15. 薬草園

 薬草園は、施療所が沿っている修道院の壁の外にあった。


 壁に開けられた、人一人が通れるほどの穴をくぐって出てみると、景色が一変した。春に萌え出た若草の緑が、金色の日差しに輝いて揺れる。だがそれは決して自然の姿ではない――整然と区切られた畝が、完璧な規則正しさで広がっている。


 奥には川、修道院と反対の方向は木々の生い茂る森で、土地の面積自体は広大というほどではない。しかしその眺めには、ただの穀物畑や、牧草地とは違う、不思議な美しさがあった。完全に自然のままではない、明らかに人が耕作している土地であるのに、同時に、近くの森や水の流れに溶け込むような、目に快い瑞々しい眺めだ。


 ――どの株にも、一番光が当たるように配置してんのか。畝もこれ、全部高さが違うな……これはまた、手の込んだことで。


 手近なところから観察して、ふと視線を上げたミカは、そのとき、草間に何かが動くのを見た。少し離れた畝の間に、土色の影がしゃがみこんでいる。


「おい、ちび坊!」


 不意に、ヘルマーが大声で叫ぶ。と、その頭がぴょこりと上がった。


 まだ春先だというのに、すでに丈高く伸びた黄色い花の間から現れたのは、泥にまみれた子供だった。歳は十一か二か、十四にはなっていないだろう。土色の髪はざんばらに切られ、枯葉が数枚引っかかっている。身につけている古いほつれた服は、誰かからのお下がりなのかだいぶ大きいようで、それがやせぎすな体格をますます際立たせていた。


「そんなところで何をやってる! いいから、こっちへ来い! 急げ!」


 一方的に怒鳴りつけたヘルマーは、そこでようやく、ミカが訝しげに見ていることに気づいたらしい。慌てたように釈明する。


「ここで働いている子供なのです。わけがあって置いてやっているのですが……邪魔をしないように言っておかないと」


 子供は、細い畝間を危なげのない足取りでやってきた。これまた泥まみれの、粗末なサンダルを履いているだけだが、でこぼこの地面をものともしない身軽な動きだ。従順に目の前にやってきた子供に、ヘルマーは一方的に言いつける。


「これからこちらの客人に、この薬草園を見ていただくのだ。お前はどこか、邪魔にならない端の方へ行って、草でも抜いていろ。くれぐれも粗相のないように」


 子供の目が一瞬、ミカを見やる。しかし路傍の石でも確かめたように、子供は何の表情もなく、再び目をそらした。そのまま無言で身を翻すと、ひょいひょいと畝を越えて、はるか向こうへ行ってしまう。


「……ああ、申し訳ありません。あれときたらご挨拶もしませんで。どうかお許しください、あまり口が利けないのです」


「あの子は?」


「以前、ここで働いていた農夫の、遠縁の子です。何でも、両親が亡くなってから引き取り手がなくて、ついにここより他に行くところがなくなったとか。まあ……ちょっと知恵の足りない子で、言葉もよく出てこないくらいですから、持て余されたんでしょう。本来なら、修道院内で仕事をする者の家族まで住み込ませることはできないのですが、ああいう少年を追い出しても、その辺で野垂れ死ぬことになるだけでしょうからな。気の毒なので、特別に住まわせることになったのです。幸い、こちらが言っていることは少しはわかるようですし、単純な畑仕事はできますから、いくらか役に立ちます」


 その保護者である農夫は、昨年亡くなったという。それまであの子供の面倒を見、意思を疎通させていた唯一の人間がいなくなったことで、今は薬草園の管理責任者であるヘルマーが面倒を見ているらしい。


 とはいえ、『面倒を見ている』というのが、どの程度かはわからない。


「名は、何というのですか」


 ミカが尋ねると、ヘルマーは驚いたように目を見張った。そんなことは考えたこともないという顔だ。


「名……あの子の、名前ですか。いや、それは……聞いていないですな。ロリックは――あの子を引き取った農夫ですが――いつもちび坊と呼んでおりました。おそらく、本人もそれが自分の名だと思っておるのではないですかな」


