32. 贈り物


 ミカがようやく解放されて、ぶらぶらと薬草園へたどり着いた頃には、既に太陽は西の空へと傾きはじめていた。午後の日はまだ明るいが、色に比べて温度がなくて、肌寒さがもうそこまで忍び寄ってきている気配だ。


 例の子供は、今日はここにいた。相変わらず、身の丈に合わない大きなフォークを使い、畑の外れに積んである腐った落ち葉の山をひっくり返している。


「おい、それ終わったらこっち来いよ。キリがいいところまでやっていいからさ」


 声をかけて、ミカは日当たりのいい場所を探した。次第に日が暮れてくるから、陰になりそうなところは寒くて嫌だ。薬草園を仕切る柵の側に座り込んで、持ってきた袋を探ってパンを取り出した。今日も厨房からもらってきたのだ。


 しばらく無心で噛みついていると、子供は手を休めてこちらへ近づいてきた。ミカがパンの固い皮に食いついているのを、怪訝な顔で見る。


「何だよ。その顔。腹が減ったんだよ。結局、今まで昼飯にありつけなかったんだから」


 一応、その苦労は報われたというべきか。施療所の修道士たちの恐怖をよそに、薬を与えられた少女の症状は見る間に回復した。意識もはっきりして、命の危険はほぼないはずだ。


 とはいえ、完全に健康体とも言えない。いくらか弱っていて熱もあり、二、三日は施療所で静養することになった。本人に確認したところ、今までこんな症状を経験したことはなかったそうだから、慢性的な重病ではないようだが、それでもまた起きないとも限らない。しばらくは注意しているべきだ。


 その件はそれで、誰にも異存はなかったのだが、しかしもう一人の来訪者の処遇ははるかに問題だった。


 ――まあ、あんまり普通じゃねえなとは思ったけど……王女様だって?


 気に入りの侍女が施療所に留まることには同意したアルティラ王女は、自分も側に留まると言って聞かなかったのだ。もちろん、修道院側は大いに慌てた。まさか王女を施療所の粗末な寝台に寝かせるわけにもいかない。元々、結婚のためにここへやってくる予定だった彼女のために、ロードリー伯爵が自分の屋敷に場所を用意していたのだが、王女はそこでは遠すぎるとにべもなく拒絶した。


 そうこうしているうちに、病気の侍女のために先行していた王女の馬車に、婚礼の支度を積んだ一団が追いついて、辺りはてんやわんやの大騒ぎになった。結局はアルヴァン院長まで登場して、修道院の道を挟んで反対側、修道院が所有する古い屋敷を提供することで話が落ち着いた。昔、そこそこの財産家だった最後の主が後継者を持たず亡くなって、修道院に寄進された屋敷だ。古くはあるがそれなりに整った作りで、何より彼女の随行者たちも収容することができる。


 しかし正直なところ、その騒動は、ミカには何一つ関係がない。王女の侍女が回復して、時代遅れの修道士たちの手によっても死ぬことはない状態になってから、ミカはそっとその場から逃げ出そうとしたのだが、残念ながらそのときには既に遅かった。アルティラ王女は侍女の病状の証言者としてミカを放さず、彼は渋々アルヴァンと対峙して、これまでの経緯を説明する羽目になったのだ。


 ――ああ、とんだとばっちりだ。あの女、当然みたいな顔で他人を顎で使いやがって……あんなクソ美人じゃなきゃ、許されねえぞあの態度。


 だが、うっかり許してしまったのだ、美人だから……ミカはしみじみと後悔した。彼女が王女であることは驚きではあったが、それ自体は彼の判断に影響していない。むしろ理性では、即刻離れるべきだとわかっていた。王族なんて連中にかかわって、ろくなことにはならない……だがそんな面白みのない意見が、あの優雅な腰つきの前に、何の力があるものか。高慢で繊細な細い頤を辿って行きつく先の、柔らかそうな胸の丸みに比べたら……。


 ふと微かな音がした。呼ばれてやってきた子供が、彼の目の前で足を止めたのだ。


 ああそうだった、と、ミカは本来の用件を思い出した。騒動にかかわったのは、彼だけではない――もちろんこの子供は、彼よりはるかに賢明に、気づいたときにはとうに施療所から姿を消していたが。


「ほら、やる。おまえの分もあるから、食えよ」


 残りのパンが入った袋を突き出す。子供は目を瞬いたが、素直に手を出してそれを受け取った。相変わらず表情はない、しかしその動きからは確実に当初のためらいが薄れていて、ミカは密かににやりとした。だいぶ彼の存在に慣れてくれたらしい。


