第7章 王女と修道士
34. 修道院の来歴
翌日から、ミカは修道院の文書を一通りさらってみることにした。ここへ来た当初考えていた通り、修道院の財務帳簿に『奇蹟』の正体が隠されているかもしれない――『奇蹟』が起きてから大幅に増えたはずの巡礼者からの寄進などから、隠し金を作っている、あるいは別の何かに横流ししているとなれば、『奇蹟』を捏造する十分な動機ではある――ということもあるが、もう一つ、別の方向から考えたかったからだ。
――もし、『奇蹟』は本物だとしたら。
アルヴァンが兄に語った内容が本当のことなら、これは院長の仕掛けた策ではないし、そしてそれは十分にあり得ることだとミカは思っている。ロードリー伯爵家から修道院長という安楽な地位を与えられ、何不自由なく生きている男が、どうしてわざわざそんな手の込んだことをするだろうか。唯一、積極的な行動としてありそうなのは、不仲の兄に何らかの嫌がらせをすることだろうが、修道院の奇蹟を
実際に、奇蹟は起きるものだ。教会の定義に従えば、奇蹟とは神の行う御業の中で、まだ人に解明されていない法のことだ。人間に理解できないことなど、この世にはいくらでも起こる。考えようによっては、この世には奇蹟の方が多いのかもしれない。
しかし、神の法であるからには、そこには何らかの規則性があるのだ。ある現象が生じるには、それを引き起こす何らかの条件がある。天災はどこにでも起こるが、とりわけ被害を受けやすい地形というのが確かにあるように、同じことが繰り返し起こるということは、何か要因があるはずだ。『奇蹟』を起こす何かが。
――『薔薇の聖女』……か。
古のベルリアの聖女、聖ルージェナの二つ名は、実際の彼女の聖女としての能力とは関係がない。ベルリア教化の象徴としての雅名であるが、しかしこうしてけったいな薔薇の奇蹟の直面すれば、果たして本当にそれだけだったのかと考えてしまう。彼女に、薔薇の花に関する何らかの能力があったのか――あるいは、彼女を
その朝も変わらず、ミカの案内を務めるべく現れたユールに、修道院の古い記録を見たいと告げる。いつか彼がそう要求するであろうことは予想されていたらしく、ユールは特段驚く様子もなく、僧房へと案内してくれた。
「書写室の奥に書庫があります。持ち回りで、修道士の誰かが管理に詰めているはずですから、お探し物はお尋ねください」
修道院の記録をミカに見られることについて、ユールに屈託はない。しかし、別の話題については違った。
「昨日は、手を貸してくれてありがとう。おかげで、病人には大事ないうちに、ここに辿り着くことができましたよ」
王女の馬車を修道院に入れるため、門のところで馬車を降りたユールは、結局その後、施療所にやってきはしなかった。いつもの彼なら、心配して顔を見せるくらいはしてもいいはずだ。
彼のことをよく知っているというには短い付き合いではあるが、それでもこの若い修道士が、善良で気が優しく、他人のために骨を折ることを厭わない性格なのは疑いがない。行きずりの病人だから、自分には関係ないと決め込むことができるとは思えない。たとえ昨日は何らかの理由でミカの元に戻っては来られなかったとしても、今日彼と顔を合わせれば必ず、病人のことを自分から尋ねたはずだ。
だが、そうしなかった。彼女たちのことは口にせず、何事も起きなかったような顔をしている――行きずりの他人などではないからだ。
「は、はい。あの、こちらこそ……」
突然その話を向けられたユールは、何やら意味の取れないことをもごもごと言った。予想はしていたが、準備ができていなかったという様子だ。機を逃さず、ミカはまっすぐ切り込むことにした。
「お知り合いなのですか、ベルリアの王女殿下と」
「…………」
質問ではなく、確認の声音で言うと、ユールは押し黙った。少しの間、何か言い抜ける方法でも考えるかのように黙り込んでいたが、今更誤魔化すこともできないと悟ったのだろう、ため息をついて応えた。
「はい。……私は、しばらく王宮に勤めていました」
「あなたが王女殿下を見知っていたばかりではない、王女殿下も確かにあなたをご存じだった。王宮の一介の使用人を、王族がいちいち覚えているはずはない――かなり、王家の方々に近しいところにお仕えだったのではないですか」
確かに不躾な質問ではある。しかしそれを差し引いても、ユールの反応は激しいものだった。見てはっきりわかるほど背筋を強張らせると、きっと顔を上げてミカを睨む。
これまで、この温和な修道士の顔には見たことのない表情、しかしそれ以上にミカを驚かせたのは、その瞳の輝きの強さだ。ただの激情ではない、もっと鋭く、もっと透徹した――見る者に息を呑ませるほどの、異質な何か。
「俗世のことです。何もかも、もう私とは無縁のものです」
ユールは目を伏せて顔を背けると、念を押す口調で言う。これきり、この話は終わりだという意志を無言のうちににじませていたが、しかしふと思い直したらしく、小さな声で付け加えた。
「……ですが、あの方々に大事がなくてよかった。ありがとうございます、パトレス・ミカ。あなたがいらしてくださらなければ、エーリンは命がなかったかもしれない。彼女のことも、よく知っています……助かってよかった。本当に、あなたに感謝しています」
