6. 久遠の塔


「スハイラスの『久遠の塔』ですよね」


 正式にはスハイラス教皇庁付属神学校という、味も素っ気もない名称の学舎は、大陸各国ではむしろその雅名の方で知られている。


 普通、聖職者の道を志す者は、各地の教会で教育を受け、所定の年月と経験を積んだ上で、その地で位階を授けられる。聖都の神学校に送られるのは、教区司祭の推薦を受け、その中でも特に選ばれた一握りだけだ。


 『久遠の塔』は、そもそもが教育の場ではなく研究機関であったので、より優秀な頭脳を集める必要があっての仕組みである。地方教会での叙階規則は適用されず、学位を取れば叙階されるから、若くして司祭になっていれば、当然ここの出身だろうということになる。


 言わば大陸の最高学府ではあるが、とはいえ実際の『久遠の塔』が、聖都でそれほどの尊敬を受けているかどうかははなはだ怪しい。何しろ、地方から華やかな大都市へ出てきた若者が、一応は暮らしの心配もなく、勉学に励むという名目でその辺に野放しになっているのだ。いかに優秀でも、むしろ優秀だからこそ性質たちが悪く、弁が立つのを武器に、街のあちこちで不品行を働くことになる。聖都の民には、ツケた勘定を払えと迫る声も届かない、久しく遠い『久遠の塔』などと蔑称のごとく言われるほどだ。


 そんな風なので、ミカも、己の母校にそれほど思いを致したことはない。まあ、ある程度の敬意を払われるものとは認識していたが、少なくとも、目の前のユール修道士が見せているような、純粋に仰ぎ見る眼差しを受けるとまでは思っていなかった。


 ――なんて、チョロい……じゃない、都合のい……でもない、敬虔な信仰であることか! え、何これ国民性? ベルリアいいところだな! スハイラスの酒場のジジイどもなんか、ツケの取り立てに、きっちり奨学金の支給日に『塔』へ押しかけて来るような不信心者ばっかりだってのに。


 だがどうやら、ここベルリアでは、『久遠の塔』出身の教皇庁の司祭が、ツケの取り立てで身ぐるみはがされることはなさそうだ。ミカは思わず心からの笑みを浮かべたが、続くユールの言葉には、その表情をいささか引きつらせざるを得なかった。


「『久遠の塔』で学問をおさめられた方とじかにお会いするなどという名誉の機会は、この辺りではほとんどありません。では、パトレス・ミカは、いつか司教にもおなりになる方なのですね」


「まさか、とんでもない!」


 明らかに他意はない、無邪気な修道士に返すには、少し語気が強すぎたかもしれない。案の定、ユールは当惑した様子である。ミカは浮かべた微笑みを何とか維持しつつ、今度は声を落ち着けて答えた。


「『久遠の塔』の卒業生が、皆が皆、位階を進めるものではないし、希望するわけでもないのです。神学研究のために『塔』に残る者もいますし、神の法を広く知らしめるべく、宣教の旅を志す者もいます。私については……もちろん、神と教皇のお決めになられることですが、司教位などというものは、あまりにもこの身には過ぎたものだと思っているのです」


 ――そんなめんどくせえものに、なってたまるかよ。


 司教とは司祭の上位、大陸各国の司教座に任じられれば、その地の司祭たちを監督し、世俗権力に対して、教会の立場と利益を確保するのが使命だ。教皇庁内にあっては、教皇に直属し、各部門を統括する長の立場である――つまりどちらにしろ、一筋縄ではいかない、政治的な厄介事が課せられる。


 ――大体、そういうのは今現在、もう十分間に合ってるし……。


「そんなことは……」


 ユールは言葉に詰まったようだった。彼の単純な信仰世界では、司祭は司教になりたがるもので、他の道はないらしい。何と言っていいかわからないといった様子でミカを見たが、やがて小首を傾げて問うた。


「では……パトレス・ミカは、何におなりになるのですか?」


 この素朴な問いに対しては、答えはとうに決まっている。一瞬の迷いもなく、ミカはきっぱり言った。


「教区司祭として、赴任したいのです。一介の土地の司祭として、人々に神の法を説き、その生活に寄り添いたいと思っているのです」


 まあ、寄り添いたいのは、厳密には人々の生活にではなく、人々の財布になのだが。教区に赴任した司祭の生計は、その教区の住民が持つことになっている。実際には、教会税という形で、住民が定められた額を払うものだが、教区司祭にとってはほぼ永遠に変わらない定額収入だ。


 ――定額収入! こんないい響きの単語、神聖言語にだってない!


