47. 発熱

 何かが顔に触れるのがわかった。冷たい――しかしそれは既に、骨の髄に染み入って、体を震わせる感覚ではなかった。むしろ心地よい。肌を穏やかに冷やしてくれる。


 もっと触れたくて身をよじる。息をつくと、喉に焼けつくような感じがあった。もう寒くはない、むしろ熱い。太陽の下で、じりじりと焼かれているようだ。


 重いまぶたをこじ開けると、真っ先に飛び込んできたのはまばゆい光だ。目を通して入ってきた光が頭の奥に突き刺さるようで、思わず目を閉じてしまったが、それでも何度か同じことを繰り返していると、それはごく弱い、小さな角灯の明かりだと気が付いた。彼の頭の横に置かれたその光を浴びて、馴染みの顔がこちらを覗き込んでいる。ミカは微かに唇を歪めて笑った。


「ああ、おかえり、サナン。……なんか、暗いな」


 たった今まで、太陽が燦々さんさんと輝いて、彼の全身を焼いていたのに。けれど今、彼は狭い納屋で、薄暗い天井を見上げている。太陽はどこにも見えない……なのに体は熱い。燃えるようだ。


「よる」


 例によって、サナンの答えは簡潔だった。その手が優しく彼の額に触れて、ミカは先刻自分を起こした心地よいものの正体を知った。この手だ――昼間、この手に触れたときはあんなに熱かったのに、今はこれほど冷たく感じるのはどういうわけだろうか。


「ねつ」


 再びサナンが冷静に言った。事実を確認するように、更に頬と首筋に触れた後、観察する目でじっと彼を見下ろす。


「いたい? くるしい?」


「いや……」


 言われて、ミカは改めて自分の状態を確かめた。昼間、目を閉じる前は体の内側から凍えて震えがしていたが、いつの間にかそれはすっかり消えていた。今は逆に暑すぎる。しかしどこにも痛みはないし、ひどく苦しくもない。体も動かせる……動きたい気がするかどうかは、また別の話としても、とにかくやってやれないことはない。多分。


「大丈夫、どこも悪くない」


 だがその言葉を、どれほどサナンが信用してくれたかどうかはわからない。特に感銘を受ける様子もなく、無表情で彼をじろじろと眺め回すと、おもむろに立ち上がり、戸板を外して出て行った。


 ――熱……?


 重い腕を何とか引き上げ、ミカは自分の手を額に当ててみた。自分ではよくわからない、けれどそう言われればそうかもしれない。何せ体中が熱いのだ。


 怠い体を起こしてみると、妙な感じに世界がぐらついて、ようやくミカは納得した。この感覚には確かに覚えがある。熱が出ると、こんな風に頭がぐらぐらするものだ。もう何年も経験していなかったから、すっかり忘れていた。


 視界が定まらない。変に暑くて、動くのが億劫で――だがそれは不思議と、嫌ではなかった。むしろほっとしさえしたのは、それが『普通の』感覚だったからだ。動きたくないのは、体が重いからだ。昼間のように、自分の体の動かし方がよくわからないなどという、ぞっとするような奇妙さはなくなった。やっと自分の体を取り戻したような気持ちだ。あの魂までかじりつくされるような寒さに比べれば、いくらか熱がある方がだいぶましだ。


 これはおそらくいい兆候なのだろうと思ったとき、再び壁板の音がして、出て行ったサナンが戻ってきた。手には湯気の立つ椀を持っている。狭い場所を縫って器用にミカの隣にやってくると、無言で彼に椀を突き付ける。


「うっ……。アーブユー入れたな……」


 受け取った瞬間、湯気に感じた匂いに、ミカはつい顔をしかめてしまう。アーブユーは典型的な熱さましの薬草である。腫れや炎症にも効く上、効き方が穏やかで毒性も低いため、小さな子供や体力の落ちた老人にまで幅広く用いられるが、唯一の難点がその香りなのだ。青臭い中に、何とも言えない土の香りが混じる匂いは、人によっては気にならない程度なのだが、ミカはこれが本当に駄目だった。一体どこの誰が、これを最初に薬草だと断じたのか。こんな異臭がした時点で、口に入れるものではないと判断できなかったのか。


 しかし、サナンが強制する目付きでじっと見つめてくる以上、他に選択肢はない。ミカは渋々椀に口を付けたが、一たび温かい液体が喉を越すと、それきり異臭のことは意識から消えた。ひどく喉が渇いていたのに、今まで気がつかなかった。


 一方でサナンは、どうやらそんなことはお見通しであったらしい。使い込まれた古い薬缶から、空になった椀に再び薬草茶を注いで満たしてくれる。次の一杯も一息で消えて、ようやく三杯目で人心地がつき、ミカはため息をついた。


「あー……ありがとな、助かった。つか、もう日が沈んだのかよ。最悪だな……」


 つまり一日、何もしていない。汗で湿った髪を苛々と書き上げて、ミカは小声で悪態をついた。午後、ここに倒れ込んでからは、ほとんど動くこともできなかった。何度か目を覚ました気はするのだが、そのたびに変な夢にはまり込んで、ずっと夢現を行き来していた。動けないなら動けないで、考えることはいくらでもあったのに。


 だが次の瞬間、その苛立ちは霧散する――突然サナンが手を伸ばして、彼の頭を撫でたのだ。


「!」


「ねててえらい。ねるこがいちばんえらい」


「…………」


 赤ん坊か、と言い返したかったが、彼の意志に反して声は出ない。結局、不満の唸り声を立てるのがせいぜいで、ミカはその扱いを受け入れてしまった。


 熱のせいだ、とぼんやり思う。不本意には違いないが、その手を振り払う気力も湧かない。頭の中も、まるで湯気でも詰まっているかのように、熱くてはっきりしないから……それにしても、どうしてこの手は、こんなに気持ちよく触れてくるのだろう……。


「たべる」


 しかし、サナンがそう言って手を引っ込めて、ミカは我に返った。二、三度瞬きして見返し、ようやく相手の言いたいことを悟る。


「ああ……いや、俺はいい。何も要らない。気にしなくていいから、おまえは食えよ」


 思えば、もう夕食時なのだ。ほんの少し靄の晴れた頭が、次第に現状を認識し始めた。


 彼が『殺されて』から、もうじき丸一日が経つ。けれど結局、殺人者は、今こうしてここにいるミカを発見できていない。ならば、次はどうするだろうか。


「ただ、その前に教えてくれ。今日、修道院がどんな様子だったか」


 サナンは少しの間、口を閉ざして彼を見た。無理にでも彼に何か食べさせるべきかどうか思案している様子だったが、ミカが本当にそうした状態でないことを察したのか、やがて彼の問いに答えて口を開いた。


「いそがしい。けっこんしきの、じゅんび」


 突然出てきた華やかな単語には当惑するが、ミカもすぐに事情を理解した。アルティラ王女とロードリー伯の結婚だ。ベルリアの覇権にかかわるこの結婚は、双方共に急いでいるのだ。王族の結婚ともなれば、普通は準備にひと月やそこらかかりそうなものだが、祝宴も手順もすべて省略ということらしい。


「施療所はどうだった? 王女の侍女は」


「いない」


「いない?」


「かえった」


「帰ったって……王女のところにか」


 サナンは頷き、ミカは驚いた。昨日は、わざわざ施療所の修道士がミカを呼びに来るほど具合が悪かったはずなのに、今日にはもう床を払って施療所を出て行ったというのか。



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