2. 神頼み


 勝負自体は、単純なサイコロ賭博だ。三つのサイコロを振って、賭けた目がいくつ出るかで、勝敗や掛け金の倍率が決まる。駆け引きも戦略もない、ただ運だけの勝負だ。


 卓を囲む男たちが振った後で、回ってきたサイコロを陶の器に入れると、青年は無造作にひっくり返した。だが、すぐにそれを取りはしない。すらりとした長い指で、さかさまになった器に触れると、滑らかな口調で唱える。


「《其の名は聖光、其の名は福音、三界六世に満ち響く、恒常不変、唯一無比たる主の御名なり》」


「さっきから、何だってんだ、その神頼みはよ。お前のような外道に、何だって神様が味方なんぞするもんか」


 男たちの間から、あざけるような声が上がった。聖句の中ではかなり知られた一節で、村の教会の礼拝などでもしばしば詠唱するから、神聖言語に通じていないやからでも聞き知っているのだ。


 罵声に、しかし青年は平然と応える。


「最新の神学理論では、どんな罰当たりの口真似でも、聖句は唱えれば唱えるだけ、現象地平の因果律に干渉することが証明されている。詠唱者の恣意しい的認知を支持する形で、アークランゲル位相の聖波動に共振が生じる」


「…………」


「つまり、てめえらのようなクズどもでも、真面目にお祈りしといた方がいいってことだ。神の御名は称うべきかな」


「てめえ、ふざけてんのか!」


「ふざけてねえよ、マジで祈れって言ってんだ――出方次第じゃ、吹っ飛ぶ奴がいるだろうがよ」


 言われて、男たちは互いの顔を見合わせた。確かにそうだ、これまでの流れは、決して安泰ではない――この器の中身次第では、やはりこの青年にすべてかっさらわれかねない。


 その場にいる全員の注意を引きつけて、白い指が幾度か器を叩く。張り詰めた緊張の中、幻惑された空白のような一瞬の後、ぱっと器が取られた。


 転がっているサイコロの目は、六、六、六――そして、六。


「……あぁ」


 沈黙の中、最初に声を漏らしたのは、その目を振ったはずの青年だった。一瞬、他の男たちと変わらぬほど、目を丸くしてサイコロを見つめたが、すぐにため息をつく。


「なんでそういうことするかな、我が主よ……」


「てめえ! やっぱイカサマじゃねえか!」


 大男が、我に返って怒鳴る。器に入れたときは、確かに三つだったサイコロが、四つに増えているのだ。とにかく、何かしらの作為があった、歴然たる証拠だ。


 青年は、顔を上げた。自分を睨みつけている男たちを、ぐるりと見渡す。


 と、次の瞬間、その綺麗な顔が、にっこりと笑みを浮かべる。これまでの、歪んだ皮肉な表情ではない。無邪気とも言えそうなほど、飾らない優しげな――まるで、聖画に描かれる天使のような。


「!」


 しかし、男たちが気を呑まれた一瞬に、青年は動いた。


 目の前の卓を力任せに蹴り倒すと、ひと呼吸で自分の荷物を手繰り寄せ、すぐ側の窓枠にとりつく。倒れた卓に阻まれた男たちが駆け寄るまでのわずかな間に、獣のようなしなやかさで、するりと外へ抜け出した。


「あの野郎! 追え!」


 号令一下、男たちがどっと通りへ走り出る。先陣を切っているのは、あの大男だ。こうまで虚仮こけにされて、ただで済ますものか。血走った目で通りを左右に見、走り去る青年の背を追おうとしたとき。


「旦那様!」


 不意に、何かに勢いよく足を取られる。その場でひっくり返りそうになるのを何とかこらえ、たたらを踏んだ大男は、突如まとわりついてきた障害物を凝視した。


「ああ、ご立派な旦那様、哀れな年寄りにどうぞお恵みを。目も見えず、体も利かぬ老人でございます。どうかお慈悲を……」


 頭からぼろ切れをかぶり、しわだらけのねじれた手ですがってくるのは、どんな街にも必ずいるたぐいの者だ。大男はかっとなり、反射的に相手を蹴りつけた。


「うるせえ! 邪魔だ!」


 鈍い音とともに、悲鳴が上がる。物乞いが倒れ伏すのも見ず、大男は再び辺りを見回した。だが、すでに青年の姿はどこにも見えない。


「くそ、どこへ逃げやがった!」


「逃がすかよ! まだそこらにいるはずだ。狩り出してぶっ殺すぞ!」


 男たちは口々に怒鳴りながら、三々五々の方向へ散っていく。大男も舌打ちすると、腹立ちまぎれに、路上に倒れたままの男を再び蹴飛ばした。ゴミの塊のように丸くなったところを、襟首をつかんで引き起こす。


「この、クズのろくでなしが。よくも邪魔してくれやがって」


「ひいっ……ひいっ……お情けを……」


「おい、あのガキはどっちへ逃げたか見たか」


「ひっ……目、目が、見えませんで……」


 大男が拳を振り上げる。その気配を察知したかのように、物乞いが言葉を続ける。


「ただ、走っていく足音が聞こえましたでございます……若い……男のようでしたが」


「んだと? どっちだ」


 節くれだった指が、恐る恐る方向を示す。振り上げた拳のことは即座に忘れ、大男は物乞いを地面に突き飛ばすと、そのまま後も見ずに駆け出した。






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