8. 教皇の特任司祭


「リドワース修道院の『奇蹟』の噂は、スハイラスにもよく聞こえています。今や大勢の民が、神の恩寵おんちょうに触れようと、この場所に巡礼を望んでいる。神の奇蹟は万人にあまねく知らしめるべきもの、この地にもうでる人々の敬虔なこころざしは、教皇庁としても喜ばしいものであると考えています」


 もちろん、当のリドワース修道院は、とにもかくにも大歓迎に違いない。巡礼者の数は、すなわち積まれる富の高さだ。巡礼者各人の寄進だけではない、その巡礼者の需要を満たすための商人が集う。彼らは修道院の門前で商売をし、それを認める修道院には、更にその許可料が入る。人が集まるところには、ますます人が集まるもので、その全ての源が噂の『奇蹟』というわけだ。


「ですが神の奇蹟は、ただの見世物ではない。そこには必ずや神の法が、我々の未だあずかり知らぬ形で働いているはずです」


 この世界で起こる全てのことは、万物の創造主にして絶対の神スワドの定めた法則によって動いている。太陽が東から上るのも、風が吹き雨が降るのも、熟した果実がやがて落ち、全てが地に返るのも、出がけに靴紐が切れるのも隣家の犬がうるさいのも、全て神のお創りになったこの世界の法則である。信仰者に求められるのは、この事実を受け入れること、そして、その法を探究することだ。神の法を深く理解することは、やがてその法を利用することにもつながるからである。


 最もよく知られる利用例が、神聖言語による祈りだ。神聖言語と言われる、ある特定の音律は、この世界の現象に干渉する。この音律を組み合わせて祈りの言葉 聖句とすることで、様々な事象を発声者の任意に引き起こすことができるのだ。


 言語とは言うが、真に意味があるのは音そのもの、文字は便宜べんぎ上用いられるだけで何の効力もない。大気を震わせて発される音のみが、世界を変えるのだ。何故そんなことが起きるのかという話は、世界波状構成論だとか重次元説だとかとにかく話せば長く、しかも知ったところで誰も得をしないので、そういうものを面白がる『久遠の塔』の連中に任されている。


 一般信徒にとって身近なのは、何といっても、教会の司祭が行う治癒の祈りだろう。人間の体を司る機能に干渉して、外傷に限るが、治癒力を高めて治すことができる。人々にとってはなくてはならないものであり、教区の人々の暮らしを支える教区司祭は、必ず習得していなければならない祈りの一つだ。


 一方で、奇蹟と呼ばれる現象は、これまでに明らかにされている神の法では説明のつかないものを指す。そうした奇蹟の事例を収集、研究するのも、教皇庁の役割の一つだ。


「新たな奇蹟の出現は、我々に対する神の恩寵です。これを正しく理解することが、未来の可能性を広げることになるのですから。この修道院の奇蹟についても、十分に理解される必要があるとのお考えで、教皇聖下はその御名をもって、私を特任の調査官として派遣されました」


「教皇の特任……?」


 アルヴァンが、呆気に取られたように呟く。目の前の若い司祭がただの使い走りではなく、教皇の権威を代弁する存在であることを認識したらしい。


 その余裕にあふれる整った顔が強張るのには、それなりに胸のすく思いをしたミカだが、しかし、現在の自分の立場が心から気に入っているかと言えばそうでもなかった。教皇の特命により、やりたいことはほぼ何でもできる――だがそれを、後で教皇と教皇庁が全て許してくれるかどうかは、また別の問題だからだ。


 ――つまり、ルールは単純……何でもやっていい、でも失敗したらそれまで、ってね。


「調査とは、具体的に、どのようなことをなさるおつもりですか」


 内心の動揺を抑え込んだのか、アルヴァンは平静な口調で尋ねてきた。しかしその顔には、先刻までのにこやかな――ミカの心情としては、にやけた――表情は戻っていない。


 このくらいで動揺されては困る、本題はこれからなのだ。ミカはにっこりと笑って、いかにも無邪気な口調で答えた。


「大したことではありません。『奇蹟』の起きた場所や時間、条件について、できる限りの証言を得たいのです。修道士の皆様を少々煩わせることになるでしょうが、祈りの生活をかき乱すようなことは、できるだけ避けるよう努めます。あと、こちらの聖堂は教区教会として指定されていますね。信徒台帳なども拝見したいのです」


