第4話 春の足音
薄く開いた窓から少し冷えた風が入り込んでくる。日中に比べると少し肌寒いが、それでも以前に比べれば温かい空気はやはり春のものだ。
ここ数日でアルカーナはより春の空気を感じるようになった。
心中は春を迎えられる……などと穏やかなものではなかったが。
アルカーナ王国国王、エヴァンクールは密かに息を吐いた。カタリと寝室のドアが開く。
「……寝たかい?」
妻は
「……今日もイルの側で寝るといったのですけれど……イルの体に差し支えてもいけませんから連れて来ましたわ」
「……そうか」
寝台に腰掛けた王妃の隣に腰掛け肩を抱く。
「……側を離れるのが怖いのですね。知らないうちに、居なくなってしまうのではないかと」
それは、王妃も同じ気持ちだった。
いつも曇りのない笑顔で元気をくれた金の瞳の少女。
あの事件からもう、一週間も目を覚ましていない。
「早く、またあの笑顔がみたいものだね……」
そう言って、王妃をぎゅっと抱きしめた。
***** *****
最初に出会ったときはただの黒狼であった。
まさか再び、
自分の知っている過去の少女とは全くの別人だ。性格も、見た目も似ていない。
……なのになぜ、繰り返すのか。
ガヴィは未だ目覚めないイルの青白い顔を見下ろしながら、その頬にかすかに触れた。
「……こんな時間に女性の寝室に忍び込むのは問題があると思うよ」
後ろから突然声をかけられ、ピクリとガヴィの手が止まる。
しかし、ガヴィは声に驚く事無く淡々と答えた。
「忍び込んではねぇよ。それを言ったらお前だって一緒だろ」
「……」
ゼファーは入り口の扉に背を預けたままガヴィをじっと見つめた。
「……君が彼女に対して感じてるのは責任感?
君のそんな顔、初めて見たよ」
もの言いたげな視線をゼファーに向けられて、ガヴィは視線をイルに落したまま答えた。
「……責任っつうか……、
もうちっと早く行っていればよかったなって……」
王子たちを襲ったあの男は、やはりフォルクス伯爵の次男だった。
城に物品を運ぶ商隊を数日前に魔法で作り出した妖獣に襲わせ、混乱の中で商人の一人を殺害してその男に成り代わっていたらしい。
その後の調べで商隊が襲われた街道近くの森の中から商人の遺体が発見されている。
イルが王子と王妃の盾になったため、男の狂気は達成されず、ひとまず事件は終息となったが、血の剣を多量に生成したイルは倒れ、
益々もってイルは生きづらくなるだろう。
とはいえ、ガヴィとイルの間にあるのは今までだってこれからだって、王命から彼女の保護目的で側にいるという以外何もない。
少しばかり多感になっているのはただ、ガヴィが勝手に自分の過去の想いに引きずられているだけだ。
「王妃様も王子殿下も、目の前であのような事が起こり動揺なさっておいでだ。
……王子の前ではもう少しマシな顔して来るんだね」
それだけ言うとゼファーはぱたんと扉を閉めて行ってしまった。
「……マシな顔ってなんだよ」
自覚はないが、そんなに酷いか? と自問自答する。
そこまで思いつめていたつもりはないのだが、珍しく重い気持ちになっていたのは事実だし、自分のような武人ではなく年端も行かぬ少女が傷つくのはガヴィだって心が痛む。いつも近くにいた少女ならばなおさらだ。
ガヴィは寝台の横に置いてあった丸椅子に腰かけるとイルの顔を覗き込んだ。
「……おい、いい加減起きろよ。
……王子泣いてんぞ……」
王家の専属魔法使いが治療を
顔に走っていた裂傷もうっすらと跡があるだけだ。きっと跡には残らないだろう。
だから、その傷に手を伸ばしたのには特に理由はなかった。
「ん……」
ガヴィが頬の傷にふれた瞬間、イルの
……ガヴィ?