 その上、子供が自然と彼の隣に腰を下ろして、袋の中を探って取り出したチーズ入りパンに食いつくのを見るのは、ほとんど感動に近かった。人に馴れない野生の小動物を、餌付けで手懐けるのに成功した気分だ。


「さっきはありがとな。どっから見つけてきたのか知らねえけど、おまえがいなかったら、ここの連中は薬を捜し出せなかっただろう」


 捜し出せたとしても、使わせてくれたかはわからない。彼らは心から、それが害になると信じていたのだ。ミカが少女に薬を与えたときは、誰もが青くなっていたし、それで少女が息を吹き返したときは、ヘルマーなどは自分が心臓をやられたような顔をしていた。彼らに悪意はなかった、だがそれだけに固い信念を持って、決してミカに毒薬など渡しはしなかったはずだ。


 礼を言われた子供は、ちらりと彼に視線をくれる。それだけで何も言わず、頷きもせず、再びパンに噛みつく。しかしミカには、子供が彼の感謝を受け入れたことがわかった。彼の方も、この子供のやり方に慣れてきたのだ。


 しばらくは、どちらも口を利かなかった。ただ黙々と、欲求に従って目の前の食べ物を飲み込んでいく。どこかで小鳥が甲高く鳴くが、他には何の音も聞こえなかった。修道院の広場では、王女の一行が新たな滞在先に向かって立ち去るところだろうが、ここにはその喧噪も届いてこない。


 ややあって、ミカは手持ちのパンを食べ終わった。ついでにこれまた厨房からもらってきた葡萄酒で喉を潤して、ようやく人心地がつく。修道院のいいところは、葡萄酒に困らないところだ。特に、ここの修道院で作られたものは絶品だ。飲んだくれるわけにはいかないが、それでもここにいる間、機会を利用してちょくちょく味見させてもらっても罰は当たるまい。


 だがそのとき、ふと視線を感じて、ミカは傍らを振り向いた。見れば、子供は食べる手を止めて、じっと彼を見つめている。


「あ、飲み物が要るのか。おまえにも持ってきたよ、酒じゃないやつ」


 はい、と渡した革袋には、薬草茶が入っている。厨房に常備されているもので、ここで働く者たちが普段から飲んでいるものだ。これならこの子にも飲めないということはないだろうと思っていたのだが、しかし意外にも、子供は袋を受け取らなかった。ただじっと、ミカの手元を見つめている。


「え、何……これがいいの? いや、止めとけ、おまえくらいのガキにはまだ早い。美味くないぞ」


「…………」


「ええ……駄目だって。具合悪くなるぞ」


 子供が酒を飲んで悪いという法はない。まして葡萄酒は教会の祭祀に使うものだから、子供でも時折口にする機会はあるものだ。しかしそれも舐める程度にさせておくのが普通だし、それ以上は体に毒になる。


 しかしミカがそう言っても、子供は諦める様子はなかった。どころか、今度は上目遣いで彼の顔を見つめる――恨めしそうに。


「な、何だよ、そんな顔しても駄目だ。子供は駄目なの!」


「…………」


「…………。ああ、もう、わかったよ! ほんの少しだけだからな」


 この子供に、こんなにはっきり自己主張されるのははじめてだ。驚いて、しかし半ばは興味を惹かれ、ミカは少し味見させてやることにした。まあ、ほんの少しくらいなら、それほど害もないだろうし……。


「……って、あっこら、零れる!」


 だが、気づいたときには遅かった。ミカが革袋を差し出した瞬間、子供はすかさず手を伸ばし、意外な力で強引に奪い取ったのだ。


「おまえ、何しやがる!」


 袋の口から溢れた葡萄酒を避けようとするミカと対照的に、子供はまったくお構いなしだ。そのまま何事もなかったかのように、平然と飲みはじめ

た。革袋の膨らみが、みるみるしぼんでいく。


 本当は止めるべきだったのだろうが、ミカはしばし呆気に取られて、ただその様を見つめてしまった。まったく、とんでもないガキだ。何もわからないふりをして、本当は何でもわかっている。一言も口を利かないくせに、本当に言いたいことだけはしっかり伝えてくる。しかもその『本当に言いたいこと』は、『上等な酒を寄越せ』なのだ……。


「今からそんなで、どうすんだよ……。ろくな大人にならねえぞ」


 だがそう言ってみても、子供は知らんぷりをしているし、葡萄酒が戻ってくるわけでもない。革袋を握り締めて満足そうに息をつく少年を、胡乱に眺めたミカは、そこでふと思い出した。


