33. 天使と聖女


「それよりさ、そろそろマジで、名前教えてくれねえ? 顔合わすたびやりにくいんだけど」


 修道士たちは口をそろえて、この子に名前はないと言っていたが、そんなことがあるだろうか。名というのは、本人よりは他人の都合だ。この子を育てていたという祖父だって、この子を呼べなければ困っただろうに。


 だというのに、当の子供は首を傾げるばかりだ。手袋から名残惜しそうに目を離してミカの方を向くと、至極真面目に答える。


「ちび」


「違う、それは名前じゃねえ。じいさんは、おまえを何て呼んでたんだ?」


「ちい坊」


「それも違う。そういうのじゃなくて……」


「ぼうず」


「だから、そうじゃない……他には? 他には何て呼ばれたことある?」


「…………」


「ないんかよ!」


 これまでミカは、この子が名を名乗らないのは、単に彼が信用されていないから、名乗りたくないからだと思っていた。しかし今、目の前で口を閉ざしてしまった子供は、本当に他の答えを持っていないように見えた。名前はないのだ――祖父と二人きりの閉じた世界では、それで十分だったから。


 あまり普通ではない……が、あり得ないことでもない。一応は大人に育てられていて名前がないのは珍しいが、単純に生まれたときに名付けられなかったというだけなら、そういう子供はごまんといる。彼自身にしてもそうなのだし。


「ふうん……。よし、じゃあ、今考えるか!」


 とにかく呼び名がないと不便なのだ、彼がつけるのでもいいし、自分で好きな風に名乗ってもいいから、何か名前を教えてくれと言われた子供は、目を丸くして彼を見返した。目だけではなく、口までぽかんと丸く開けていて、明らかに彼の言ったことを飲み込めていない様子だ。


「おい、そんな間抜け面晒すようなことかよ。おまえだって、他の人間に名前があることはわかるだろ? おまえのじいさんはロリックだったし、俺はミカだ。おまえは、何がいい?」


 しかしそう言っても、子供はぴたっと固まったままだ。まあ、そんなことを突然訊かれても、答えに困るのは確かだろうが。


 ミカは、改めて子供の姿を観察した。小さな体に細い手足。体に合わない大きさの、目の粗い布地の作業服のせいで、どうかすると収穫袋か何かに入っているように見えるが、しかし日々の労働で鍛えられているせいか、その肢体は強く、しなやかさが感じられる。もう少し栄養状態が良ければ、きっと大きくなるだろう。短く刈られたざんばらの髪、幼い丸みを残す頬はよく日に焼けて、土汚れがこびりついている。


 何より印象的な、その瞳――朽ち行くものの間から、新しく萌え出る若葉の色。大地の、この世界の命の色。


「――サナン」


 その名は、まるでずっと準備されていたように、自然と彼の口から出てきた。自分でも意外で、ミカはもう一度それを口にしてみる。サナン――今は地方の伝承に残るだけの、古い天使の名。


「サナン。ああ、いいなこれ。おまえ、どう思う? 気に入りそうか?」


 子供は何とか口を閉じはしたが、変わらず困惑した様子でミカを見つめている。とはいえ、ひどく嫌がっている様子でもない。ミカは笑って、砂まみれの小さな頭を雑に撫でた。


「気に入らないなんて言うなよ、これでありがたい天使の御名なんだぞ」


「てんし」


「神の使命を負って地上に下る御使いだ。まあ、教皇庁的にはいろいろ説があるけど、大体そういうことだ」


 大昔、まだこの地上に人が満ちるより前、地上は『悪しきもの』であふれていた。神の法に背き、その絶対を認めない邪な存在は、既に神の救いすら超えていて、神はそれらを『深淵』に一掃するべく、使いの戦士を地に送り出した。天より遣わされた七人の戦士はよく戦い、ついに『悪しきもの』たちをすべて追い払った。神は使命を果たした戦士たちに栄光の翼を授け、天に戻そうとしたが、しかしそのうちの一人だけはそれを望まなかった。天の戦士サナンは地に伏し、大いなる主に向かって願ったのだ。


 ――我が輝ける主、我が永遠なる父よ、どうか我が身はここに留め置かれませ。御身よりたまわりりし尊き使命を果たすため、私は数多のものをほふり、血を流して死を振りまき、この地を焦土に変えました。使命を果たし終えた今、私はそのあがないをしたい。


 主なる神はこの願いを許し給い、地上に残るサナンには翼の代わりに一掴みの種を授けた後、残りの天使を引き連れて、再び彼方の座へ戻っていった。サナンが地に種を振りまくと、岩と岩の間から、ありとあらゆる種類の芽が顔を出した。サナンは岩を砕き、山を崩して苗床を作り、川を引いてその小さな緑を育てた。やがてそれらは成長し、地上のあちこちに広がっていった。創世神話の一節だ。


「つっても、教会の正典じゃない、散逸文書の……つまり、おとぎ話みたいなもんだけどさ。でも、名前にするならそのくらいの方が気楽でいいだろ。ガチの天使の名前なんか、気が重いぞ。それに……おまえには、似合ってると思うんだよ」


