31. 我が父祖の地


「もう何年も、使った者も、使おうと思った者もいないんです。昔の貯蔵表に名前だけはあった気がしますが、今はどこにあるのか……とうに廃棄されたかもしれません」


 しかしその声には、事実の説明という以上に怯えた響きがある。やはりどうあっても、猛毒は恐ろしいらしい。ミカはいらいらと歯噛みした。言い訳するな、あるのかないのかわからないなら、とっとと倉庫にでもどこでも行って、そこらのものひっくり返して探してこいと怒鳴りかけたとき。


 ふと、視界の端で何かが動いた。開きっ放しの小部屋の扉から、音も立てずに滑り込んできた小さな姿に、ミカはついあららげかけた言葉を呑み込む。薬草園の、あの子供だ――そう言えば、先刻彼が施療所に踏み込んだとき、この子供の姿もあったような気がする。今、目の前にいるこの若い修道士と一緒に、瓶の並んだ棚の前で、床に座り込んで枯れたつただか何かをむしっていた……。


 子供はそのまま、すすっとミカの方へ寄ってくる。その手に握った小さな薬草瓶を、無言で彼の方へ突き出した。古びてすっかり曇って、中はよく見えないが、黄ばんだラベルはまだぎりぎり読み取れる。


「あっ! おまえ、それどこから見つけてきたんだ!」


 ミカとほぼ同時にその中身に気付いたのだろう、若い修道士が声を上げる。彼の名誉のために言えば、それは決して叱責や、自らの気まずさを覆い隠そうとするものではなかった。純粋な驚き、そしていくらかの安堵――彼は本当に、ギダの実の在りかを、存在するかどうかも含めて知らなかったらしい。


 まあ、それも無理もない。サークスの方はまだ日々使われた形跡があるが、ギダの実の小瓶はべたついて埃にまみれ、長年誰からも忘れ去られていたことが容易に知れる。瓶自体もかなり小さく、おそらく以前、大半を廃棄した際に『何かのために』少量だけ取っておいたといったところだろう。


 だが、その少量で十分すぎるほどだ。栓を開け、中の干からびた粒を確かめて、ミカはほっとした。これがあれば、とにかく次の手が打てるのだ。


「ありがとう、助かった。秤を貸してくれますか。そうすれば――」


 だが、最後まで続けることはできなかった。ミカが言い終わる前に、新たな障害が憤然として現れたのだ。


「一体、何事だ! 勝手な真似は許さんぞ!」


 既に開いている扉を、不必要な音を立てて押しのけると、ヘルマー修道士は大声で喚き立てた。怒りに満ちた目で室内を一瞥すると、即座にミカを睨みつける。


「またあなたか、パトレス・ミカ! 今度は何をつつき回そうとしているのですか」


「病人を連れてきただけですよ、フィドレス・ヘルマー。ここは神の名の下に、万人に開かれた施療所です。そうではありませんか?」


「その通りです。だが、やり方を知っているのは我々だ。病人はこちらで引き受ける。あなたは余計なことをしないでいただきたい」


 どうやらこの数日の間に、ミカはこの施療所の責任者からだいぶ反感を買ったらしい。こうもあからさまに敵意を見せられるのは意外だったが、しかしここで、はいそうですかと言うわけにもいかなかった。ここのとんでもなく時代遅れの修道士たちが、一体何のやり方を知っているというのか。


「ここのやり方に干渉する気はありませんよ。あなたはあなたのやり方をすればいい。でも、彼女は私に助けを求めてきたのです。みすみす死なせる気はありません」


「無礼な! 我々には手に余るだろうと言うのか。『久遠の塔』の出だか何だか知らないが、現実は本の通りにはいかない。いくら知識があっても、それをひけらかすばかりでは、実際の現場では何の役にも立たないのだ」


「そういう台詞はせめて、知識を得てから言ってくれ。百年前の古文書を暗唱していることばかり自慢するのではなくて」


 何だってこの忙しいときに、程度の低い生きた化石など相手にしなくてはならないのか。ミカがいらいらと言い返すと、ヘルマーは一瞬、横っ面を叩かれたような顔をした。しかしすぐに、怒りで顔を赤黒くしながら怒鳴る。


「とにかく! 私の施療所で好き勝手なことはさせんぞ。分別のない馬鹿な若造が、病人を毒殺するのを見てはおれん!」


 ――殺すならおまえを殺すわ! 今すぐ化石にしてやろうか!


 しかし困った。どうすれば、このとんでもない障害物を排除できるだろう。もはや、適当におだてて言うことを聞かせる戦術は通用しない、少なくともかなりの労力をかけないと成功しない。まして、正面から新しい薬草学の理屈を説いて納得させることもできない。宇宙が終わるまでかかってしまう。


 ――あー、もう面倒くせえ。


 ミカは素早く状況を確認した。幸いにも、ヘルマーは一番扉に近い位置にいる。不意打ちで殴り飛ばして締め出すことができる。抵抗されないうちに、もう一人の修道士も追い出して……でも、薬草を量る秤がいる。ならヘルマーをもう一度殴って人質にして、言うことを聞かせれば……。


「止めなさい!」


 鋭い制止の声が上がった。ミカは思わず、一歩踏み出しかけていた足を止めてしまう。


 振り向くと、寝台脇に膝をついていた若い女が立ち上がっていた。すっと背筋を伸ばした立ち姿に、室内の人間すべてが目を奪われる。


 しかし、どうやら制止は、ミカの実行しようとしていた原始的な問題解決法に対するものではなかったらしい。その燃えるような緑の瞳は、まっすぐにヘルマーを見据えている。驚いた室内の沈黙を当然とする態度で、女はきっぱりと言った。


「これ以上は、もう結構。修道士、ぐずぐずしないで、すべてこの司祭の言う通りになさい」


「な……あ、あなたの口を挟む問題ではない!」


「私の侍女の命がかかっているのよ。あなたこそ、口を挟むべきではないわ」


「その命を助けてやろうと言っているのだ! この若造の言うことを聞けば死んでしまうぞ」


「この子の命は私のもので、私はそれをその若造にかけたの。わかったら、さっさとその口を閉じて言う通りにして。でなければ、邪魔をするのを止めなさい。今すぐに」


 高慢な物言い、しかしその言い方は彼女の身によく馴染んでいて、不思議と聞く者に耳を傾けさせる雰囲気がある。ミカは目を瞬いた。先刻、慌てふためいて馬車から転がり出てきた彼女とは別人のようだ。


 しかし、頭に血が上ったヘルマー修道士には、その変化を察することができなかったらしい。ますます怒りを掻き立てられ、今度は彼女に向かって声を荒らげる。


「何も知りもしない女が、生意気な口を利くな! ここは修道院だ、女の出る幕はない、黙って引っ込んでいろ!」


「いいえ」


 だが、面と向かって罵られても、女に動揺する気配は微塵もなかった。その美しい唇を微かに歪めると、氷のような微笑を浮かべる。唾棄するような、嘲笑するような笑み。


「いいえ、修道院ですって? 違うわ、ここはベルリアよ――私の父の国、私の兄の国。神には敬意を払うけれど、その無様な下僕ごときが、私に何を言おうというの?」


 誰かが息を呑む音がする。女は一同を睥睨する目で見回すと、凛と揺るぎない声で告げた。


「直ちに全員、やるべきことをやりなさい。ベルリア王女アルティラ・アルバ・ベルリアが命じます――神の御名にかけてこの地の主、我が父祖の名において」



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