16. ロードリー伯爵


「あの子が口を利くのを、はじめて見ました」


 施療所でヘルマーと別れ、来た道を戻りながら、ユールがほっとしたように言った。


「完全に話せないわけではないと聞いていたんですけど、実際に声を聞いたことがなくて……でもあの様子なら、本当に必要なことは伝えられそうですね。もう少し練習する機会があれば、ちゃんと話せるようになるかもしれません。私も、これからはできるだけ話しかけるようにします」


 まあ、それを本人が望むかどうかは別問題だが……とミカは思ったが、口には出さなかった。実際、あの子は喋れない方が都合がいいのだろう。本人にとっても、そしておそらくは、ヘルマー修道士にとっても――とりあえず、リドワース修道院の施療所が何故それほど評判がいいのか、理由の一端はわかった。


 ――こんな北方にランドリアの栽培技術があるなら、大概の薬はどうにかなんだろ……マジかよ、どうやってんだ。くそ、あの無能がしゃしゃり出てこなきゃ、何としても聞き出したのに。うまく行きゃ一財産できるぞ……。


「パトレス・ミカ!」


 などと考えていたため、一瞬、自分が呼ばれていることに気が付かなかった。側を歩くユールではない、どこか遠くから呼ばれている。視線を巡らすと、聖堂の方向から見知らぬ修道士が駆け寄ってくるところだった。彼の前までやってくると、恭しく告げる。


「お邪魔を致しまして、申し訳ありません。ですが、もしご都合がよろしければ、正門までいらしていただけないかと、院長が申しております。ぜひ、これから来る客人に会っていただきたいからと」


「客人? どなたがいらっしゃるのです」


「ロードリー伯爵が、ご本人自らおいでになると」


 この修道院の創設者の一族、その当代の主というわけだ。修道院にとっては俗界の主、いくら教皇庁が聖俗分離を唱えたとしても、そのつながりが消え失せるわけではない。


 その主が、今、ここに現れるということは。


「それはありがたいお申し出です。こちらこそ、これほど素晴らしい修道院を神に捧げられた方に、ぜひともお会いしたいと思っていたのです。教皇庁に代わって一言お礼を申し上げたいと」


 ――アルヴァンの野郎、俺が来たこと、本家に告げ口しやがったってことか。しかし、それで伯爵が直々に出てくるってことは、なんか絡んでんのか?


 では、私はここで失礼しますと頭を下げたユールと別れて、ミカは使いの修道士のあとについて、聖堂前広場まで戻った。


 広場は、先刻ミカが訪れたときと違い、既に喧騒に満ちていた。ちょうど一行が着いたところらしい。乗り入れられた馬たちを、従者と思しき者たちがなだめ、駆け寄ってきた厩係の修道士たちに手綱を引き渡す。大きな荷物がいくつか地面に下ろされた。ただの訪問というには、何やら大がかりだ。


 ひと際立派な鹿毛にまたがった男が、何事か指示を出している。側にいるのはアルヴァン院長だ。ミカの接近に気づくと、例のにこやかな笑顔を向けて挨拶をしてくる。


「これはパトレス・ミカ、わざわざご足労をおかけしました。教皇特使がお見えになることなど滅多にないことですから、ぜひとも我が兄にもお目通りを賜いたく」


「あなたが、スハイラスからお越しの教皇庁の司祭殿か」


 院長の後を引き取る形で、馬上の男が言った。ひらり、というには多少重みを感じさせるものの、堂に入った動きで馬を下りる。


「お目にかかれて嬉しく思う。私は、ロードリー伯ゼオン・ハノエルと申す。愚弟が世話になっているそうで」


 年は四十半ば、背はそれほど高くないが、がっしりとした体格である。四角い顔は、たとえもう少し若かったとしても、弟のような美男子ではなかっただろうが、代わりに弟にはない、ある種の押し出しの強さがあった。それを威厳と取るか、横柄さと取るかは、見る者の立場によって違うだろうが。


「こちらこそ、まさかロードリー伯爵ご本人にお会いできるとは、思ってもみない光栄です。ちょうどこの修道院の方々から、伯爵家の業績を聞かせてもらったばかりなのです。――スハイラス教皇庁特任司祭、ミカ・エトワ・ジェレストです」


「また、随分とお若い」


 ここにいる間、一体何度この感想を聞かされればいいのかと思うミカを、伯爵はじろじろと眺めた。無遠慮な視線はあからさまに値踏みするものだが、隠す気がない分、率直と言えないこともない。


「このリドワース修道院の『奇蹟』について調査なさるとか。当地の奇蹟に、何かお疑いでもおありか」


 と思ったら、予想以上に率直に出てきた。さては、教皇特使とはいえ、若造一人何とでもなると踏まれたのか。ミカはわざとらしいほど天真爛漫な笑みを浮かべた。


「まさか! 信じているからこそ、こうしてやってきたのです。敬虔なる伯爵閣下もご存知の通り、奇蹟は全知の神、創造主にして我らが唯一の主たるスワドの賜りし、全ての人類への恩寵なのです。それはこの世界をより良いものへ変えていくための鍵となるべきもの、正しく解釈し、大いなる福音として世に広く知らしめることこそ、神の下僕として我らに与えられた使命であり、また慈悲深き神の御意思も――」