 焦土の中から現れる、輝く緑。どれほど汚れた土にまみれても、どんな貧しい土地からも、すっくと伸びて揺るぎない。命を踏みしだく戦士であることを止めて、偉大な農夫へと転じたサナンが見たものは、きっとそういうものであったに違いない。今、ミカが、この子の内側に見るものと同じように。


 ミカの話に、子供は黙って耳を傾けていた。相変わらず内心の読めない顔つきで、じっと何事か考えているようだったが、やがて小さくそれを口にする。


「――さなん」


 口に慣れない言葉を、何とか無理矢理発音しようとしているような言い方だった。もっとも、この子供は大概の言葉の発音に慣れていないのだろうが、ともあれこれは進歩だ。どうやら、これを自分の名として認めてくれる気になったらしい。ミカは至極満足して言った。


「そうだろう、気に入っただろう。よかったな俺が博識でその上趣味もよくて。あとは、おまえの頑張り次第だ」


「?」


「サナンは天の戦士だったんだぞ。山を崩して地を均した、屈強な巨人だ。おまえも、巨人になれとは言わねえけど、もっとがっちり大きくならねえと名前負けするぞ。とにかく、ちゃんと食え。何でも食え。酒なんかに執着してないで」


 この子供に、特段健康上の問題があるとは思っていないが、それでもその体格の悪さは気になるところだ。成長期だというのに、食べ込む量が少ないように思える。せめて彼がここにいる間は、できるだけ食べ物を持ってきてやろう……。


 しかし、彼のその忠告を、子供がどれほど聞いているかは疑問がある。さなん、と再び繰り返した子供は、小首を傾げて彼を見上げる。


「みか?」


「お、おう。何だよいきなり」


 多少驚いて、ミカは応えた。この子に名を呼ばれたのははじめてだ。


「みか、は、なに?」


「何?」


「さなん、は、てんしのなまえ。みか、は?」


「ああ、それは……たいした由来じゃねえけど」


 どうやら、先刻の話は意外な好奇心を刺激したらしい。これまで神の教えになど少しも触れてこなかったであろう子供が、教会の言葉にいくらかでも興味を示すのは素晴らしい進歩というべきかもしれないが……残念ながら、それをいい方向に教化できる話は思いつかない。


「聖ミカリアのミカだよ。聖ミカリアってのは、大昔の聖女だ。『竜退治の聖女』と言われてる」


 雷光を操り、天を衝く長大な聖槍を携えた聖女ミカリアは、『深淵』から這い出したものの一片、邪竜の姿をした『悪しきもの』を打ち倒した。その躯は川に落ち、水をせき止める巨大な岩盤となった。その上に築かれたとされる街が、ギルウェンド王国の都ケネスガルだ。


「街に、でかい聖女の像があるんだ。その足下に捨てられてたから、聖女の名前を半分もらってミカなんだと」


 もっとも、そう名付けた人のことは何も覚えていない。一番古い記憶の中では、彼は既にケネスガルの地下水路で、他の同じような境遇の子供と身を寄せ合っていた。街中の地下に張り巡らされた水路は、暗くて湿気って、増水時には危険な場所ではあるが、路上で暮らす子供たちにはほとんど安全と同義語だ。とにかく雨風はしのげるし、大人に石で追われることもない。


 ケネスガルは大陸有数の大都市だ。大勢の人間が引き寄せられてくるが、暮らしの立たない、貧しい者たちが一番多い。そうして他所から流れてきた親を亡くした子供には、近くに頼れる身寄りはない。あるいは、生計を立てられない親に捨てられる子供も後を絶たない。子供たちを養育する施設もあるにはあるのだが、大体において待遇が悪く、飢えた子供たちは結局路上で食べ物を盗んだり、小金を乞うたりすることになる。やがて『一人前』になった子供たちの振る舞いに手を焼いた当局が、『ドブさらい』と称し彼らを根こそぎ捕らえるのだが、しかしそれで、行き場のない子供たちが街から消えるわけでもない。


 ヘマをやって捕まり、牢獄か、年齢を勘案して劣悪な保護施設か、あるいは後腐れなく街の外に放り出されるかというときに、養父に引き取られたのは十歳の頃で――実のところ、自分の正確な年齢は、彼自身今もわからないのだが――それ以来、ケネスガルには戻っていない。あの頃ほどひどく腹を空かせたこともないし、食べ物を盗んだこともないし、水路に潜り込んだこともない。


 けれど多分、彼の一部は、まだあの場所に属しているのだ。食べられないのは辛い、人から顧みられないのは恐ろしい、どんな小さな怪我からでも、人は簡単に命を落としてしまう、潜在的な命の危険に、知らず反応してしまう――身寄りもなく、周囲から孤立した、痩せっぽちの修道院預かりの子供がこうも気になるのは、おそらくそういうことなのだろう。


 今や教皇庁の名の下に、司祭の法衣を身につけた彼のそんな話を聞いても、子供は表情を変えなかった。澄んだ瞳で彼を見やると、確かめるように言う。


「みか、は、せいじょさまのなまえ。つよい、せいじょさまのなまえ。さなんは、てんしのなまえ」


「ああ、そうだ」


「いいなまえ。どっちも」


 相変わらずたどたどしい言葉、しかしそこには確かに満足そうな響きがある。一人納得したように頷く幼い仕草に、思わず吹き出すと、ミカは再び手を伸ばして、子供の――サナンの頭を手荒く撫でた。



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