第3章 『奇蹟』の調査

10. 深更の祈り

 滞在場所としてあてがわれたのは、来賓用の建物の一室だった。一般の巡礼者たちが詰め込まれる大部屋のみの建物とは少し離れている、いくらか身分ある人々が宿泊するための、小部屋ばかりの建物である。


 とはいえ、修道院の中のことなので、華美な調度などはもちろん備わっていない。武骨な作りの寝台と小さな机、明かり用の油皿、水差しに杯、清め用の水盤があるくらいのものだ。


 ――まあ、院長宿舎の客室は、こんなもんじゃねえんだろうけど。


 一応、アルヴァン院長にも、教皇特使を特別な客として自分の宿舎に招くくらいの配慮はあったのだが、ミカは丁重に辞退した。重要な調査対象の近くにいる利と不利を秤にかけた結果、行動の自由を取ったのだ。


 ――大体、いけ好かねえおっさんと一つ屋根の下で暮らすとか、一体何の拷問だよ。嫌だ、絶対嫌だ、きれいな姉ちゃんならまだしも。


 それに、豪華な調度にさして興味があるわけでもない。寝るだけならどこでも寝られるし、寝台があるだけ儲けものだ。届けられた夕食を済ませ、就床の祈りに出席して、院長から修道士たちに簡単な紹介をしてもらった後は、さっさと寝てしまうことにした。今日はもうこれ以上、できることはない。何もかも、明日からのことだ。


 特に意識はしていなかったが、やはり長く旅をしてきて、それなりに疲れていたらしい。いつ目を閉じたかも思い出せないほど、ミカは即座に眠りに落ちたが、あるときはっと目を覚ました。


「…………」


 一瞬、どこでどうしていたのかわからなくなる。暗闇の中で数回目を瞬いて、ここがどこか思い出したミカは、同時に自分が目覚めた理由にも思い至った。


 ――深更の祈りか。


 福音教会では、日に六度の祈りを正式なものと定めている。深夜、夜明け、朝、正午、日没、就寝前に行われることになっているが、実際に日々の生活で、これを遵守するのは現実的ではない。一般信徒であれば、朝晩のみの簡略形でも構わないとされているし、教区教会でも、深夜や就寝前の祈りは、前後の祈りと合わせて行われたりする。


 だが、ここは修道院なのだ。神への祈りを人生そのものとする誓いを立てた人々なのだから、当然、すべての祈りを日課として正しく遂行するはすだ。


 窓の戸板をわずかに開けて外を見ると、暗闇の中で、うっすらとうごめく光が見えた。修道士たちの僧房の方向だ。彼らも起き出して、聖堂へと向かいはじめるところのようだ。


 少し考えて、ミカもまた、寝台を離れる決心をした。もう、すっかり目も覚めている。元々、いつでも眠れていつでも起きられる、深更の祈りが苦にならない性質なのだ。養父の教会も深更の祈りを執り行っていたから、昔は半ば習慣でもあった。まあ、『久遠の塔』にいる間は、奨学金を打ち切られたくなくて必死に一夜漬けに取り組んでいたか、あるいは酔い潰れていたことの方が多くて、習慣にし続けたとは言い難いが……ここで、古い習慣を思い出して、これから協力を得なければならないはずの敬虔な修道士たちに付き合うのも悪くない。


 身なりを整えて外へ出ると、夜気は随分と冷たかった。春先のこと、日中はこの北方の国ベルリアでも日差しが温かく降り注いでいるが、夜はまだ冷える。


 肩を竦めて、ミカは足早に聖堂へ向かった。もちろん暖は期待できないが、少なくとも風を避けられるだけましだ。


 救いを求める衆生のために、神の聖堂はいついかなるときも、その扉が開かれている。しかし、今夜は誰の姿もない。


 中に入ったミカは、信徒席の一つを占めると、改めて内陣を見やった。昼間訪れたときは、色硝子を通して降り注いでいた輝きも今はなく、ただ祭壇周りが燭台で照らされているだけだ。


