11. 奇蹟の薔薇
「だって、皆、あなたがいらっしゃるとは思っていなかったんです」
翌朝、顔を合わせたユールは、目を輝かせてそう言った。
「司祭様方は、必ずしも、定められたすべての祈りを行うわけではないのでしょう。人々のための聖なるお務めがあれば、修道士のように、すべての時間を祈りのためだけに使うことはできませんから。高位の方であればあるほど尚更です。この修道院に滞在された聖職者の方で、深更の祈りまで捧げられる方はほとんどいらっしゃらないのにと、今朝はその話でもちきりでした!」
修道生活においては、神への祈りの他は、沈黙と静寂こそが望ましい
「……私は、ただの一司祭ですよ。たまたま今の所属が教皇庁であるだけで、高位でも何でもありません」
だから、何とかそう返すのが精一杯だ。こんなことなら体裁を作ろうなどと考えたりせず、もう一度寝直した方が無難だったかもしれないと、ミカは内心でため息をついた。というか、これまでどんな
「アルヴァン院長は、深更の祈りにはいらっしゃいませんでしたね」
式の執行者が、必ずしも院長でなければならないということはない。修道司祭であるイアルト副院長が適任だと考えて、式の執行を命じているのかと思ったが、朝の祈りに際しては、院長本人が執行者として現れた。
「あ……院長は、いつも、深更の祈りにはいらっしゃいません。院長宿舎には特別の祭壇があって、そちらに祈りを捧げることになっているのです」
――絶対、嘘だろ、それ。
そんな馬鹿げたことがあるものか。何のためにあの豪奢な聖堂があるのか。さぼってやがる、とミカは一瞬の迷いもなく確信した。修道士たちが起き出して祈りを捧げている間、アルヴァン院長は、よくて
ろくでもない男、だがそれだけに、いろいろと考えを巡らすもののようだ。朝食を済ませた後、いよいよ行動を開始しようとミカが宿泊棟を出ようとしたところで、このユールに捕まったのも、アルヴァンの差し金らしい。
「パトレス・ミカに、当院の中をご案内するよう言いつかって参りました。お側に控えて、どのようなことでもできる限りお力になるようにと、院長の指示を受けています」
――監視か。
アルヴァンとしては、ミカに勝手に動き回られるのは嬉しくないが、それを制限することもできない。せめて、彼の動きを
しかし一方で、監視役と思しきユール修道士は、そうした裏の任務のことを少しも感じさせなかった。例の、向けられる方が当惑するような親愛と尊敬の眼差しを、無邪気に向けてくるばかりだ。
――まあいいや……とりあえずは、案内がいてくれた方がいいのは確かだし。
「それはそれは、アルヴァン院長のお心遣いの細やかなこと、大変にありがたいことです」
その眼差しに、穏やかな笑顔を見せて応えると、ミカは最初の、最も無難な要望を告げた。
「では、フィドレス・ユール、神に捧げられるべき貴重なあなたの時間を割いていただくのは恐縮ですが、しばらくお付き合いいただいてよろしいですか。一緒にいらしていただければ、いろいろとお伺いできるでしょう――この修道院の『奇蹟』について」
一通りのことは聞いている。この世のものとは思われぬ美しい花が咲き、洪水という天災から逃れ、多くの者の病が
だが、それらはどれも、言ってしまえばありふれた事象だ。病者の治癒は、こういう話にはむしろなくてはならないくだりだし――そうでなければ、奇蹟の一体何がありがたいものか――、変わった植物や動物の出現が、度を超えてもてはやされることも珍しくはない。洪水の件に至っては、町の物乞いの男の口ぶりでさえ、幸運な偶然だったと言わんばかりだった。
どの話が本当で、どの話が尾ひれなのか。この修道院で、実際には何が起こって、これほどに人々の心を集めるようになったのか。
『奇蹟』について知りたいというミカの言葉に、ユールは一つ頷いて行き先を示した。
「では、聖堂の方へ参りましょう」
聖堂といっても、向かったのは建物の中ではなかった。広場を横切り、昨夜ミカが使った聖堂の西の入り口も通り過ぎる。
修道士たちが移動に使う回廊を突っ切ると、急に雰囲気が変わった。広場や宿泊棟がある側が、修道院の外向きだとすれば、僧房のあるこちら側は内向きということだろう。広場を整然と覆っていた石の舗装は、ここでは人の歩く小道にしかなく、むき出しの地面には、萌え出たばかりの野草の若葉が、春の光に柔らかく光っている。表から見た修道院の威容からすれば、多少気の抜けるような空間だが、それがむしろ心地よい。
「この先は、墓地になっているんです」
そう言ったユールは、しかしそちら側へは向かわず、途中で道を折れる。彼に続いて
白く化粧された聖堂の石壁が、遮るものもなく照らし出されている。ここは聖堂の東側、あの荘厳な色
「これが『奇蹟の薔薇』の木です」
長く
「……いつも咲いているというわけでは、ないんですね」
若干拍子抜けして、ミカは呟いた。確かに立派な木ではあるが、奇蹟というからには、伝説上の楽園の花のように、年中節操なくポコポコ咲いていると思っていた。
もちろんそうは口に出さなかったが、気持ちは伝わったらしく、ユールは苦笑を浮かべて言った。
「実は私も、そう思ってたんですけど……春、最初の花が咲くときは、他の花と同じなんだそうです。むしろ、ちょっと遅いくらいだと。でも、この木はそれで終わりじゃないんです。一度花を終えてしまっても、何度でも咲く――その必要があれば」
「必要?」
「人々に伝えるべき、重大な出来事が世に起こるときに、花を咲かせて変事を告げると言われています」
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