19. 遭遇
強張った身体をほぐすように小さく息を吐き出してから、ミカもまた静かに動き出した。中の連中が気を散らしている間に、抜け出すのが得策だ。
――あのうすら馬鹿どもが、ただで済むと思うなよ。誰に喧嘩を売ったか教えてやる……教皇勅書で、横っ面引っ叩いてやるからな!
折しも連中は、教皇庁に介入されたくない計画を遂行中らしい。少し前なら、修道院の奇蹟に関する自分の任務以外のことはどうでもよかったが、今や事情が違う。
――ベルリアが、あなたのものになるまでは。
そのための、王女との結婚だ。すでに王位に野心を見せている他の大貴族は、自身が王家の血を引く者たちだと聞いている。地方の雄ではあるが、王国の中心へ至る道を持たないロードリー伯は、王女を手に入れることで、恰好の大義名分をも手に入れられる。ベルリアにも女王の先例があるから、先王の娘には当然、王位継承権がある。他の貴族たちを押しのけて、一気に玉座の近くまで迫れるだろう。
建前上、教皇庁には、各国の国内政治に関与する権限はない。だが実際にはもちろん、いくらでも干渉しようはある。たとえば王女の出生まで遡り、嫡出の認定を取り消して、継承権を否定するとか。あることないこと並べ立て、この結婚は近親婚だと世間に触れ回るとか……。
――ああ、ダメだ、こんなお行儀のいいやり方じゃダメだ。もっと、あの野郎どもが生き恥晒すようなやつじゃないと……。
再び門扉を押し開ける。気分としては勢いよく蹴り開けたいところだったが、そんなことはできないのがまた、苛立ちに拍車をかける。音を立てないように注意して、ミカが再び、元の通りに鍵をかけようとしたとき。
「!」
背後に、誰かがいる。音はしない、だが確かに感じる。誰かが――見ている!
考えるより先に、体が動いた。振り向いて確認などしない、感覚を頼りに一息に襲いかかる。暗がりにいた影の襟首を引っ掴むと、力任せに壁に押し付ける。
抵抗はほとんどなかった。どころか、まるで空を掴むような手応えだ。あまりにも軽い――あまりにも、小さい。
「…………」
影がわずかに息を漏らした。伝わってくる感触のか弱さに、つい力を抜きそうになるが、慌てて思い直し、ミカはいよいよきつくその喉元を締め上げる。ここで大声でも出されたら、厄介なことになる。
弱い月明かりの下で、ミカはようやく相手の正体を知った。彼の胸ほどまでしかない小柄な体。表情までははっきり見えないが、大きく見開かれたその瞳が、彼を見つめているのははっきりとわかる。細い首筋、やせぎすで、目ばかり大きい――子供。
「おまえ……薬草園のガキか」
昼間、施療所付属の薬草園で働いていた、あの子供に間違いない。修道院の預かりになっているということだったから、他の出入りの俗人のように、夜になったら町へ帰るというわけではないのだ。
「ここで、何してる」
「…………」
答えはない。子供はその場に固まったまま、ただ彼を見上げている。この子は口が利けないのだと、修道士たちが言っていたのを思い出した。皆、そう信じている――この子供は、皆にそう信じさせている。
――そうはいくか。
「おい、答えろ。黙ってやり過ごせると思うなよ。俺をここの間抜けどもと一緒にするな――おまえ、ちゃんと喋れるだろうが」
薬草園で一度だけ聞いた声はひどく小さくかすれていたが、それは身体的な障害ではなく、普段から声を出しつけていないせいだろう。ヘルマー修道士は、この子の知能に問題があると思っていたようだが、それもまたあり得ないことだ。自分に命じられたことを理解できる、彼らの会話の流れも理解できる者が、しかしそれを聞きながら一言も口を挟まず黙っていられるというのは、相応の知性のなせる業だ。
第一、あの薬草園を見て、その管理者に知恵がないとは絶対に言えない――種ごとに最適な土を与え、芽吹いたすべての葉をあれほど生き生きと輝かせるには、よほど周到な計画と綿密な注意が必要なはずだ。
「…………」
だが、それでも子供は答えない。ミカが締め上げる手に更に力を込めても、何の音も発さなかった。丸い瞳は、何の感情も示さず、ただ彼を映しているばかりだ。
と、そのとき、何かが小さな音を立てて地面に落ちた。袋と言うのも憚られるほど、ボロボロに穴が空いた手提げ袋の口からは、雑多な道具類が零れ出している。鋏、手鋤、何やら棒のような物、紐で束ねた草のような何か……。
不意に手応えが変わった。数瞬前まで見開かれていたはずの瞳は、既にきつく閉ざされている。大きく開いた口、強張っていた体から、がくっと力が抜ける。
――! ヤバい!
ミカが慌てて手を放すと、子供は支えを失った人形のように、壁沿いにぺたりと頽れた。二、三度、鋭く咳をして、苦しげに胸を掴むと、喘ぐように肩で息をする。
そしてミカは、ぞっとしてその様を見つめてしまう。もちろん、こんなつもりではなかったのだ。ただ脅しつけるだけのつもりだったのだが……何せ、子供相手にこういう荒っぽいことはしたことがない。
――し、死んでねえ……よな? 息、してるな? 良かった! いや良くねえ! 何なんだこいつ、死にそうになってんだぞ、もっと暴れるとか、悲鳴を上げるとかしろよ! うっかり殺しちまったらどうすんだよ! ていうか普通、こんな大人しく死ぬか? えっ怖っ……。
一体、どうしたらいいのだ。内心かなり狼狽して、ミカはその場に立ち尽くした。この子が修道院側の手先か、そうでなくても、今夜ここで彼を目撃したことを誰かに漏らせば、かなり不都合なことになるのは間違いない。何としても口を封じなくてはならない……たった今起こりかけたような、物騒な意味ではなく!
子供がまた咳込んだ。しかし呼吸は落ち着きはじめている。ミカは少しの間様子を窺ったが、やがて相手が胸の中に十分に空気を取り戻したところで、わざと威圧的に近づく。先刻地面に落ちた袋を拾い上げ、顔を上げた子供に手荒く押し付けた。
「いいか、ここであったことは、誰にも言うな。もし、一言でも漏らしてみろ――今度こそ、その喉、潰してやるからな」
脅し文句は、その実、合図でもある。そして子供は機を逃さなかった。両腕で荷物をしっかり抱え込んで、急いで立ち上がる。そろそろと後退りして離れるが、彼が動かないでいるのを見ると、一目散に闇の中へ駆け去った。
その後ろ姿が完全に見えなくなるのを見送って、ミカは深くため息をつく。結局のところ、今夜の収穫は、問題を解決するどころか、厄介事に新たな項目を付け加えただけに終わったのだった。
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