「名前は、本当にわからないみたいなんです」


 そっと口添えしてきたのは、控えていたユールだ。


「私も、前に訊いてみたことがあるんです。なかなかそう呼びつけるのも気が引けて……でも、何も答えてはくれませんでした。ちょっと首を傾げて、そのきりどこかへ行ってしまって」


「何にせよ、それで不都合はない。我々はあの子を呼べるし、あれも自分が呼ばれたことがわかる。それで十分ですよ」


 ヘルマーはそう話をまとめる。ミカも微かに肩を竦め、その件は放っておくことにした。金をばらまいて職人を雇う、あるいはどこからか金を儲けている、という話ならまだしも、身寄りのない子供の身の振り方などは、彼の関知するところではない。


「フィドレス・ヘルマー、それで、ランドリアなんですが、どのあたりで育てているのですか?」


「ああ、それは……確か……」


 改めて本来の目的に立ち戻る。しかしミカがそう尋ねた途端、ヘルマーはそわそわと周りを見回した。


「この辺だったと、思うのですが……どうだったかな。おおい、ちび坊! 坊主! こっちへ来い!」


 たった今、あっちへ行けと追い払ったばかりの子供を再び呼びつける。命じられた通り、離れた畝にしゃがみ込んだところだった子供は、しかし文句を言うでもなく素直に戻ってきた。


「坊主、こちらの司祭様が、薬草を育てているところを見たいと仰るのだ。あの、あれだ……ラ、ラド……」


「ランドリア」


「そう、それだ」


 ミカが横から口をはさむと、子供は少しの間、彼を見つめた。今度は路傍の石ではない――路傍の石だと思っていたが、実は標識だったかもしれない、くらいの関心がうかがえる眼差し。


 だがどちらにしろ、大した問題ではなかったらしく、子供はすぐに歩き出した。少し離れた、別の畝を指さす。春の光が燦々と当たる、柔らかくしっかりとした土は、来るべき緑をおおらかに養うにふさわしいものだったが、今は葉の一枚も見えない。


「何だ、何もないではないか。どういうことだ」


 ヘルマーが、焦ったように叫ぶ。ちらりとミカを振り返った後、更に眉を吊り上げて子供に詰め寄りかけたとき。


「さむい」


 小さな、かすれた声だった。息が喉を震わす音が耳障りな、ともすれば力ない老婆のもののようにさえ聞こえたが、しかしそれは確かに、目の前の子供が発したものだ。大人三人に一斉に見つめられ、子供は再び唇を引き結んだ。


「……寒い? こんな日差しの強い日に、寒いことなどあるものか」


「ランドリアの種子にとっては、気温が低すぎる、まだ芽が出る温度じゃないということ、かな?」


 ぶつぶつ言いかけるヘルマーをよそに、ミカは直接子供に話しかける。しかし答えはない。子供は俯いて、足先で土塊を潰している。物わかりの悪い大人たちにうんざりしているのか、早く仕事に戻りたいのか――口を開いたことを後悔しているのか。


「種は、どこで手に入れたんだ? ここで育つようになって、どのくらい?」


「…………」


「花を咲かせるのに、どういう工夫をしているのかな。この辺りでは、夏もそんなに暑くはならないと思うけど」


「…………」


「この、馬鹿なちびが! 教皇庁の司祭様に、なんて態度だ」


 やはり黙り込んだままの子供に、業を煮やしたのはヘルマーだ。自分の立場がないとでも思うのか、いよいよ怒りに顔を赤くして子供を怒鳴りかけたので、ミカはそれ以上の問答をあきらめざるを得なかった。


「いえ、フィドレス・ヘルマー、構いません。この子にはちょっと難しすぎることを訊いてしまったのかもしれませんから。こちらを見せていただけただけで十分です――『奇蹟の修道院』に相応しい、実に素晴らしい薬草園だと感服しました。フィドレス・ヘルマーの施療所が、あれほどの評判を取るのもうなずけると言うものです」


 愛想よく褒められれば、ヘルマーの怒りも続かない。どうやら自分の体面は保てたらしいと、ヘルマーが安堵の表情を浮かべるのを見て、ミカは早々に彼を連れて、薬草園を後にすることにした。




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