48. 殺人者の影

「帰ったって……王女のところにか」


 サナンは頷き、ミカは驚いた。昨日は、わざわざ施療所の修道士がミカを呼びに来るほど具合が悪かったはずなのに、今日にはもう床を払って施療所を出て行ったというのか。もちろん、本当にそういう回復をしたのなら喜ばしいし、あり得ないことではないのだが……。


「サナン、おまえは彼女に会ったか? 本当に元気で帰っていったかわかるか?」


 念を押すように尋ねると、サナンは首を横に振った。


「みてない。でも、ばしゃきた。このまえとおなじ」


 この前、というのは、おそらくミカが王女の馬車に同乗して、件の侍女を施療所に運び込んだときのことだろう。王女が急病の侍女のために、道中を急ぐために使った馬車は、王家の紋章が入っていないものだった。そういう意味では、それが確実に王女の意向で動かされているとは断言できないが、それでも施療所にその馬車が横付けにされるのを許されたからには、高位の意志が働いているのは間違いない。王女が迎えを寄越し、修道院が便宜べんぎを図って馬車を通したというのが一番自然な解釈だ。


「ジルトも、そういった」


「ジルト?」


「フィドレス・ジルト。ときどき、はたけにくる」


 あの、施療所の若い修道士だ。そんな名前だったか。昨日、侍女の具合が良くないとミカに告げにきたのも彼だ。


 あのとき、あの若者の様子に不審な気配は感じられなかった。緊急だという言葉通り、ひどく焦った様子で、ミカに施療所へ向かうように頼んできた。自分は王女の滞在先へ話を伝えに行くからと、ミカより先に宿泊棟を出たはずだ。


 あの後、彼に少し遅れて宿泊棟を出たミカは、闇の中で刺された――もし誰かが、ミカを殺したかったとしても、あの土砂降りの雨の中、息を潜めて一晩中待ち続けるつもりだったはずはない。その誰かは、ミカがあのとき、あの場所を通ることを知っていたに違いない。


 誰が知っていたか。朝、ここへきて喚いていたときの台詞から考えて、ヘルマー修道士は知っていた。そしてその修道士も。


「フィドレス・ジルトは、実際に何て言ったんだ?」


 この子供に、抜群の記憶力があるのはありがたいことだ。まるで録音機を回すように――『久遠の塔』の知り合いの研究室には、その手のガラクタが何でもある――相手の発言を確認できる。


 ヘルマーのときと同じように、サナンは再びよどみなく答えた。おそらくは正確に。


「『あの方がお帰りになったんだよ。ここへ担ぎ込まれたとき、おまえもいたじゃないか、エーリン嬢だ。もうすっかり良くなったから、一刻も早く王女殿下のところへ戻りたいんだって言ってさ。……確かに今は良くなったけど、昨日はあんなにひどかったんだから、本当はもう少しここで様子を見た方がいいと思うけどな』」


 サナンが伝えるジルト修道士の口調は、至極無造作な響きだった。彼らが『知恵か足りない』と信じているこの子供が、まさかその一言一句を心に留めているなどと思いもしていないに違いない。ジルトは、ヘルマーなどに比べるとはるかに人が好く、サナンに悪口雑言を浴びせたりはしないが、それでも対等に知性のある人間とは思っていない。


 だがそれだけに、嘘を言っている様子ではない。どうやら、エーリンが今日、王女のところへ戻ったことは確かなようだ。ジルトの口ぶりからは、彼が実際に彼女と言葉を交わしたらしいことが窺える。……最悪、彼女は既に亡くなっていて、遺体だけが送り出されたなどということだってあり得ると想像していたが、そこまでは考えすぎだったらしい。もしそんなことがあれば、こんな軽い口調でサナンに語ることはないだろう。


 そして、エーリンが昨夜、ひどく具合が悪かったというのも、おそらく嘘ではない。これはジルトだけでなく、ヘルマーも言っていたことだ。


 ヘルマー。ジルト。彼らはミカを殺せる。特にジルトにとっては簡単だったはずだ。ミカより先に宿泊棟を出て、そのまま物陰に潜んで、彼が後から出てくるのを待っていればよかった。ヘルマーも条件は大体同じだ。しかも彼は治癒の祈りが使える。心臓を刺されたミカを、生死の狭間で救うことも不可能ではない。


