7. 修道院長
「ようこそ、お待ちしておりました」
そう言って、男は机の向こうから立ち上がって出迎えた。修道服を
「スハイラスの教皇庁からお越しとか。それはそれは、遠いところをよくおいでなさいました」
年の頃は三十代の半ばほどか。この規模の修道院の長を務めるにしては若い。背が高くすらりとした姿で、
――これ絶対、女にちやほやされるやつだろ。若い頃から、女が途切れたことがないって顔だ。むかつく!
お互いに神に仕える身だとか、そもそも何の根拠もないとか、そういうことは関係ない。男は誰だって、モテそうな男は嫌いなものだ。神がそのようにお創りになったのだから、顔のいい男を
とはいえ、彼自身の信条はともかく、社会通念上の礼儀は守らなければならない。内心はおくびにも出さない完璧な微笑みを浮かべて、ミカは愛想よく挨拶した。
「このような突然の訪問にもかかわらず、院長が快くお時間を
「これは申し遅れました。私はここの院長を務めています、アルヴァン・ハノエルと申します」
うん? と、ミカは内心で首を傾げた。院長の名乗りが、聖職者のものではなかったからだ。聖職者は叙階を受けたときから、俗世の秩序とは切り離され、ただ自らの名と信仰の証、つまり彼を入信に導いた師の名を名乗りに使うことになっている。ミカにしても、ジェレストというのは、彼の入信の師である養父の名だ。しかしアルヴァン院長の名乗りは、明らかに俗名である。
別に、おかしいというほどのことではない。修道院は、厳密な意味では、教皇庁に属する組織ではないからだ。元々は、聖職に
修道院にいるのは在野の者なのだから、アルヴァン院長が俗名を使っても、特に問題はない。ただ、これほどの院を任された者は、修道院にありながらも叙階を受けていることが多いものだが。
「どうぞこちらへ。教皇庁の御使者をおもてなしするには、いささかお見苦しい場所ですが」
謙遜した言葉は、しかし逆にわざとらしく聞こえる。実際のところ、院長室は、実に
「長く旅をされて、さぞお疲れでしょう。いかがですか、もしよろしければ、我が修道院自家製の葡萄酒を持ってこさせましょう」
これは別に驚くには当たらない。酒精は神聖なものであり、特に葡萄酒は、神が大地に注がれた血、命そのものとして、教会の儀式に欠かすことができないものである。そのため、教会や修道院では国の許可や課税を受けることなく、必要な分を自分たちで
「それは、ご親切痛み入ります。葡萄酒は、
実際のところ、あまりありがたくない申し出ではあったが、ミカは笑みを崩さずそう言った。酒は嫌いではない、どころか、ここが馴染みの場末の酒場なら、いくらでも飲んだくれていたいくらいだが、任務を与えられて訪れた異郷で、酒精に頭を引っかき回されるのは、たとえほんのわずかでも気が進まなかった。
とはいえ、ここで断っては話が進まないだろう。まだ用向きさえ話していないのに。
ミカの背後で、微かな音がした。いつの間にか、ユール修道士が音もなく立ち去って扉を閉めたのだ。本当に、動いた気配は少しも感じなかった。扉を見やったミカに、アルヴァン院長が穏やかな口調で勧める。
「彼がすぐに用意して、戻ってきます。それまでそこへお座りになって、お
指し示された、たっぷりと詰め物のされた椅子に腰を下ろす。確かに、座り心地はとてもいい。正直に言って、こんなにも心地よい椅子に座ったことはこれまでない。
――おいおい、教皇聖下の椅子だって、こんなによくはないだろうぜ……ていうか、あれ、普通に座りにくそうだし。
「それにしても」
教皇庁謁見の間にある、教皇の座を思い出していたミカは、続くアルヴァン院長の言葉に、再び注意を引き戻された。客が腰を落ち着けたのを見届けてから、自分も向かいに腰を下ろした院長は、人好きのする微笑を見せる。