「台帳ですって? 何故そんなものを」


「こちらに礼拝に来られる一般信徒の方々からも、広く証言を集めたいのです。奇蹟がいついかなるときでも、観察する者の目の前で起こってくれればいいのですが、そうではない以上、より多くの視点から語られることが何よりも重要なのです」


 などと言って、もちろん、真意は別のところにある。信徒台帳には、教会がその教区の住民について把握している、全ての情報が集まっている。何故そんなものを書き残しているかというと、それが教会税の納付のための記録だからだ。


 教区内にある家の家族の人数、農地の広さ、家畜の数、商売上の利益、そういった事柄は、教会の貴重な収入源である教会税を取るためには、必ず整備しておかなければならないものだ。他にも寄進などがあれば、それも記録され、つまりこの台帳を見れば、教会に入ってきた金の流れはほぼわかるというわけだ。


 修道院は私設の組織であるが、神の名を唱える以上、教皇庁の威光を受け入れざるを得ない。新しく修道院を設立するときは、教皇庁に申請をし、教皇庁はその信仰の正しさと、神に捧げる志――つまり、手数料だ――をもって、修道院に認可を与える。以降も修道院は、その収支から妥当だとうと合意された額を、教会に払い続ける決まりだ。


 普通なら、それで問題はない。だが、ひとたび『奇蹟』が起こればどうなるか。巡礼者が倍増した分、修道院の収入は増しているはずで――そして教皇庁が、それを黙って見過ごす手はない。


 ――別に、もうけを根こそぎ持ってこうってほど、悪辣あくらつなことはしやしねえさ。ちゃんと分け前をもらったら、とっとと退散するとも。


 そのための台帳だ。どこが適当な折り合い額か全く見当がつかないでは、交渉のしようもない。


 ――おとなしく見せてくれた方が身のためだぜ。じゃねえと、うっかり取りすぎるかもしれねえだろ。


「それは……随分と、骨の折れる仕事ですね」


 アルヴァン院長が、言葉を選ぶようにして言った。


「もちろん、我々としても、できるだけのお手伝いをさせていただくつもりです。教区の信徒で、証言のできそうな者も集めましょう」


「お心遣い、ありがとうございます。ですが、証言をさせる者については、調査する者の判断で行わなければならないのです。そういう規定があるのです――もし、その規定を満たしていない調査であるなら、教皇庁は『奇蹟』を認定しないでしょう」


 顔だけは心苦しそうな表情を作り、ミカはさらに押しを強めた。ここで『奇蹟』を失うのは、修道院としては絶対に避けたい事態のはずである。まあ、もとより、教皇の名をちらつかされて、一修道院長に抗うことなどできはしない。今後の交渉のためにも、まずはここを譲らせなくては。


 だが、そう考えているミカにとって、アルヴァン院長の次の言葉は意外なものだった。


「それでは……その調査は、どのくらいの期間でなされるおつもりですか」


「順調に、何事も不備なく進めば、半月ほどで終えられるのではないかと見込んでいます。もちろん神の御業にかかわることです、必要があれば、いくらでも調べなければなりませんが、こちらではそのような必要はないのではないかと期待しています」


 最後にいくらかのお愛想をくっつけて微笑むことで、ミカは眉を顰めそうになるのを避けた。期間? 何故彼の調査期間などが、それほど大事なのだろう。いくら教皇庁の特使が目障りでも、どうせそのうち去っていくことはわかっているのだ。修道院の台帳に比べれば、さしたる問題ではないだろうに。


 だが明らかに、アルヴァン院長にとっては大した問題のようだ。半月、と呟くと、表情を曇らせる。そのまま黙り込んで、何やら考えを巡らせるようだったが、やがてその表情を苦笑に変えてため息をついた。


「こう申し上げるのは、私としても実に残念なことですが、パトレス・ミカ、あなたの調査には、もう少しお時間がかかるかもしれません。実は、今は我々にとって、実に大事な、実に慌ただしい時期なのです。もちろん、教区の一般信徒にとってもです――我が修道院の守護聖女、聖ルージェナの祭日が近いのです」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る