 彼らが殺人者なのだろうか。ジルトに殺される理由はほとんど思いつかないが、ヘルマーには動機がなくもない。新来の司祭に面子を踏みにじられたことを深く恨んで、ミカを殺そうとしたのか。


 昨夜、突発的な出来事でミカが施療所に呼ばれたことを利用して、暗闇で彼を刺した。だが、本当は脅すだけのつもりだった、殺すつもりはなかった。それで慌てて、治癒の祈りを捧げてミカの命を救った……。


 ――うーん……。


 可能か不可能かで言えば、可能だろう。でもあちこち何かがおかしい。たかだか脅しのつもりで、あの土砂降りの闇の中、ミカが出てくるのをじっと待っているものか。まして、迷いもなくまっすぐに心臓を狙ってくるものか。衝動的な憂さ晴らしなどではない、これははっきりした殺意だけがなせるわざだ。


 では、ジルトがやったのか。何らかの理由でミカに敵意を抱き――ほぼありそうにないことだが、絶対にないと断言はできない。何せ、薬草の処方について、地味に脅しをかけたことがある。今となっては不徳の致すところだ――彼を刺したが、後になって怖くて逃げた。位階を持つ者の中に彼の名前はなかったが、神聖言語は位階がなくても学べる。もし彼が、表には知られないが卓越した術者であれば、ミカの命をつなぐことができるかもしれない。


 あるいは、ヘルマーと共謀してのことか。ヘルマーが若い部下に命じて、ミカを刺させた。だが死なせるつもりはなくて、結局本人が登場して、ミカの傷を癒すことになった……。


 ――って、駄目だな。合わねえ。


 悩むまでもない、どれも全部辻褄つじつまが合わない。もしジルトがミカを殺そうと思ったなら、何も雨の中で苦労することはない。ミカが彼に起こされて部屋の扉を開けたときに、さっと刺せばよかっただけのことだ。現場に痕跡が残るのを嫌ったのだろうか。だがあの闇夜、土砂降りの雨の中では、どれだけ慎重にことを運んでも、仕損じる可能性はそれなりにあった。中途半端に傷つけて騒がれる危険を冒すよりは、安全に殺して、あとで現場の掃除でもする方がよほど楽で賢明なやり方ではないか。


 ヘルマーとジルトが共謀していると考えるのもまた、おかしなことだ。それができるなら、暗闇で動き回るより、ミカが施療所に辿り着くまで待っていればよかったのだ。施療所は彼らの仕事場、地の利がある。ミカを建物内に引き入れて、二人がかりで始末して、あとはお互いに口を噤んでおく。夜間、施療所に詰める当直の修道士は一人か二人、もし昨夜、ヘルマーとジルトの二人が担当だったなら、他に邪魔者はいなかっただろう。


 それとも……いたのだろうか? だからわざわざ、ミカを外の闇夜で殺さなくてはならなかったのか。


 ――だから止めておけばよかったのだ、あの若造に知らせるなど!


 不意に、朝のヘルマーの言葉が蘇ってきて、ミカは息が詰まるのを感じた。それを聞いたときから今まで、何とも思わなかった……つい殺人動機に認定したくなるほど憎々しげな言いようだが、それだけだ。


 しかし今、その言葉は突然重要な意味を持ってくる。ヘルマーはミカを呼びたくなかった。余所者の若造の手など、必要ないと思っていたのに、それでもジルトを使いに出した。何故だろう。それだけエーリンの病状が差し迫っていたということか。だがヘルマーの口ぶりは、状況などというよりも、もっと具体的な強制力を示すものだ。


 誰かが、いたのだ。誰かがそこにいて、ミカを呼ぶようにヘルマーに言ったのだ――一体、誰が。


「いっ……!」


 だが次の瞬間、ガンと頭に衝撃が走る。突然の痛みに、ミカは思わず顔をしかめた。後頭部に、何か固いものがぶつかった。何事か。


 気が付けば、彼は真上を見上げていた。角灯の明かりが届かない暗がりに、何かがちらついている。星だろうか。天井があったはずではなかったか……。


 そこにサナンがひょいっと顔を覗かせたので、ミカはようやく事態を把握した。どうやらぼうっとしている間に、後ろに倒れ込んだらしい。起き上がろうとしたが、どうにもうまくいかなかった。頭が痛い――頭の芯がぐらぐらして、平衡感覚がおかしい。


