3. 路地裏の主
「…………」
地面に丸くなったぼろ切れは、しばらくその場で身動ぎもしなかった。しかし、男たちの荒々しい気配がすべて消え、通りが静けさを取り戻すと、すっくと立ち上がる。危なげのない足取りで、通りの端、酒場と隣の店の間に戻ると、背をかがめて座り込んだ。ここが彼の定位置なのだ。
「――これでいいんだろう、若いの」
通りを歩く者には、目深に下げた被り物に隠れ、物乞いの表情は見えない。もし、そのくぐもった声を耳にする者があっても、貧しい路上の男の不明瞭な独り言などに、誰も注意はしないだろう。
だがそれは独り言ではない。男の背後の暗がりから、やはり抑えた声が応えた。
「ああ、助かった。ありがとな」
「しかしまあ、こういうことたぁね。道理で払いがいいと思ったぜ」
感心と呆れが半々くらいの調子で、物乞いの男は振り向きもせずに言った。
この青年に金子を握らされ、彼を追って飛び出してくるであろう連中の足止めを頼まれたのは、一刻ほど前のことだ。もし何も起きなければ、金はそのまま受け取ってもいいということだったが、やはりそこまでうまい話はないものだ。全身を覆うぼろ切れの内側で、男は蹴りつけられた場所をさすった。
「あんたは、ここらじゃ腕利きの古株のようだったから。うまくやってくれると思った。でも……大丈夫か」
「ひっひっ、馬鹿にすんじゃねえ、坊主。俺がここに何年座ってると思ってる」
どんな町にも必ずいる、気まぐれな善意に頼って生きる者たちは、光の当たる通りを
かくいうこの男も、目には何の不自由もない。ヴァネロサという薬草の煎じ汁を目に垂らすと、白い膜が張ったように見えるのだ。多少ものがぼやけて見える他は、何の影響もないし、数刻もすれば消えてなくなる。この業界ではわりと知られた技だ。
そんな彼らにとって、路上の暴力などというものは、野良犬や馬の糞ほどにありふれた日常だ。対処できなければ、そもそも生きていけない。さっきの大男の攻撃のような単純極まりないものを、あしらうのは造作もない。とはいえ、力だけは強かったから、腹にたっぷり詰め物を巻きつけていても、それなりに痛くはあったが。
男の背後で、黙り込む気配があった。その沈黙が、何やら気づかわしげなものであることに気づいて、男は意外な思いで、密かに目を瞬いた。彼に話を持ち掛けてきたときの手慣れた様子や、酒場から漏れ聞こえてきた堂に入ったペテン師ぶりから、なかなか手練れの悪党だと思っていたが、案外うぶなところがあるのかもしれない。
まあ、見た目からすれば、その方が似つかわしい。男は、薬液を目に入れる前に見た青年の姿を思い出した。この辺りでは見かけた覚えのない綺麗な顔立ち、せいぜい二十歳かそこらだろう。とうに道を踏み外したような連中と、罵り合いながら欲にまみれたやり取りをするには、痛々しいほどの若さ。
そう思いながら、ちらりと振り向いた男の視界の端で、青年が動いた。一瞬、手のひらをかざすような仕草をしたが、すぐにはっとしたように手を引っ込める。少し考え、ごそごそと辺りを探っていたが、やがて何かを投げて寄越した。
「ほら、後払い分だ。迷惑料込みで」
受け取った袋は、最初に約束した額よりもずっしりとした感触だ。男はわずかに目を見開き、横目で青年を見やる。
「おいおい……おまえ、イカサマだけじゃなくて、これもやんのかよ」
人差し指を
「人聞きの悪い。賭けに勝った、正当な取り分をもらっただけだよ」
「おうおう、あんなインチキが正当かい」
「あ、でも、サイコロは忘れてきちまったな」
が、今となっては取り戻しようもない。青年は名残惜しそうに酒場の方を見やる。商売道具では、落胆も無理はない、と男は同情した。
「やっぱり、あのサイコロがインチキのタネなのかい」
「ん? ああ、聞いてたのか。まあ、ちょっとした
「聖句を唱えるなんざ、なかなか罰当たりなハッタリじゃねえか。ひひっ、見事に天罰
「ハッタリってわけじゃ……」
