだが、目につかないように森の中に干していたから、まだ湿ったままなのだ。


 ――畜生、やっぱ胸のとこ破れてるじゃん……これって貸与扱いなんだぞ。破損で再申請って、あれ確かクソ面倒じゃなかったか? あー、あと始末書……また始末書……。


 法衣と聖印は司祭の魂を現すもの、決して粗雑に扱ってはならない……教皇庁管理部の、煩雑な手続き地獄に落とされたくなければ。


 ――何でだよ俺悪くねえだろ、殺されたんだぞ。ユールの馬鹿野郎、もうちょっとうまく殺す方法なかったのかよ!


 今度会ったらただではおかない。きっちり落とし前をつけさせてやる。


 しかしそのためには、まずこの門を開けてもらわなければならない。ミカは、門の分厚い二枚扉の前を行きすぎ、傍らの通用口の前に立った。夜間の出入りのために開けているか、でなくても門衛がいるはずだ。


 開かなかったので、扉を叩く。二度、三度と繰り返してから、ようやく返事があった。


「何者だ、こんな時間に」


「夜分に恐れ入ります。アルティラ王女殿下にお会いしたい。緊急なのです」


「王女殿下は既にお休みだ。このような時間に無礼であろう。明日出直せ」


「明日で間に合えばそうしますが、緊急だと申し上げている」


 こういうときに声を荒らげても、事態が良くなることはまずない。ミカは平静な声音を保って答えた。もっとも、それほど自制心を働かせる必要はない、苛立って怒鳴るような気力は残っていない。夜の森をつまづきながら横断して、骨の髄まで凍えながら川の浅瀬を越えてきた時点で、もうほとんど力尽きた。とにかく寒い、耐えられない。屋敷の中は暖かいだろうか。きっとそうだろう、何と言っても、王女が滞在しているのだし……。


 不意にぎゅっと左手を握られ、ミカは我に返った。隣で彼の手を握ったサナンが、警告する表情で見上げている。


「では、名を名乗れ」


 まずい、半ば意識が飛んでいた。目下のことに注意を戻そうと、反射的に頭を振って、しかし即座に後悔する。世界がぐらぐら揺れて、余計に集中できなくなっただけだ。それで、何だったか……そう、名だ。


「名は……ここでは申し上げられません。ですが、王女殿下はご存じだ」


 できるだけ、彼のことを知られたくない。生きて動き回っているということが、不都合な人間の耳に入る機会を避けたい。今、こうしている間にも、どこかで姿を見られているかもしれない。


「必要なら、あなたの目で確かめてください。こちらは武器を持っていません――我が主スワドの名に懸けて誓う」


 言って、ミカは数歩扉から退く。その気配が伝わったのか、ややあって扉がわずかに開いた。まずは抜き身の剣身が現れ、何事も起こらないことを確認してから、更に扉が大きく開く。隙のない警戒を見せて現れた門衛は、しかしこちらの姿を見ると、息を呑んで固まった。


 ――おいおい、そんな間抜け面さらすほどひどいんかよ……まあ、ひどいんだろうな。


 一応、自覚はあるのだ。この一日、身なりに構う余裕は欠片もなかった。それでもここへ来る前に、できる限り整えたつもりだったが、さして効果はなかったと見える。位階の証である法衣を切られて穴が空き、あちこちほつれさせている司祭というのは、滅多にお目にかかるものではない。


 少しばかりは気まずくて、ミカは微かに苦笑を浮かべたが、それを見た門衛はますますぎょっとした顔をして、わずかに後じさった。幽霊か何かだとでも思われているのだろうか。


「ご覧の通り、スワドの神に仕える者です。お見苦しい点は申し訳ありませんが、時間がない。中に入れてもらえませんか」


 門衛は、それでもしばらくためらっていたが、ミカが胸元から聖印を引き出して見せると、いくらか気を取り直したようだった。三重円に、それを貫く十字の印は、神の法を現す聖印とされ、悪しきものを遠ざけると言われる。


「し、司祭様ですか……。……聖印に触れるってことは、人を誑かす魔物とかじゃねえよな」


 後半は、小声で独り言のように呟きながら、門衛はじろじろと彼を見た。依然、手にした剣はさやに戻さず、しかし切っ先を地面へと下ろして、ミカに中へ入るよう示す。


「お入りください。ですが、少しお待ちいただくことになります。王女殿下にお知らせして、お伺いしなければなりませんから」


 一応はうやうやしい態度、しかしそれはあくまで司祭であるミカに対してだけだ。ミカが歩を進めると、門衛は眉をひそめて、彼の同行者を見やった――土に汚れたぼろを着た、痩せぎすの子供。


「この子も一緒に。これからの話に必要なのです」


 サナンがそっと彼の陰に隠れようとするのを感じて、ミカは急いで言い添えた。実際、サナンは必要なのだ――今、この子供に手を離されたら、自分がどの程度までまっすぐ歩いていけるかは甚だ疑問だ。夜の森の獣道、ただでさえふらつく足下を、岩だの木の根だのに何度もすくわれて、それでも倒れずこられたのは、サナンがずっと手を引いてくれたからだ。


 もはや体裁がどうとか、自分の新たな性癖がどうとか考える余裕はない。必要なものは必要なのだ。門衛はなおも胡散臭そうにサナンを見たが、それ以上は何も言わず、身振りで門の内側へと招き入れた。