 何も、都市部の実入りのいい教区を望んでいるわけではないのだ。そういうところは収入もいいが、人口も揉め事も多い。理想的なのは、揉め事といえば家畜の羊が一頭迷子になったとか、隣家との境界の石がずらされたとかされないとか、そのくらいの町だ。『久遠の塔』へ行こうと思ったのだって、そうすれば、早くそういう夢の職を手に入れられると思ったから――あと、奨学金という名の金ももらえると聞いたから――だ。


 しかし今のところ、教皇庁は彼に教区をくれるつもりはない……そしてどうやらこの先も、その見込みはないだろう。しかも、理由が他人のせいならば、そいつを陥れるなり追い落とすなりすればいいだけだが、問題が彼自身にあるのではどうしようもない。


 思い出し、内心で歯噛みするミカだったが、目の前のユール修道士と目が合った瞬間、その思いも飛んで行ってしまう――小柄な修道士は、丸い瞳を零れんばかりに開き、感動の面持ちで彼を見つめていたからだ。


「なんて……なんて素晴らしいお考えでしょう、パトレス・ミカ! 僕は、あ、いえ、私は心から感じ入りました!」


「いや、そのように言っていただくことでは……」


「私は間違っておりました、尊い学問を修められた方は、当然高い地位に上られるものだと、皆それを望むものだと思っていたのです。ですが、それは真の信仰の形ではないのですね。尊い位を目にしながら、それに手が届く立場にいながら、奪わず争わず、民のために尽くすことをお選びになる方がいらっしゃるなんて」


「ああ、まあ、教皇庁が許してくれたら、ですけど……」


「パトレス・ミカ、あなたにお目にかかれて、本当に光栄です!」


「…………」


 微かに頬を上気させながら、ユールは熱心にそう言い、ミカは曖昧に微笑んだ。何と応えようがあるだろうか。


 ――いや、これ……これはこれでやりにくいな!?


 まさか本当に国民性なのだろうか。ユール以外の人々も、皆この調子なのだろうか。先刻までほくそ笑んでいたところから一転、この先のことを考えてにわかにうんざりしてきたミカだが、そのときふと、ユールが呟くのが聞こえた。


「私に、そのような資格はありませんが……叶うことならば、あなたのような方から、聖音の秘蹟を受けたいと思うのです」


 聖音の秘蹟とは、スワドの教徒が臨終に際して、司祭から受ける許しと祈りのことだ。神の法の体現者である司祭によって、世界を定める法の中に組み込まれることによって、魂の永遠を得ることができるとされる。


 一般的な人間の一生の中では、入信時の福音洗礼と対になる重要な儀式であるには違いないが、ミカは微かに首を傾げた。いかに敬虔な信仰があるとはいえ、ユールのような若者が口にするには、いささか不釣り合いに聞こえる。


「……あなたはまだ、そのようなことを考えるには早すぎるのではありませんか。それに、私にその務めが果たせますかどうか」


 人間は、歳の順に神の御許へ召されるのが順当というものだからと言うと、ユールは一瞬、きょとんとしたようだった。しかしすぐに何かを察したように、苦笑めいた表情になる。


「私が若輩じゃくはいなのは、もちろん間違いはないですけど、でも……パトレス・ミカ、失礼ですが、おいくつですか」


「? 二十一ですが」


「私、もうじき二十五になります」


 ――……年上かよ!


 どう見ても年下、絶対に十代だと思っていた。ミカはついまじまじと相手を見つめてしまったが、修道士は気を害した風もなく、小さく肩を竦める。


「歳は、よく間違われるんです。まあ、そんなにたくましい見た目じゃないのは自覚してるんですけど……年相応って、なかなか難しいですね」


 ――難しいとか、そういう問題じゃねえだろ……。


 大体、そう言って照れたように笑う仕草が、そもそも可愛い。小柄な体格と、優しげな顔立ちのせいもあるだろうが、一番の理由は、どうもその修道士らしからぬ動きにあるような気がする。祈りを唱える他は静寂を旨とする修道士たちは、足音を潜め、すり足気味に歩くものだが、ユールの足取りは常に溌溂はつらつとしている。それで殊更うるさいというわけではないのが不思議だが、何となく、元気のいい仔猫を連想させる。


 ――……って、大の男に仔猫て! 気色悪ぃ、そういう趣味でもあるまいし……あーでも、ここの修道院って、そういう趣味のやついねえのかな。いたら、確実にまずそう……。


 スワドの教義では、男色は別に禁忌ではないが、修道院ではそもそも色欲が禁忌である。とはいえ、完璧に清廉潔白な集団などというものはもちろんないから、実際は醜聞沙汰もかなりある。ミカ個人の意見としては、好きな者同士で話が付いたら好きにしたらいいと思うが、若くきれいな下っ端修道士を、上役が無理に……という話もなくはない。


 ――我が神よ、どうか! どうかそんなことありませんように! 少なくとも連中が、俺に見つかるほど間抜けじゃありませんように! そんなこと発見しちゃったら、いよいよめんどくさくなるじゃん……俺はさっさと帰りたいのに!


 ユールの身の安全というよりは、ひたすら自分都合の祈りを捧げるミカだったが、どうやらスワドの神も、それ以上は聞きたくなかったと見える。彼がそれ以上の涜神とくしん的祈りを思いつく前に、ふとユールの足が止まった。


「こちらが院長執務室です、パトレス・ミカ。アルヴァン院長が、中でお待ちしております」


 言うなり、ユールは扉を叩く。丁寧に磨き込まれて艶々と輝く扉の向こうから、くぐもった応答が聞こえると、ユールは彼の敬うべき司祭のために、うやうやしくその扉を開けた。






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