「ああ、ああ、もういい」


 ロードリー伯は、いかにもうんざりといった様子で、黙れとばかりに手を振った。もちろん、うんざりさせるつもりで喋っていたミカは、満足して口を閉じた。これで、彼のことを取るに足りない若造だと思ってくれれば、その方が都合がいい。


「奇蹟のことは、あなた方の領分だ。私のような俗人のでしゃばることではありません。心行くまで、何でもお調べになるがよろしかろう」


 なかなか太っ腹な返事である。リドワース修道院とロードリー伯がそれほど密接な間柄なら、当然金の流れも密接なはずで、万が一にも『奇蹟』が嘘っぱちとだということになってしまえば、伯爵としても痛いはずだ。心から『奇蹟』を信じているのか、それとも、意味のないたわ言を延々と喋る若造ごときに、真実を暴かれるわけがないと思っているのか。


「だが、私は信じておる――何せ、神は今、あなたをここにお遣わしになった。我が生涯の晴れの日に、教皇庁の司祭殿に祝福をいただければ、これに勝る喜びはありません。どうかお願いしたい」


「祝福、と仰いますと」


「結婚するのですよ」


 これは全く意外な言葉で、さすがにミカも一瞬言葉を失った。結婚が必ずしも若者だけのものではないことくらいはわかっているが、目の前の中年男とは、とっさに結び付かない単語だ。そもそも、伯爵などという身分ある男が、妻を娶っていないなどということがあるだろうか。


「妻には先立たれましてな」


 表情一つ変えず、ロードリー伯は言った。


「やもめ暮らしも悪くはなかったのだが、しかしこのような男にも縁がありまして。恥ずかしながら、二度目の誓いを交わそうという次第です」


「恥ずかしいことなどありません。婚姻は、主が人の子に与えられた、聖なる絆の一つです。差し支えなければ、花嫁のお名前をお聞きしても?」


「アルティラ・オルバ・ベルリア。我が国の王女にあらせられる」


 ――王女だと。


 いくらロードリー伯が貴族とはいえ、一介の地方領主に王の娘が嫁ぐとは、世の常識ではかなりの異例と言える。それも、後妻として迎えようなどとは、およそ考えられない。他国の王家なら、鼻で笑って一蹴するであろう縁組に違いない。


 だが、ベルリア王家には一蹴してしまえない事情がある。


「スハイラスからお越しの司祭殿は、もしかしたらお聞き及びではないかもしれないが、今、この国は少々、厄介な状況にあるのです。先年、実に悲しむべきことに、我が王が崩御された――以降、世の中は落ち着かず、中には王家を軽んずる連中まで現れる始末。亡き王の忠臣として、その愛娘であられるアルティラ姫を、寄る辺ない立場のままで放っておくなどということは忘恩の行いとなりましょう。僭越ながら、我が元へおいでくだされば、必ずやお守りいたしましょうと申しましたら、王女もお受けくださった」


「ですが聞くところによると、王女にはご兄弟の王子がおられるのでは」


 その王女の兄か弟か知らないが、先王には息子もいたはずだ。ミカがそう尋ねると、一瞬、ロードリー伯の眉がピクリと動いた。その目が探るような光を帯びたが、ミカがいかにも世間話ですよという体の微笑みを崩さないでいるのを見ると、再び落ち着いた声音で答えた。


「ああ、シアラン王子ですな。もちろん、王子の身の安全も、全力を尽くしてお守りする所存です。何と言っても、我が義兄となられる方なのですから、当然のことです」


 どうやらベルリアの呪われた王子は、王位に就くことなど想定されてもいないらしい。少なくとも、ロードリー伯は想定していないらしい。新妻に付属してくる持参金のように、あるいは負債のように、彼の所有になるものと思っているようだ。


 どういうことだろうか。まさか、市中のいい加減な噂のように、本当に呪われているなどということはあるまい。ミカはさらに尋ねようとしたが、そこで、背後でどっとどよめきが起きてその機会を失った。見れば、新たに門から荷車が入ってきたところだ。一緒にやってきた荷運び人たちと、待ち受けていた従者たち、それに修道士たちが加わって、てんやわんやの騒ぎである。


「閣下、お話し中失礼いたします」


 そのうちの一人が駆け寄って、伯爵の足下に跪いた。伯爵はそちらに鷹揚に頷いて、再びミカに向き直る。


「このように慌ただしい折に、教皇庁の司祭殿を捕まえて立ち話とは申し訳ない。よろしければ、晩餐の席をご一緒いただけるかな。麗しき聖都の様子など、この田舎者に話して聞かせてもらえればありがたい」


 言葉の上では招待のようだが、実際は命令に近い。否という答えはあり得ないとばかりに、伯爵はそう言い置くと、返事も待たずに、従者を引き連れてその場を立ち去った。


 ――最高につまんなそうだな……。


 とはいえ、ミカにしても、断るのは得策ではない。何にせよ、『奇蹟』の正体を知るまでは、リドワース修道院に関係する情報は集めて損はないのだ。


 ――大体、お前のせいで、こんなクソめんどくせえことになったんだからな。せめて、なんか美味いもん食わせろよ……ケチりやがったらマジで殴る。


 どんなに場の雰囲気が悪かろうと、食べ物が美味しければまあ許せる。ミカは、同じくその場に残る形になったアルヴァン院長を心の内で罵りつつ、しかしせいぜい愛想よく微笑んで、喜んでと答えたのだった。




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