54. 暗殺者の心得

「ユール、そいつを殺すな! 今度こそ、本当に取り返しがつかない!」


 聖歌が止まった。人々が一斉に振り返る。彼らが気付かないうちに現れたこの不躾な闖入者に、驚愕の目を向ける。


 修道士の影もまた動きを止めた。まるで雷に打たれたように、その頭がぱっと上がる。フードが外れて露わになったその顔は間違いなく、既に見慣れたユールのものだ。やはり目を見開いているが、しかしその驚愕ぶりは他の者の比ではない。


 小柄な体が微かによろめいたように見えた。蒼白な顔に浮かぶのは恐怖、白昼に悪夢を見るような――けれどそこに、確かに安堵の気色が見えたと思うのは気のせいだろうか。


 確かめる時間はなかった。驚きに無防備だったのはわずかに一瞬のこと、ユールは即座に唇を引き結ぶと、こちらに背を向けて祭壇へと向く。


 まるで魔法のように、その手に剣が現れる。薔薇窓から差し込む光の下、白刃がまるで太陽の欠片のように輝いた。向けられるのは祭壇の前――やはり驚きに打たれ、美々しい衣裳の中で未だ動けずにいる男へ。


「止めろ!」


 突然現れた刃物にどよめきが上がるが、誰も動けない。不意に、ミカは風を感じた――すぐ側を、誰かが走り抜けたのだ。


 ミカの後ろから聖堂へ入ってきたイーサは、素晴らしい速さで祭壇に駆け寄ると、既に抜身となった剣を、まっすぐユールに向かって振り下ろす。本人の先刻の控えめな言辞からは想像しなかった、見事な一撃だ。少しの躊躇も、迷いもない、まっすぐな剣筋。


 突然の攻撃に振り向いたユールは、しかし何の表情も浮かべていなかった。ただ無造作な仕草で剣を振って、イーサの剣を払う。あまりにも素っ気ない、だがその動きには、どこか見る者を慄然とさせるところがあった。剣の重みも、刃の凄みも感じさせない――そのくせ、どんな分厚い鋼の鎧でも、その件に斬れないものはないと思わせる。


 聖堂の高い天井に、剣戟の音が神経を削るような甲高さで反響する。二合、三合と打ち合ったとき、勝負の情勢ははっきりした。刃を絡ませるようにして、ユールは相手の剣を叩き落すと、思いがけない獰猛な動きでイーサのみぞおちを蹴り飛ばした。たまらず膝をつくイーサを見もせず、再び祭壇へ向く。


 そのときになってようやく我に返ったのか、信徒席から喚き声とともに、二人の男が駆け寄ってくる。いずれもロードリー伯爵の子飼いであろう、剣を抜き放ち、めいめいに突き出すが、これはユールにとって、イーサほどの脅威でもなかったらしい。二本の剣を一閃で退け、ユールは切っ先を転じた。ロードリー伯爵は、何とか剣を抜いてはいたが、それを構えるところまでは至っていない。悪魔に魅入られでもしたかのように、ただ茫然と、自分に向けられた切っ先を見ている。ユールが動く。輝く光の刃が、まっすぐにその心臓を貫き――。


「止めて!」


 だが、すんでのところで、新たな輝きがそれを遮る。豪奢な銀糸のドレスを煌めかせ、割って入ったのはアルティラ王女だった。冷たい殺意を漲らせた剣の前に躊躇いなく身を投げ出して、大声で叫ぶ。


「止めなさい、ユール! こんなことは望んでいない――あなたに望んでいるのは、こんなことじゃない!」


 並みの剣士であれば、剣を逸らすことはできなかっただろう。勢いそのままに、アルティラの体ごと貫いて、後ろに庇われた男の息の根を止めたかもしれない。しかしその剣は、地上のあらゆる法則を無視するかのようにぴたりと止まった。輝く衣装の糸一本断つことなく――まるで王女を取り巻く光の輝きに、刃さえも押し負けたかのように。


 少しの間、聖堂は死のような静寂で満ちる。剣を手にしたまま、ユールはじっとアルティラを見つめた。その顔には、相変わらず表情らしい表情は浮かんでいないが、しかし一瞬前までとはまるで別人のように見える。


 無表情の中にあった冷徹さ、頑なさといったものがすべて消え失せてしまうと、彼はぼんやりしているようだった。ぼんやりして――途方に暮れているような。


「……アル様」


「ユール、剣を収めて。それは私には必要がない。シアランにも、このベルリアにも――あなたの剣を汚す必要はない」


「僕は……」


「――取り押さえろ!」


 言いかけたユールの言葉は、しかし怒号にかき消される。アルティラ王女の背後で、いち早く息を吹き返したロードリー伯が憤りも露わに叫ぶ。


 すぐさま、先刻ユールに跳ね飛ばされた二人の男が彼に飛びかかる。傍目には腰が引けていて、あれほどの動きを見せた相手を『取り押さえる』のはかなり無理があると思われる有様だったが、しかしユールは全く抵抗しなかった。引き倒され、剣を奪われて床に押し付けられる。


