35. 麗しの王女
「おい、サナン! 昼飯にしようぜ」
新たな名に、子供はすぐに馴染んだようだった。ミカの声にちょっと振り返ると、鍬を力いっぱい地に突き立てて、身軽に
実際、『餌付けに』成功したのだということはすぐにわかった。畝を越えて飛んできたサナンは、彼には目もくれずに、真っ先に彼の持ってきた包みに飛びついたからだ。
「何だ、そんなに腹が減ってたのか……って、あっ馬鹿、止めろ!」
声を上げたが、もう遅い。包みの中から、サナンは素早く液体の入った革袋を掴み出した。制止する間もなく栓を抜き、呷るように口をつける……が、すぐにそのまま動きを止めた。ミカは唇を歪めて意地悪く笑うと、その手から革袋を取り返す。
「だから、止めろつったろ。今日は酒じゃねえの。茶を飲め、茶を。身体にいいんだから」
「…………」
「何だよ、その顔。昼間から飲んだくれる気だったのか? ああ、駄目だ駄目だ、茶を飲め。俺もそうするから。……考えてみたら、ここの薬草茶ってことは、おまえが育ててるんじゃねえか。自分で育てたものなんだから、美味いだろ。美味いと思え」
明らかに満足ではなさそうだったが、しかしサナンは異を唱えはしなかった。手にパンを押し付けられると、昨日と同じように薬草園の柵の側に座り込み、無言で食いつく。
その様子を見て、ミカもまた、その隣に腰を下ろした。彼の方は、昼までずっと書庫にこもって動かずにいたから、それほど空腹ではないのだが、それだけに、こうして外の風を感じられる場所で一息つくのは、いい気分転換だ。
とはいえ今日は、それほど爽快な空模様ではない。全体に薄く雲がかかって、陽光が遮られている。それでもあまり肌寒くないのは、風が湿気っているからだ。これから天気が崩れて、一雨来るのかもしれない。
動くものといえば風にそよぐ草か、甲高く
最後のパンを頬張っているサナンの向こうに、優美な姿が見えて、ミカは目を瞬いた。揺らめくドレスの裾を大胆に捌いて、よどみのない足取りでこちらへ歩いてくる。
「ごきげんよう、パトレス・ミカ」
供も連れず、たった一人で現れたアルティラ王女は、そう言いながらも不審そうな顔で、地べたに座り込んでいるミカを見下ろした。一応は王族に対して礼儀を尽くすべく、ミカは立ち上がると、せいぜい愛想よく微笑んで応じた。
「これは王女殿下、再びお目にかかれて光栄です……このような場所でとは思っていませんでしたが」
「ここでなら、あなたを捕まえられると聞いたから。朝から何度か来てみたのに、いなかったけれど」
まるでそれが彼の過失であるかのように、王女は不満げな顔を隠さず言う。理不尽な非難に、内心むっとしたミカだが、一方で興味を
「こんな畑で、一体何をしているの? 教皇庁から派遣された、『久遠の塔』の司祭様が」
どうやら王女は、既に彼の素性を聞き及んでいるらしい。彼女の明るい緑の瞳が、あからさまに観察する眼差しを向けるのに、ミカは肩を竦めて答えた。
「ここの薬草園は、とても興味深い場所なのです。聖都とは植生も違いますし、珍しい薬草も育っている。学ばせてもらえば、他の場所でも大いに役立つと思いまして。王女殿下は、一体どのようなご用でいらっしゃったのですか」
一瞬、間があった。ミカの質問に、王女はすぐには答えず、何やら考えを整理しているようだ。ややあって、まっすぐに彼を見据えると、再び口を開く。
「まずは、昨日のお礼を申し上げるわ。私の侍女を救ってくださってありがとう。あんなことは初めてだったから、私も……びっくりしてしまって」
「ぐずぐずせず、すぐに教会に連れていこうとなさったのは、素晴らしいご判断だったと思いますよ。大事にならなくてよかった。彼女は、もうだいぶ体調もいいのでしょう?」
「ええ。念のため、もう一晩ここの施療所に泊めることになったけど、まあ、元気だわ……あなたの話ばかりするの」
王女は不快気に唇を曲げる。ミカが思わずたじろぐぐらいの無遠慮さで、じろじろと彼を眺めると、呆れたように言った。
「ああ、嫌だ、本当に綺麗な顔ね……あなた、どうして聖職者なんかになったの。顔がいい男の聖職者なんて最悪だわ、女なんかいくらでも引っかけられるし、適当に遊んだら責任も取らず捨てるだけよ。しかも、『久遠の塔』ですって? そんな、馬鹿な女の子の妄想が形になったような人間、この世に存在しちゃいけないわよ」