「実にお若いですね、パトレス・ミカ。正直なところ、教皇庁が、あなたのようなお若い司祭を、お一人で派遣することがあるとは思いませんでした。『久遠の塔』のご出身ですか」
「ええ」
またそれか、と思ったが、それがベルリア標準であるなら仕方がない。舌打ちしたい気持ちはこらえ、ミカはせいぜい礼儀正しく頷いたが、続く相手の言葉は、彼の予想した単純なお愛想とは少し違った。
「それは素晴らしい。あなたご自身の才は無論だが、きっと良き師に恵まれたのでしょう。何分このような
これは、一体どういう意図のある言葉なのだろうか。アルヴァンは微笑みをいささかも崩していなかったが、それを
「いいえ、ただの一教区司祭です。ギルウェンドの片田舎の、小さな教会を預かっています。私にとっては、かけがえのない師ではありますが、これほどの修道院の院長のお耳に聞こえるほどの名は持っておりませんよ」
「有徳の士は、常に野に
院長の表情は変わらなかったが、しかしそつなく答えるその声音には、はじめて微かに感情の響きが感じられる。感じのいい表情の奥で、その目がちらりと光ったのを、ミカは見逃さなかった。安堵のような――あるいは、
――へえ。
応じてミカが浮かべた微笑は、今度は全くの作り物ではなかった。目の前の色男が、いつまでぼろを出さずにいくのだろうと焦れていたところだったが、面白くなってきそうではないか……。
「失礼します」
そのとき、扉が叩かれる音とともに、聞き覚えのある声が来室を告げた。ユール修道士が、客と院長に供する葡萄酒を持って戻ってきたのだ。
丸瓶から注がれる美しい暗赤色の液体を受けるのは、何と
好みから言えば、落としても割れずに相手も殴れる、あの武骨な安物の
「…………」
だが次の瞬間、そんな考えは即座に吹っ飛んでいってしまった。ミカは絶句して、手元を見下ろす。
――美味いな。
お世辞にも美食家などというものではない、食べられるものなら何でも食べるし、どんな安酒でも酔えれば構わないと思っている口だ。だがそんな彼にもはっきりとわかるほど、この葡萄酒は味が違った。実際に甘いわけではないのだが、何故か甘いと感じられる、不思議な、舌に残る味。
「お口に合えばよろしいが」
彼の反応を予期していたのか、アルヴァン院長は自分の杯に口を付けながら、すまして言う。
「我が修道院の果樹園で育った葡萄で作ったものです。他にもいろいろ果実はあって、どれもよく育つのだが、中でも葡萄は格別な出来なのです。土が合っているのでしょう。神に捧げる分を除けば、特別なお客人に差し上げられるほどしか作れないのは、実に残念なことです」
随分とはっきり押してくるようになった。つまり、彼のような若造を歓待してやっているのだから、恩に着て恐縮しろということか。ミカは杯を卓に戻すと、まっすぐに相手を見返した――仕事にはいい頃合いだ。
「ええ、実に豊かな味わいです。まさに命そのもの、我らが主がこの大地に注がれた、聖なる血にも等しい。まことこの地は、祝福されているのですね。
「…………」
院長の表情は変わらなかった。が、次の言葉までに一瞬の間があったのは、合図が確かに受け取られた証拠に違いない。院長はそのまま視線を転じると、まだ控えているユール修道士に告げる。
「フィドレス・ユール、ご苦労だった。もう下がってよろしい。……しばらく君を呼ぶことはないだろうから、与えられた持ち場へ戻りなさい」
はい院長、と従順に答えたユールが出て行くと、室内には少しの間、沈黙が満ちた。正面から睨み合うことはない、けれどお互いに相手の出方を見たいと思っているのは明らかだ。ふと、アルヴァン院長が、先刻までの温かい微笑をすっかり取り落していることに気づいて、ミカは先に口火を切ることにした。
「リドワース修道院の『奇蹟』の噂は、スハイラスにもよく聞こえています」
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