「一体何だ、この男は! アルティラ王女、あなたにかかわりのあることなのか?」


「彼を乱暴に扱うのは止めて。今すぐ放しなさい」


「たった今、この私を殺そうとした輩をか! そんなことができるものか! 両腕両足を落としてしまってからなら、考えないでもないがな」


「気持ちの悪いことを言うのは止して。彼はもうあなたを襲わないわ。だから放して」


「どうしてそう言い切れる? なるほどそう言い切れるだろう――この男があなたの犬なら」


「何ですって」


 ロードリー伯爵は、まるで汚らしいものでも見るかのような目で、床の上のユールを見やる。憎々しげな表情はそのままに、アルティラに向き直った。


「これが王家のやりようか。手を組むと見せかけて見栄えのいい妻など寄越し、油断したところに剣を突き立てる算段か。よかろう、ならばこちらも相応の報いをくれてやろう」


「! 止めて!」


 伯爵は抜き身の剣を逆手に持ち、自由を奪われたユールの真上に構える。が、アルティラがすぐさまその腕に飛びついて、切っ先はユールを逸れて石の床に当たった。男の目に怒りの炎が輝き、王女の華奢な身体を力任せに振り払う。


「邪魔をするな! よろしいか、たった今から、あなたは私の妻となるのだ。そしてあなたの夫は、女に好き放題させておくような男ではない。特に、薄汚い犬など囲っておくようなことはな!」


 あの男は馬鹿だ、とミカは思った。せっかく拾った命を、どうしてすぐに放り捨てるのか――そうして口角泡を飛ばしてアルティラを怒鳴っている間、ユールが何をしているか、まるで注意を払っていないのだ。


 この位置から、ユールの表情は見えない。しかしその体が一瞬強張り、続いて沈む込むように見えて、ミカは次に何が起きるか察しがついた。おそらく次は、ユールは失敗しないだろう。押さえつけられていることなどものともせず、男たちを弾き飛ばして、光の速さで伯爵の息の根を止めるだろう。彼にはそういうことができると、たった今、この場にいる全員が知った通りに。


 それだけは避けなければ――何よりも、ユールのために。


「それが、躾けられぬ犬には似合いの結末だ。首を切って、王都に送り返して……」


「ですが先に、話を聞いた方がいいですよ。首を落とせば喋れなくなるから」


 ミカが口を開くと、途端に、聖堂内はぴたりと静かになった。怒鳴っていたロードリー伯爵でさえ気を逸らされ、頭を巡らせて彼を見る。この場にいる誰もが、そもそもこの騒ぎを引き起こした彼のことを一瞬忘れていたらしい。


 人々が息を詰めて注視する中を、ミカは祭壇の方へ歩いていった。一段高くなった内陣に足を踏み入れて、辺りを見回す。最後に足下に視線を落とした――まだそこに拘束されているユールを。


 ユールも、顔を上げて彼を見ていた。目を丸くして、夢か現かわからないような顔をしていたが、やがてミカが透けて消えていったりはしないとわかると、その表情が崩れる。震える唇が微かに動いた。


「パトレス・ミカ……本当に、あなたなのですか? 神よ、良かった……!」


「一つも良くねえわ、この馬鹿!」


 半ば反射的に拳を握り締める。膝をつくと、ミカは思い切り相手の頭に拳骨を落とした。鈍い音が響くのにも構わず、今度はユールの襟首を掴む。


「この大間抜けが! おまえな、仮にも人間を殺そうとして、それを間違うとかあるかよ!? そんな状況で人違いって、間違いましたじゃすまねえんだぞ、わかってんのか。いいか、何でもよく確認しろ、確認! それが良識ある暗殺者ってもんだろ!」


 ユールは何とも応えない。ただ心底呆気に取られた顔で、言葉もなく彼を見返すばかりだ。ミカは舌打ちして、忌々しく吐き捨てた。


「あーもう、おまえ全然向いてねえ! この無能が。どれだけ剣の才能があろうが、正しい相手を斬れなきゃ意味ねえんだよ。おまえは馬鹿だから全然だめだ。全然才能ねえんだから――二度と、誰かを暗殺しようなんて考えんなよ」


「暗殺だと!」


 なおも呆然として言葉も出てこないユールとは別に、興奮した声が割り込んでくる。我に返ったロードリー伯爵が目を怒らせるのに、ミカはユールから手を放すと、肩を竦めて向き直った。


「そうですよ。でも、まあ、あなたがそう喚き立てる必要はないでしょう、そこで傷一つなくぴんぴんしているんだから。実際、伯爵、あなたは運の強い人だ。二度まで命を狙われて、二度とも無傷で逃れている。よほど知らぬところで徳を積まれたか、そうでなければ、実に他人の神経を逆撫でする星回りなんでしょう」


 間違いなく後者だろうと思いながらそう言うと、ロードリー伯爵は一瞬、鼻白んだ顔をした。愛想よく言われた言葉を、どう受け取ったものか判断がつかなかったものらしい。しかしすぐに気を取り直すと、肩をそびやかして言った。


「司祭殿、あなたも、この若造は確かに私の命を狙ったと言うのだな。であるならばなおのこと、この無頼者に報いをくれてやってならん道理はない」


「何も、それを止めようとしているわけではないですよ。私にもそんな義理はない。ただ、今すぐ彼の首を刎ねると、あなたにはいささか不満が残るのではないかと思ったまでです」


「どういうことだ」


「知っておきたいとは思われませんか? この馬鹿げた暗殺計画の失敗の裏に何があったのか――あなたに死んでほしいと思っているのが、本当にこの男一人だけなのか」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る