「そういやおまえ、手の傷はどうなった? 見せてみ」


「…………」


「いや、取らない! 酒は取らねえから! そんなに飲みたいんならもういいよ、あとで気分が悪くなっても知らねえけど。そうじゃなくて、昨日、手ぇ怪我したろ。あれ大丈夫だったか」


 何せ自分の『治癒の祈り』には、甚だ信用が置けない。


 酒を取り上げられないとわかった少年が、ようやく差し出してきた手を、ミカはざっと観察した。ありがたいことに、大半の傷は消えている。二、三本、赤い筋が走っているのは、昨日癒し損ねた比較的深い傷が、完全にふさがっていなかったせいだろうが、それも既に色を失いかけている。それほど痛みはしないはずだ。


 今のところは、良かった。しかしこの先、この子は何度でも同じような怪我をするはずだ。そうして手を鍛えるのが仕事を覚えることだと、職人などは言いそうだが、馬鹿げたことだとミカは思う。どんな小さな傷でも、命取りになる可能性は常にある。怪我なんて、しなければしない方がいいのだ――まして、少しのことで防げるのなら、なおのこと。


 ミカは上着の内側を探った。朝、それを手に入れてからずっと持っていたのだが、いろいろあってすっかり忘れていた。子供の膝の上に、ぽんと投げてやる。


「それ、やるよ。今度から、手に刺さりそうなものを触るときは、ずっと嵌めてろ」


 焦げた茶色の皮手袋は、今朝、王女の馬車と行き合う前に町で手に入れたものだ。艶のない皮で作られた武骨な作りだが、その分厚手で、作業をするには安全だ。子供用の小さなものが、すぐに見つかるかは心配だったが、店にちょうどいいものがあったのは幸いだった。


「…………」


 子供は、目を丸くしてそれを見た。次いで、同じ表情で、今度は彼を見上げる。先刻、相手の振舞いに呆然とさせられた分の仕返しができたような気持ちで、ミカはにやりと笑って顎をしゃくった。


「ちょっと嵌めてみろ。大きさ、多分合ってると思うけど」


 子供は目を瞬き、それから急いで、持っていた革袋を地面に置いた。両手をこすり合わせて汚れを落とすと、皮手袋を恐る恐る持ち上げる。それから意を決したように、片手を突っ込んだ。


「ああ、いいな。ちょうどいい」


 その仕草に、思わず笑みを誘われながら、ミカは明るく言った。どうやら、喜んでくれたらしい――この子をよく知らず、彼のやり方に慣れていなければ、笑みの一つもないこの仕草を、困惑か警戒のようなものと受け取るかもしれないが、ちゃんと見ていればはっきりわかる。枯葉色に混ざる若葉のような緑が、その瞳に鮮やかに浮き上がって見える。


 本来ならこういうものは、修道院が備品として支出して然るべきものだ。しかしここの人間がそんなことを気にかけるわけはないし、この子供自身も、それを不都合と言い立てはしないだろう。この子は、治癒の祈りを知らなかった。今まで傷を癒されたことなどないのだ。ミカがここを去ってしまえば、また手を傷だらけにして、黙々と働くだけに違いない。


 今までずっと、そうしてきたはずだ。今になって、ただの客である彼が、殊更親切ぶって気にかけることではない……けれどその予想は、どうにもミカの気を重くして仕方がなかった。


 だからこれは、彼の利己心の贖いだ。自分の罪から、無力から、ほんの少しだけでも目を背けたいだけだ。この子を救えるわけではない。ここから連れ出して、年相応の幸せを与えられるわけではない――望みもしないのにこの世に生まれてきて、辛いことしか知らない、他の多くの子供たちと同じように。


「……ありがとう」


 小さな、少し風でもあればかき消されてしまうようなかすれた声で、子供が言った。その響きは、彼の耳以上に、心をざらりとしや感触で削ったが、ミカは黙ってやり過ごした。考えても仕方のないことで落胆するのは時間の無駄だ。まして、この子供は心から感謝してくれたのだろう――それが気に障るなんて言うのは、どう考えても筋が違う。


「何だよ、酒が入るとちゃんと喋るのかよ。ていうかそれ、まさか酒の礼じゃねえよな」


 わざと冗談めかして応じる。子供は再び黙って、手袋を嵌めた手に視線を落とす。物珍しそうに手を握ったり開いたりしているその様子を、横目で見ていたミカは、ふと心づいて問うた。


「それよりさ、そろそろマジで、名前教えてくれねえ?」



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