書庫でユールと別れると、ミカは目に付く修道院関係の文書を片っ端から見ていった。出入り口付近の管理席に座っているのは、ずんぐりとした老年の修道士で、最初こそ警戒の目でミカの一挙手一投足を窺っていたが、やがてミカが本を破損しも盗みもせず、分類を滅茶苦茶に弄りもしないとわかると、再び席に戻って、うつらうつらと舟を漕ぎはじめる。修道士として怠慢といえば怠慢だが、年齢を考えれば責める気にはなれない。
音を立てずに、ミカは小さな窓際に置かれた机に陣取って、手早くページをめくっていった。
――あ……微妙だな。
真っ先に手を付けたのは、修道院に出入りする金の流れを追うことだ。リドワース修道院は、ロードリー伯爵家の
とはいえ、それも『それなり』であり、貴族の若君が放蕩につぎ込めるほどのものではない。伯爵家の御曹司を閉じ込める体裁の立派な檻として、生かさず殺さずといった体でやってきている。
それがここ数年は、いくらか金回りが良くなった。言うまでもなく修道院に『奇蹟』が起きはじめたからで、巡礼者の数と寄進の額は確かに年々増加している。だがそれが、極端な増益と言えるかどうかは微妙なところだった。修道院は新たな収入で、長く手つかずだった聖堂や僧房の改修をし――しれっと院長宿舎の改装も、かなり大掛かりにしているが――増えた巡礼や貧民の救済のためとして、新たな農地を購入している。どれも、修道院として認められる範囲内の財産取得だし、支出も増えている。実際に、『奇蹟』で、思うほどに儲かっているわけでもない。
――まあ、アルヴァンの野郎が遊ぶ金くらいは、儲かってるみたいだけど。
院長に関係する支出も増えている。しかしそれも、『奇蹟』の対価としては貧相なものだ。アルヴァンが貴族の御曹司としてそれなりの遊び方を覚えているとしたら、こんな増え方をしたくらいでは到底満足できないだろう。もし彼が『奇蹟』を捏造したとしたら、今のところ、その効果は彼にとって、かなり期待外れのはずだ。
――でも、だからって、まったくの潔白ですって感じもしねえし……あーくそ、すっきりしねえな。
実に微妙だ。この記録からは、少なくとも金銭的な収支面では、『奇蹟』を捏造するだけの強い動機があったかどうかは判断できないのだ。
苛立ちに鼻を鳴らして、ミカは今度は別の文書の束に手を伸ばした。こちらは、リドワース修道院そのものにはあまり関係がない。地誌や歴史書――ここがどういう土地柄か、この修道院が建つ以前に、ここには何があったのか。
以前は畑と牧草地だった。私家修道院を建てるくらいなので、ここは長らくロードリー伯爵家の領地である。
そのロードリー伯爵家は、今でこそ地方の一領主のようではあるが、実際は諸王の時代、つまりベルリアが今のように統一される前まで遡れる名家である。聖ルージェナがスワドの教えをこの地に広めたとき、彼女に薔薇の花を差し出して神の教えを受け入れる証としたうちの一人なのだ。
新たな教えを受け入れるということは、新たな力を得るということだ。この大陸の果てる地において、スワドの教えに真っ先に帰順したのは現在のベルリア王家である。彼らは教皇庁や、同じ信仰を持つ大陸の他国からの援助を引き出し、ついに全ベルリアの王となった。ベルリア統一の象徴、信仰のはじまりとして名高い聖ルージェナの『薔薇の聖女』の逸話は、実のところ、この流れの最後の一幕だったに過ぎない。
王家がいち早く、外来の信仰を己の利として用いた一方で、他の有力な王たちはなかなか受け入れなかった。彼らは出遅れたのだ。山と大河に阻まれて、大陸の中心から切り離された地形のベルリアの地では、大陸の中心での動きに関心を持ち続けるのは難しい、ましてそれを利用できると考えるのはもっと難しい。
諸侯がスワドの教えを受け入れたのは、既に勝敗が決してからだ。王の権威を受け入れるのはやむなしとしても、せめて自分たちの土地、権益は守りたい故のことだった。王家の方も、すべての諸侯の地所を没収して再編するなどということはできない。諸王は貴族と身分を変えたが、その土地で小さな王としてあり続けた。ベルリアでは、貴族の力が大陸の他の国より強い。それは、元を正せば王から与えられた身分ではないからだ。
貴族は、特に古い貴族は思っている。王家は彼らの支配者ではない、最も力を持つ彼らの筆頭、彼らのうちの一人だと。もし王家がその任に耐えないのであれば、彼らが力で取って代わったとしても、それは何の罪でもないのだ……。
「パトレス・ミカ」
不意に呼ばれ、ミカは書面から顔を上げた。見れば、書庫の管理当番である老修道士が、
「お邪魔をして申し訳ない。ですが、そろそろ正午の祈りがはじまりますので」
修道士の日課である祈りと、それに続く食事の時間、書庫には鍵をかける決まりなのだと言う。一般に、書物というのがどれほど貴重なものなのかを考えれば無理もない。
いつの間にそんなに時間が経ったのかと
――あ、そうだ、昼飯。
その日も厨房で、パンといくらかの食べ物を包んでもらうと、ミカはぶらぶらと建物の裏手へ歩いていった。修道院の敷地内には、もうすっかり慣れた――厨房側の菜園から回り込めば、施療所を経由しなくても薬草園へ入れるのだ。
今日も、薬草園では小さな姿が土と格闘していた。一度耕した場所をもう一度掘り起こし、そこに、手押し車に山と積んだ腐葉土を混ぜては
「おい、サナン! 昼飯にしようぜ」
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