「あたま、だいじょうぶ?」


「その言い方なぁ……」


 サナンに悪意がないのはよくわかっているが、ありがたくない言われようだ。不満を呻きを漏らしたミカに、あのひんやりとした手が触れる。彼の額に手を当てて、サナンは確認するように言った。


「とっても、ねつがある。おきると、またあたまうつ」


 それは今、ミカも身に染みて自覚してきたところだ。頭痛は単に打ちつけたせいではなく、内側から響く感じもある。体の下で、地面が傾いているように思える。サナンの手の冷たさを感じるほど、自分が熱くぬめる空気に取り巻かれているようで気分が悪い。


 ――ああ、くそ!


 落ち着いて考え事もできない。目を閉じて、ミカは懸命にさっきまでの思考を手繰り寄せようとした。頭を打ちつけた衝撃でどこかへ行ってしまった……そんな、術力との接続が悪いポンコツの法具みたいなことがあるものか。そう、何を考えていたのだったか……。


「サナン……施療所には、普通、夜は何人待機しているか、わかるか」


 視界が回るのを見たくなくて、目を閉じたまま尋ねる。少し考える間があった後、サナンが答えた。


「ばらばら。ひとりも、たくさんも」


「昨日の夜は、どうだった?」


 尋ねはしたが、しかし答えが得られないであろうことは想像がついた。昨夜、サナンは雨の中、彼をここに引っ張り込むだけで十分忙しかっただろう。施療所の動向まで窺えたはずがない。


「わからない」


 サナンの答えは予想通り、しかしそこで終わりではなかった。


「だれがいたかは、わからない。でも、いなくなったやつはいる」


「……いなくなった?」


 ミカはぱっと目を開けた。それは予想しなかった答えだ。いなくなった、昨夜――ミカ自身と同じように?


 問いかける彼の視線を前に、サナンは小さく頷いた。


「あの、しんいり。フィドレス・ユール。ミカといっしょに、いなくなったって」


 だが、もちろん一緒ではない。ミカは愕然とした。どうしてここで彼の名前が出てくるのだ。


 目の前に、あの暗闇が戻ってくる。形のない雨音の中、あの闇の塊だけが実体を持っていた。突然どこからともなく現れて、彼にぶつかるようにして胸に刃を突き立てた黒い影。


 ミカはその顔を見ていない。影は目深にかぶったフードの下で俯いて、顔を隠していたからだ。俯いて顔を隠せる、彼よりも小柄な人間――ちょうどこの数日、彼のすぐ側に離れず従っていた姿と同じくらいに。


 その上、それはまっすぐに彼の胸を狙って刺した。ためらいもなく、仕損じもせず、肋骨の合間を縫って正確に。よほどの修練がなければできない。生身の人間を前にして心を保ち、冷静に命を奪うための修練が――騎士の剣とは、そういうものではなかったか。


 ――ユールか。


 あれは、ユールだ。間違いない――ユールが、彼を殺したのだ。


 脳裏で何かが弾ける。ミカは勢いよく体を起こした。急な動きに抗議するように世界が回転したが、それどころではない。


 ――そうか! いや、わからんけど!


 すべての辻褄が合ったわけではない。正直、合わないところの方が多い――それでも、次に何をするべきかだけは、これではっきりした。


 しかし、立ち上がりかけたところで、大きく体が傾く。倒れ込みそうになるのを、強い力がぐいと引き寄せた。薄い布地越しに伝わる、力の割には小さな手の感触。それだけが、今にも靄に包み込まれそうな彼の意識を、辛うじて支えてくれている。


 とっさにその手を握りしめて、ミカは、目を丸くしたサナンに向き直った。


「サナン、俺をここから出してくれ。修道院の門を通らずに、外の街道に出たいんだ。森の中からなら行けるはずだ、誰にも見られずに」


 この子なら道を知っているはずだ。夜闇の中でも迷わずに、彼を連れていけると確信している。


 サナンがいかにも感心しないという顔で、何やら言いかけるのを遮って、頼む、とミカは言い募った。


「マジで急ぐんだ。ユールは二度と失敗できない。あの馬鹿の単細胞が――今度こそ、ベルリアを焦土に変えるぞ」

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