青年は何か言いかけ、しかし途中で言葉を呑み込む。諦めたようにため息をつくと、暗がりの路地にどっかりと腰を下ろした。周囲が落ち着くまで、しばらく様子見をするつもりらしい。辺りを見回しながら、形のいい眉をひそめて呟く。
「それにしても、何だってこの辺りは、あんな連中が幅を利かせてんだ。あんな――傭兵崩れどもが」
傭兵崩れ――つまり、戦時には雇い主に金をもらって戦争をし、そうでないときは徒党を組んで、盗賊と化す連中のことだ。荒事に慣れた者たちばかりが寄り集まっているため、ひとたび目を付けられれば厄介なことになる。かくいうこの町も、彼らの到着から今日まで、ピリピリとした警戒の空気に満ちていた。
「まったく、迷惑なこったよ。町の者は皆びくついて、出歩きを控えるもんだから、俺の稼ぎもとんと上がらん。だがまあ、このご時世、この国のどこでもこんなもんだろうよ」
「ベルリアの、どこでも?」
たいして意味のない世間話のつもりが、青年は不思議そうに訊き返してきた。男は再びちらりと背後に目をやり、おやまあ、と呟く。
「若いの、おまえ、この国の出じゃねえのか。どっから来た」
「ギルウェンド」
ベルリア王国からはるか南東、大陸の中心に位置する大国だ。大陸中の信仰を集めている『福音教会』の総本山である、聖都スハイラスがあることでも知られている。ここベルリアでも、多くの者が一生に一度は巡礼したいと望むが、実際に目にすることができる者は多くない、遠い遠い国だ。
「なんだってまあ、大陸の都から、こんな片田舎なんぞに来たんだ」
「ちょっと野暮用があって。でも、片田舎だなんて、そう悲観したもんでもないぜ。あんなガラの悪い連中が国中にはびこってるなんて、スハイラスにも劣らない刺激的な土地柄だ」
「神様の都が、刺激的だって? この罰当たりが、どんな悪事を働いたのか聞きたくもねえな。一緒に地獄行きはごめんだからな」
「あれ、あんた意外と信心深いのか」
「当たり前だろうが。毎日、小金と引き換えに、神のご加護を祈ってんだ。信心深くなくてどうする」
なるほど、と妙に感心したように呟く青年に、男は警告の一瞥をくれた。実際のところ、ベルリア人は総じて信心深い。大陸の中心から外れた辺境の小国は、先進的な技術や洗練された文化では後れを取るが、代わりに素朴な信仰心が広く息づいている。どんな小さな村にも、教会は必ずある。その司祭は説教や礼拝といった本来の教会の務めのみならず、村のあらゆる記録を管理し、人々の相談を受け、ときには領主と領民との仲立ちをすることさえある。人々は教会の権威を重んじ、その法を日常生活の秩序としているのだ。
まともなベルリア人なら、先刻、青年がやったような、イカサマのハッタリに聖句を使うなどという行いを目の当たりにすれば、ぎょっとして飛び退り、決して係わり合いになるまいと立ち去るものだ。まだこの国を旅するつもりなら、気を付けた方がいいという男の忠告に、青年は首を傾げた。
「ふうん……。でも、だとしたら、その敬虔な人々の国に、あんな罰当たりな連中がうろつき回ってるってのはどうしたわけなんだよ」
「そりゃあよ、こないだ、王様が死んじまったから」
ベルリア国王エリアッド四世が、急な病で亡くなったのは昨年末のことだ。享年四十四、それまでに特段の健康上の問題も聞かれず、誰にとっても突然の、早すぎる死であった。王には息子があり、当然その王子が王位を継ぐはずだが、それが今日まで果たされていない。異を唱える者が多いからだ。
「前の王様は、息子を王太子にしてなかったんだ。王位ってのは、王太子が継ぐもんだって、それで揉めてる」
「でも、王子がいるにはいるんだろ。何で王は、その王子を王太子にしなかったんだ?」
よそ者にとっては当然の疑問、しかしベルリアの民にとっては、口の重くなる話題である。少しのためらいの後、男は更に声を潜めて答えた。
「――シアラン王子は、呪われてるって話だ」
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