「どういう偏見です!?」
いきなり存在を否定された。言い返すミカに、しかし王女はなおも疑わしげな視線を逸らさない。
「あら、偏見かしら。そうでもないんじゃない。あなたこそ、胸に手を当てて訊いてみるといいわ、どうして『女性の服の脱がせ方くらいはよく心得て』いるのか」
一瞬、何のことを言われているのかわからなかったミカだが、すぐにはたと思い出した。昨日の馬車の中だ。病人の具合をよくしたいのに、隣で王女にごちゃごちゃ言われるのが鬱陶しくて、ついそう言い返してしまったのだ。とっさに真面目な顔を作ると、ミカは心から誠実そうに言った。
「それはもちろん、神の御業を世に遍く行うためです。病や怪我の前には、男も女もありません。いかなる場合でも、相手が誰でも、適切な処置を取れるよう経験を積むことも、我々に課せられた修行の一つです」
「…………」
「…………」
案の定というべきかどうか、王女は少しも心を動かされはしなかったようだ。いよいよ信用ならないという目付きで、黙って彼を見つめている。
さらにもう一つ視線を感じて、ミカはちらりと足下を見やった。いつの間にか、サナンまでもが
――くそ、このガキ、いつも他人の話なんか聞いてねえくせに、何でこんなことには興味持つんだ? 蹴飛ばすぞ!
神に誓って、王女が言うようなことはない。聖都スハイラスにおいて、『久遠の塔』の神学生というのは、
「……まあいいわ」
気まずい沈黙を破って、王女が言った。諦めたように頭を振る。
「あなたがどんな罪深い女たらしの破戒司祭でも、私には関係ないもの。ただ、エーリンには手を出さないでね。あの子は私が面倒を見ているの。変なことをしたら承知しないから」
「あなたは先程、私に礼を言いに来てくださったと仰いませんでしたか」
苛立ちを隠せず、ミカは唸るように言った。根も葉もないことで一方的に非難されるのは気分が良くない、その上、彼はあのエーリンという娘に対して、何一つ特別な関心は抱いていない。急な病気で苦しんでいるのは気の毒だと思った、素直な善意だったのに、それをそんな風に言われる筋合いがあるか。
言い返された王女は、意外にも、腹を立てはしなかった。目を瞬いて、改めて彼をじっと見やると、やがて微かに笑みを浮かべる。
「あなたって、変な美形ね。にこにこ愛想よくしているより、そういう顔をしている方が、よっぽど可愛いわ」
「な……」
「もちろん、お礼を言いにきたのよ。そう、あなたにも、坊や」
王女の視線が、ミカの足下に落ちる。そこに座り込んでまだパンを
「あなた、この薬草園で働いているんですってね。昨日は、早く薬を見つけてくれてありがとう。おかげで、私の侍女はまた元気になるわ。あなたがいてくれたおかげよ」
王女がわざわざ土の上にまでその身を下ろしたというのに、サナンは何の反応も見せなかった。その場に固まって、じっと相手を見返すばかりだ。ミカはまたしても蹴飛ばしたい衝動に駆られた――せめて、パンを口から離せ。
しかし王女は、平民の子供の明らかな無礼を見逃してくれるようだ。小さく首を傾げて「美味しい?」などと訊いている。サナンが無言で頷くと、小さく笑って手を伸ばし、その白くほっそりした手で、子供の胸元に落ちたパンくずを払ってやる。再び立ち上がった王女は、ミカの視線に気が付くと、小さく肩を竦めてみせた。
「いいのよ、お昼時に訪ねた私の方が良くなかったのだもの。このくらいの年頃の子は、お腹が空いて仕方がないものでしょう」
――あんたも、だいぶ変な王女だろ。
口には出せないながら、ミカは内心で呟いた。王族などというものと近しく付き合った経験はないが、この王女はどうも、その中でも一般的ではない気がする。思い通りに振舞い、周囲が当然自分に従うと自然に思い込んでいる風なのは、確かに誰からも
身分の高い者は
その変な王女は、礼を言い終えても、まだ立ち去る様子はなかった。無意識であろう、両手の指を絡ませたり解いたりして
「もう一つ、あなたにお願いしたいことがあるの――昨日、あなたと一緒にいた修道士のことで」
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