ビラ集め

ゆりかもめ

ビラ集め

 善と悪の境界は三つある。一つ目は法。二つ目は道徳。これらは先例・道理の上に建てられ、法は弱者の救済を実力行使を以て行い、道徳は悪事の心理的抑制として人間を善へと導く。

 無論このような美辞麗句を並べたところで、その虚偽たることには相違ない。法と道徳を完全無欠なものと思う人もいなければ、私自身この二つの概念を欠落の多いものと見ている。そうは言ってもやはり、無法地帯、無道徳地帯なぞの生み出す混沌と擾乱に比べれば、この法と道徳という制約が、この世に一定の秩序と安寧をもたらしていることは事実である。

 さて、善悪の境界線は三つあると言った。三つ目は常識であると提唱したい。多くの場合、常識には法や道徳に通ずるものがある。されど、一部の常識が(これは多くの場合明文化されたものではない)、法や道徳の支配とは単独に存在している。この常識を、守れば善人、守らざれば悪人と、多くの人が認識している。常識を打ち破れだとか、常識に抗えだとか、よくこのような文句を耳にするが、これは真に建前に過ぎず、常識は現実には強く我々を束縛する。例えば、白昼に横断歩道を渡る二人の紳士を想像して欲しい。一人は赤信号で横断歩道を歩いて渡り、一人は青信号で飛び跳ねながら渡るとしよう。前者は法も道徳も破っているが、後者が守っていないのは常識だけである。されど、実に多くの人間が前者に比べてより一層後者の紳士を嫌うに違いない。この人はこういう罪でも犯して捕まりそうなものだと当て推量する陰湿な人さえいるであろう。飛び跳ねる紳士も、自身が常識破りと自覚している限り、飛び跳ねたい欲望と人目とを天秤にかけて選択に甚だ苦慮せねばならない。そしていつしか、その足は強い引力に引かれるが如く、地を離れなくなっている。常識を破るまい、壊すまいと生きていく人間は、個々人の中で常識というもはや妄想の如きものを膨らまし、歪んだ眼差しで自己を見つめ他者を見つめ、己の身体よりも小さな木箱に閉じ込められて苦しみ悶えるのである。

 事実私も、この好例として、近年自身の行動により酷く苦しめられてきた。私は、「ビラを集めること」に酷く執着している。少し詳しく言えば、裏面が白紙のビラを集めているのだ。それは例えば蝶集めや切手収集のように、対象物の希少性や麗しさに見入っているのではない。私はただ、内容も読んでいないビラが数百枚、書斎に貯まっている状況に言い表し難い快楽を覚えるのである。この特異な習性が始まったのはおそらく受験生の時である。大学を目指す私のような理系高校生は常に計算用紙を必要とした。そこで、新しく店頭でコピー用紙を買うくらいならと、塾や学校で受け取る種々のプリントを貯めて裏面を使うようになった。片面白紙のプリントを手に入れることは、辛い勉強漬けの受験生にとって微かな幸せとなった。元よりこの行為は、金銭を節約し廃棄物を減らすという、清廉潔白な善意により生じた行為でもあった。

 そして日が経ち、私は晴れて某K大学に入学をした。K大学には多くの他大学と同様、過激思想を吹聴する学生主導の緩やかな政治結社とでも呼ぶべき団体が存在している。半世紀ばかり前の学生運動に際しては相当な影響力と行動力を有したようであるが、今となってはその栄光虚しく、時たま拡声器片手に単調な声でありきたりな左翼の主張が書かれた原稿を読み上げたり、朝晩に教室に忍び込んで机一つ一つにビラを置いて行ったりしている。

 さて、時期を同じくして大学生の私の裏面白紙のA4紙への執着は益々膨れ上がり、他人の目に映ればもはや少し狂気じみたものとなって来ていた。これまでの蓄積あって書斎にはまだプリントは100余枚貯まっていて、しばらく計算用紙に困る事はなかったはずだった。それでも私の蒐集欲は収まらず、遂に好餌を見つけてしまった。それがビラという訳である。とはいえ、私は決して欲に支配されてしまったわけではなかった。人から奪うことも、ねだって受け取ることもあってはならぬと決めた。また、早朝に机上のビラを持っていってしまうことも、後に来る生徒がビラを手にする機会を奪うので、避けることにした。既に配られたビラを収集する事は、全くもって盗みには当たらず、誰一人として損害を被ることはないのだから、何一つ法や道徳に背く行為はしていなかったはずである。それでも、ある平日の放課後、ビラの置かれた教室を探し回った時、私はひとけのない閑散とした四階五階の小教室を捜索する勇気しかなかった。廊下を行ったり来たり、教室を覗いて徘徊したりする姿を他人に見られたらと考えるだけで、自分が盗人のように感じられて足がわなわな震えだした。そしてビラの置かれた無人の教室を見つけると、周りをニ度三度確認し、教室に忍び入ってドアに鍵をかけ、焦燥のあまり照明もつけぬまま机上のビラを一つ一つ急いで集めていった。盗人に非ざる者が盗人と思われることに怯えて、益々盗人らしく振る舞っているというのが実態であった。しかし私は、見つかったらなんと思われるかという不安には不思議なほど打ち勝てなかった。全て集め終えると急いで鞄にしまった。集めたビラの束の分厚さを見て快楽を感じたかと思えば、足音が聞こえた気がして背筋を凍らせ、私の心は常に快楽と恐怖を彷徨う振り子であった。これもまた、盗みの常習犯が感じる心情に似通っているようにも思われて、恐ろしかった。足音が遠のくと私は急いで教室を後にし、いつしか全速で階段を駆け降りていた。