 夜の底知れない闇の中で、あまりにぼんやりとしたその明かりは、聖堂の豪奢さを少しも輝かせることはできないが、不思議なことにその方が、聖堂の威厳を増しているように思える。高い天井は暗い闇に溶け、存在しているのかどうかもわからない。頭上の巨大な空間は、圧し掛かかってくるようにも、逆に吸い込まれるようにも思える――まっすぐに天の国へと続く、闇の道。


 不意に、重々しく扉が開かれる音がした。大勢の気配が、密やかに近づいてくる。ミカが立ち上がると同時に、南向きの扉が開いて、修道士たちの列が滑るように入ってきた。


 各人小さな明かりを手にした彼らは、影のように静かに、祭壇近くの所定の位置に着いていく。俯き、一心に足元だけ見て歩く様子からは、彼らがこちらの存在に気づいたかどうかはわからない……と思いかけたミカだが、すぐにその答えを知った。なるほど、気付いているに違いない――列の最後に、皆と同じく顔を伏せて入ってきた小柄な影が、しかしすぐにぱっと顔を上げて、まじまじと彼を見つめたからだ。


 ――おいおい……あれ、あとでどやされるんじゃねえの。


 目が合ったミカに曖昧な微笑みを返されて、本人も気づいたのか、ユール修道士は再び視線を落として、同輩たちに続いた。足を止めこそしなかったが、その動きははっきりと、この場の一糸乱れぬ呼吸からは外れていて、ミカは微笑ましい半分、落ち着かない気持ち半分でそれを見守ってしまう。


 ――って、何でだよ。俺は別に保護者じゃねえぞ……。


 だが、ミカの存在によって、規定通りの行動をとらなかったのは、ユールだけではなかった。


 数十人の修道士が――リドワース修道院所属の修道士は、院長以下四十二名と聞いている――所定の位置に着くと、今度は別の扉が開いた。祈りの儀式の執行者が入ってきたのだ。当然、アルヴァン院長だと思ったが、ミカが目を向けた先に、あの小面憎い男前はいなかった。


 代わりにいたのは別の男だ。歳は五十代の半ばほどか、短い黒髪には、白い筋がいくらか混じっている。決して強面という顔立ちではないが、年月により刻まれた皴、その眼光の鋭さが、彼の佇まいに厳格さを与えている。


 背筋を伸ばし、顔を上げて入ってきた男は、すぐにミカに気づいたらしい。祭壇へ向かう代わりに、修道士らしい抑制の効いた足取りで、まっすぐにこちらへ歩いてくる。内心驚くミカに向かって、男は辛うじて聞こえるほどの低い声で呟いた。


「パトレス・ミカ――式をお執りになりますか」


 ごく端的な質問、だがミカは即座に相手の事情を察した。どうやら、教皇庁付特任司祭の顔を立ててくれようとしているらしい。実際のところ、目の前の男は修道司祭、聖職者の位階を持つ者であり、叙階された時期から考えればミカよりはるかに先達だろうが、だからと言ってミカに声をかけないというのも難しいと判断したようだ。不意打ちの、気まずい状況であったはずだが、顔色一つ変えず対応してきた相手に、ミカもまた声を低めて答えを返す。


「いいえ、ここはあなた方の家、私は軒をお借りしている、ただの客に過ぎません。一介の信仰者として、私の祈りを御手に委ねます、イアルト副院長」


 先刻、院長を介して交わした簡単な挨拶を思い出す。若々しく柔和で、ともすれば軽薄な院長と、この副院長は真逆の印象を受ける。謹厳実直、寡黙で自制的。握手をした手は固く骨ばっていて、長く修道院で労働に精を出してきたことがうかがえた。


 ミカの返事に、イアルト副院長は小さく頷き、すぐに背を向ける。祭壇の前にたどり着くと、そこに掲げられている、三重円に十字の神の御印に向かって、朗々たる声ではじまりの祈りを唱えた。


「《いと高き我が主よ、天地と星々の創り手よ。太陽が夜闇を追うごとく、我らが闇を払い給え。星々が船を導くごとく、我らを御許に導き給え。万世の法、永劫の輪、不滅の光、願わくば我らが祈りを受け取り給い、ついの時までその恩寵を下されんことを》」

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