18. 野心と不和


 アルヴァンの声は低められてはいたが、その明るい調子には、場と話題に似つかわしくない軽薄な響きがあった。おもねるような、だが同時に、どこか揶揄やゆのこもった言い方にも聞こえる。


「…………」


「ああ、そんな顔をしないでくださいよ。私はこうしてあなたのために働いているではないですか。この修道院は私のものだ、一度王女が聖堂へ入れば、私が認める婚姻を、誰も妨げることはできない」


「お前が怠惰に遊び暮らすのでなく、位階を得ていたなら、その言葉ももう少しはあてになったが」


「……私が位階を得ていたら、もはやハノエル家の人間ではない。あなたに協力する謂れは、一つもなかったはずですよ、兄上」


 室内に落ちた沈黙は、立ち聞きしているミカにさえ触れられそうなほど、固く重苦しいものだった。毒々しい空気が、室内にいる人間たちを自家中毒に陥れたのではないかと疑われるほどの時が過ぎて、やがてロードリー伯の声が聞こえた。


「くれぐれも、出し抜かれるなよ。とにもかくにも、教皇が直々に寄越した、『久遠の塔』出の司祭だ。あんな顔で、何か腹に一物ないとも限らん」


「まあ、およそありそうもないですがね。せいぜい、彼の『調査』に協力するとしましょう。ここで『奇蹟』を直に拝みさえすれば、満足して聖都へ引き上げてくれるに違いありません」


「その件だが、大丈夫なんだろうな」


「何がです?」


「『奇蹟』だ――あの若造は、『奇蹟』を握りつぶすことだってできるのだぞ。何か、不都合なものが出てくることはないのか」


 いよいよ息を殺して、ミカは会話の成り行きに耳を傾けた。ロードリー伯が言いたいことは明白だ――『奇蹟』の仕掛け、偽りのからくりが露見しないかという意味なのだ。


 ――いいぞ、それさえ解りゃ、とっとと帰れる。


 だが、アルヴァン院長の答えは、ミカの予想、あるいは期待とは違った。明るいが、決して面白くはなさそうな声を上げて、アルヴァンは笑ったのだ。


「そのようなことまでお気遣いいただくとは、全く痛み入ります。ですがご心配は無用ですよ。あなたの心の安らぎのために言いますけどね、ゼオン、あれは全くの『奇蹟』なのです。種も仕掛けもない――少なくとも、私が仕掛けたわけでも、知る限り、誰が仕掛けたわけでもありません。ご満足いただけましたか」


 本当だろうか。もちろん嘘の可能性もある。アルヴァンが、明らかに良好な関係ではない兄に対して、全てを正直に明かすとも思えない。だが、アルヴァンがここで兄を偽ったとして、多少の反感が満たされたという以上の利益があるだろうか……。


 一方で、ロードリー伯爵は、ミカほどにはこの告白に関心がなかったようだ。興味を失った平板な声で、よかろう、と言った。


「では、おまえの仕事は、若造にあることないこと告げ口されぬよう、ご機嫌取りに励むことだ。お前にお誂え向きの務めというわけだ――父上にねだって、この修道院をせしめた手管にしてみれば、大した労でもなかろう」


「おお、伯爵家の何もかもをお持ちの兄上は、父が寄る辺ない下の息子に示したわずかな思いやりさえ惜しいと仰る」


「アルヴァン」


「仰る通りに致しますよ、これまでずっとそうしてきた通りに。でも実際、あの天使のような坊やには、神へ祈る以外に何もできはしませんよ。教皇庁内に、有力な縁故がある様子でもない――彼の入信の師は、一介の田舎司祭だと聞きました。『久遠の塔』を出たのなら、もう少しましな伝手つてがいくらでもあるでしょうに、手繰たぐってみもしないとは、まことに……純真なことだ」


 確かに、そういう向きはなくもない。教会組織でより高い位置へ、より早く到達しようと思うなら、有力者の派閥に潜り込んで引き立てられるのが一番手っ取り早いからだ。『入信の師』とは言っても、実際に誰の名を名乗りに使うのも本人の自由だから、時流に沿って、二度三度と名乗りを変える輩もいる。


 だが、そうしないからと言って罪ではないし、ミカに、『上』にあることないこと告げ口して信じさせる能力と機会がないわけでもないのだ。


 ――あいつ、俺の話わかってねえのかよ。『特任』つったろ……誰に復命すると思ってんだ。


「そう決めつけることはできんぞ」


 ロードリー伯は、弟の楽観的な意見を鵜呑みにはしなかった。けれどそれは、ミカの能力や立場を評価するのとは全く違う理由らしい。


「傍からは窺い知れん、どんな繋がりがあるかもしれん。あの姿だ――それに、今の教皇は女だと言うではないか」


 ――!?


「ああ、そうですね。確かに、あれは女が入れ上げる類の顔ですよ。もしかしたら、男でも」


 ――死ね!


 腹の底から怒鳴りたくなる衝動を何とか抑え込み、ミカは歯噛みした。……実のところ、そういう当てこすりを言われるのははじめてではない。生まれたときからこの容姿で生きてきているのだ。正直に言って、慣れていると言ってもいい。


 慣れてはいるが、しかし、愉快なわけでは決してない。しかも面と向かって言われたなら、思うさまやり返して留飲を下げることもできるが、今この状況では、罵声の一つも返せないのだ。


「なるほど、あの可愛い坊やにそういう手管があっても不思議ではない。むしろ、あんな世間知らずがやってきた理由として納得しますよ。誰にどんな美味しい思いをさせたやら」


「おい、妙な気を起こすなよ。たとえ誘われてもだ。面倒事を起こしてみろ、ただではすまさんぞ」


「まさか。ここをどこだとお思いです。修道院においては、あらゆる快楽と堕落は決して存在を許されません。あなたこそ、お気を付けになった方がよろしい。今から結婚なさろうという方に、相応しくない醜聞が持ち上がっては、きっと新妻は喜びますまい」


 ――は、何? そういう趣味なの? ああ畜生、どうでもいい! この、神も呪い給う下衆どもめ、くたばれ!


 しかしどうやら、そのやり取りは真実に基づいたものではなく、この兄弟には常らしい毒に満ちた応酬のようだ。弟の悪意を冷然と無視し、ロードリー伯爵は立ち上がった。床が軋む音。


「ことが成るまで、あの若造から目を離すな。何でも好きにやらせて、こっちに首を突っ込まないようにさせろ。我が一族に連なっていたいと思うのなら、少しは働きを見せるがいい――父の遺産を食い潰すだけではないとな」


 足音が歩き去り、扉が開閉する。


 少しの間、辺りには何の音もしなかった。しかしやがて、立ち去った足音が戻っては来ず、十分遠くへ行ったと確信できるほどの時間が過ぎたとき、突然鋭い叫びが上がる。次いで、何かがどこかに叩きつけられる音。


 怒りに満ちた足音が、最初の足音とは別の方向へ遠ざかり、荒っぽくドアが閉められる音がした後は、ついに人の気配が消えた。



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