 大がかりな門がある割に、屋敷の前庭はそれほど広いわけではなかった。石の舗装が、すぐ先で車止めを作っている。門の傍らには、目立たないよう設置された小さな小屋があって、今はそこから、もう一人の門衛が出てきたところだ。


「ここでお待ちを」


 最初の門衛は、そう言って屋敷の入口へ向かった。言葉には一応の礼儀があるが、彼が同輩に意味ありげに顎をしゃくってみせた仕草を見れば、彼らがこちらを信用しておらず、油断なく警戒しているのはよくわかる。


 もう一人の衛兵が、威圧的な表情を崩さないまま、剣の柄に手をかけてこちらを睨む。ミカはせいぜい愛想よく微笑んでみせてから、近くの壁に寄り掛かった。そんな顔で監視しなくても、不審な動きをする力はない。正直、一歩たりとも無駄な動きはしたくない。


 背中に当たるものが冷たくて、逆に驚く。もう体は冷え切っていると思っていたのに、まだ冷たいと感じるとは……。


 再び、手を握られる感触がして、ミカははっと目を開けた。目を閉じたつもりはなかったが、一瞬前まで存在しなかったはずの人々がいきなり間近に出現しているからには、そうだったに違いない。一人は先程の門衛、もう一人は、少女だ……見覚えがある。


「司祭様……パトレス・ミカ!」


 少女が彼の名前を呼んだ瞬間、ミカも思い出した。思わず浮かべた微笑みは、今度は心からのものだ――よかった、確かに生きている。


「エーリン」


 今日、慌ただしく修道院の施療所を出て行ったという、王女の侍女だ。昨夜、ひどく具合が悪くなったと聞いたのに、結局ミカは彼女のところへ行けなかった。不可抗力とはわかっていても、ずっと気にはかかっていたのだ。ことによっては、もっとひどいことになっていはしないかと思っていたが、こうして見る限り、今は体調に問題はなさそうだ。


 しかしミカがそう呼んだ瞬間、少女は突然足を止めた。動揺した様子で顔を赤くすると、息を呑んで彼を見つめる。その強張った表情に、ミカも一瞬たじろいだが、すぐに自分の失言を悟った。


「ああ、すみません。王女殿下が、あなたをそう呼んでいらしたので。失礼しました」


 王女に仕える、それも、これほど信頼を得るほど身近に仕えているということは、この娘もそれなりに身分のある出に違いない。主である王女自身はともかく、他人にいきなり名を呼びつけられれば、それは気を悪くするだろう。


「いっ、いえそんなことは! そんなことはありません、どうぞ遠慮なく呼び捨てになさって下さい……!」


 王女の侍女は更に何事か言いかけて、しかしそこではっとしたように言葉を切る。気まずそうに視線を背けて、今度は門衛に向き直った。


「あの、この方は大丈夫です。ありがとうございました。ここからは、私がご案内しますから」


 ということは、アルティラ王女は会ってくれるのだ。ミカはほっとして、小さく息をついた。もちろん会ってくれると目算があったからここまで来たのだが、それでも時間や状況から見て、門前で追い返されてもおかしくはなかった。あとは……王女が、朝、彼が約束をすっぽかしたことを根に持っていなければいいのだが。


 門衛は彼女に敬礼をし、それでも疑わしげな視線を投げて、自分の持ち場へ戻っていった。エーリンは再びミカを見やると、今度はおずおずと言った。


「どうぞこちらへ、王女殿下がお会いになります。でも、あの……大丈夫ですか?」


 心配そうに尋ねられ、ミカは思わず苦笑する。ほんの数日前、明らかに大丈夫ではなかった彼女にこんな風に言われるとは皮肉なものだ。


「ええ。あなたこそ、もうこんなことをしていて大丈夫なのですか? 昨夜まで、随分と具合が悪かったと聞きましたが」


「も、もう平気です。日中は、ずっと休ませていただきましたから……申し訳ないことです」


「あなたのために馬車を飛ばしていたときの王女殿下のご様子から見て、そんな風に申し上げたら、さぞご立腹なさると思いますけどね」


「それは、その、そうなんです……。ですが、もう本当に体は大丈夫なんです。寝ていたり、お気遣いいただく方が、何だか居心地が悪くて」


 その言葉通り、エーリンは落ち着かない様子で、ちらちらと彼の方をうかがっている。ミカが王女に、もう少し彼女を休ませた方がいいなどと進言するのを危惧きぐしているのかもしれない。実際、そうした方がいいには違いないだろうが、しかし無理強いすることでもない。こうして彼女が動いているのを見る限り、確かに調子は悪くなさそうだ。


 大体、他人に物申している場合ではない。調子が悪いというならば、どうもこれは、彼の方がよほどまずいらしい。招き入れられた屋敷の中で、まっすぐに伸びた通路がわずかに波打っている気がして、ミカは一歩ごとに、懸命に足下に集中しなければならなかった。本当は、エーリンにもまだ尋ねたいことがあるのだが、この上、別の話に気を向けている余裕がない。あとで、どこか床が揺れないところに着いてから、改めて訊くことにしよう。


 やがて、エーリンは扉の前に立つと、華奢な腕で軽くその表面を叩いた。


「アル様、お連れしました」


「入りなさい」


 扉の厚さにわずかにくぐもって聞こえる、しかしそれは確かにアルティラ王女の声だった。




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