 こんな事を三回ほど続け、誰にも遭遇する事なくビラを集めた。しかし、ついにその恐るべき時が来てしまったのだ。私はある昼、人がいないのを見て教室に入った。そして焦りの余り鍵を閉め忘れた。もうビラ集めも三分の二を過ぎ、終わりが近いと安堵した矢先、突然扉が開いた。私は驚きの余り、どうすることもできずにいた。右手にビラの束を持ったまま、何も知らずに入ってきた同い年か一つ上くらいの女性を凝視してしまった。彼女もまた仰天し、少し怯えながら、私の行動を怪しみながら後退りして退出した。私は心臓の縮み上がる思いがした。ビラを集めた分だけ鞄に詰め込み、後も振り返らず教室を後にした。動悸は数分後も止まなかった。私のした事は悪事ではない、罰せられることも、非難に値する事もやっていないのだと、何度も自分に言い聞かせた。されど、やはり彼女が私をどう思うかということばかり、繰り返し想像されるのだった。


彼女の告白

  私は見ました。確かにあの人を見ました。一瞬の間しか見えませんでしたから、確証はありませんが、恐らくビラを集めていたと思います。きっとそうです。なぜ集めていたか?確証はありませんが、きっとあの人はあの政治結社の一員に違いありません。集めたビラを明日また別の場所で配るのです。きっとそうです。あの人はあの怪しい結社に所属する凶暴な人物に違いありません。左翼です。共産主義者です。無政府主義者です。間違いありません。


 無論彼女がこう思っていたとしても、これは的外れな思い込みでしかない。しかし私にはそう他人に思われることが真実よりも遥かに恐ろしかった。

 私はそれでも諦めてはならないと思った。私は悪役ではない。私はただ欲望に素直になっているだけだ。赤の他人に何を思われようと勝手である。私は何度もこう自分に言い聞かせた。

 私はしばらくの後またビラ集めを再開した。とある平日の放課後、前と同じ部屋に入り、鍵も敢えて閉めなかった。机上には開いたままのリュックサック。中にはビラが千余枚。確証はなかったが、これはあの結社の一員の鞄に違いない。きっとそうである。私はその持ち主が戻る前に急いで机上のビラを手際よく集めていった。しかし、間に合わなかった。ビラの三分の二ほどを集め終わった頃、突如扉が開いた。何一つ前触れが無かったので、やはり今回も驚いてしまった。私は焦ってビラを上着の中に隠したが、バレていないわけがなかった。こうした咄嗟の隠蔽行為も益々私を怪しくした。教室に入ってきた彼もまた同様に驚き、机上のリュックサックを手に持って、少しあたりを見渡して教室をさってしまった。私はしばらくそこに立ちすくんで動けなかったが、ようやくビラを上着の中に突っ込んだまま教室を後にした。

 一度目の遭遇とは比類なき恐怖に苛まれた。私はあの結社に目をつけられてしまったのだ。彼や彼の属する結社が私をどう思うのか、何度も想像が頭をよぎる。


彼の告白

  私は見ました。確かにあの人を見ました。一瞬の間しか見えませんでしたから、確証はありませんが、恐らくビラを集めていたと思います。きっとそうです。なぜ集めていたか?確証はありませんが、きっとあの人は我々の政治結社を阻害しようとする者に違いありません。我々のビラ配りを阻止して我々に反抗しようとしているのです。きっとそうです。あの人はそういう事をする凶暴な人物に違いありません。右翼です。ナショナリストです。ファシストです。間違いありません。


 邪推に邪推を重ねて作ったような出鱈目な結論でも、他人に一度思われてしまった以上、それは揺るがない真実の如く私の前に立ち塞がった。

 私はこの一件の後、とうとう以前のようにビラ集めを出来なくなり、はや三年が経ってしまった。大学はもう今年で卒業する。手足を縄に縛られたような4年間であった。またビラ配りをしようと思い立てば、手足の縄が一層強く私を縛る。

 されど、私にはまだ一つ夢がある。本当にちっぽけな夢であるけれど。私は、授業開始の五分前、生徒の繁る大講堂へ昂然と入り、机上のビラをゆっくりと集め、周りの視線も気に止めず、そして授業開始の鐘が鳴ると同時に堂々退出する。これが私にとって、常識の打破の第一歩なのである。

 きっとできる。できるに違いない。間違いない。

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