持ち上がって
ガヴィは目を見開き、慌てて医師を呼びに席を立とうとしたが、イルがガヴィの袖を微かに引っ張るのでそっと顔を寄せた。
未だ
状況は何も変わっていないはずなのだが、先ほどよりか、なぜか穏やかになった空間で、イルの安らかな寝息だけが聞こえる。
「……だから、俺はどんな顔してやがんだよ」
赤毛の剣士はついに己の首筋に手をやって頭を下げると脱力した。
***** *****
次の日、イルは朝日とともに目を覚まし、久しぶりにアルカーナの面々に明るい知らせをもたらした。
一週間も寝たきりであった事と、極度の貧血のため、まだ寝台からは起き上がれないが、体力が回復すれば問題ないとの医師の診断が下りて皆一様にほっとした。
何より、シュトラエル王子の喜びは相当で、起きているイルを見た時には泣いて泣いて、イルはオロオロし、最後には一緒にちょっと泣いた。
それでも、迫りくる死の影に怯える日々が終わり、喜びに満ちた涙ならと皆の心も暖かくなるのだった。
「……な、なんだかご心配をおかけして、本当に申し訳ありません」
泣き疲れてイルの隣りで眠ってしまった王子の頭を撫でている王妃に、恐縮して言う。
王妃は目を細めると慈愛のこもった瞳でイルを見つめた。
「何を言っているの。
謝らなければいけないのは私たちの方です。
……貴女の一族には辛い思いをさせて、たった一人の貴女を守れたらと思っているのに……私たちは守ってもらってばかりね。……ありがとう」
王妃はイルをぎゅっと胸に抱きしめると、小さくごめんなさいねと囁いた。
目の奥がまた熱くなる。イルは首をぶんぶんと左右に振った。
目のふちからこぼれそうになる雫をごしごしと袖で拭いて鼻をすする。
イルは気持ちをちょっと落ち着けてから王妃に言った。
「私、ただ夢中で……王子を傷つけたくないってそればっかりで、……気が付いたら飛び出してたんです。皆さんに心配かけちゃったけど、私には何にもできないと思ってたから、後悔はしてません」
私も、ちゃんと紅の民の一人だったって解ったし、良かったです。
そういって誇らしげに笑うイルを、王妃は何とも言えない顔でもう一度抱きしめた。
お互いに顔を見合わせて泣き笑いの顔になる。
「そういえば……もうレイ侯爵には会った?」
侯爵も心配して、何度もここにきてたのよと王妃に聞いてびっくりした。そう言えば昨日なんだかガヴィの夢を見た気がする。あれはもしかして夢ではなかったのか。
気を失う直前も、昨日の夜も、いつもの小馬鹿にしたような顔は鳴りをひそめ、ガヴィは自分の方が切られたみたいに苦しい顔をしていた。
(ガヴィも、あんな顔するんだな……)
いつもは意地悪な事をいったり、馬鹿にしてばかりだけれど、こんな自分でも心配してくれたんだ。
イルは胸の奥の鈴がチリリと小さく鳴ったような気がした。
***** *****
イルの部屋は事件後、以前の部屋から宮殿内部の来賓用の部屋に移されていた。
紅の民の一族直系の事実が隠せそうにない事、王子が離れたがらなかった事、警備や療養諸々の事情で、正式に国家として保護すべき紅の民の生き残りとして要人扱いとなったのだ。
事件の事後処理で中々顔を出せなかったアヴェローグ公爵ことゼファーと、ガヴィがこの日は揃ってお見舞いに来てくれた。
「アルカーナの眠り姫、体の加減はどうだい?」
そう言って色とりどりの花束をイルにくれる。イルはわぁ! と声を上げた。
「すごく綺麗! ゼファー様、ありがとうございます!」
もらった花束に顔を埋める。花束はゼファーの笑顔のような優しい香りがした。
ゼファーは多忙から、なかなか顔を見にこられなかったけれど、毎日イルの部屋に花を届けてくれていたのだと聞いた。
今日も忙しいのにわざわざ時間を作ってくれたのだなと思うと嬉しくなる。
「だいぶ顔色も良くなってきたね。喜ばしいことだ」
安心したように頷くゼファーを見てイルはちょっぴり複雑な顔をした。
「嬉しいんですけど……、
お医者様に『とにかくお肉をたくさん食べなさい!』って言われて大変なんです。お肉は大好きだけれどこうもお肉ばっかりだと辛くて」
挫けそうです……と泣き言をいうイルにゼファーは声を上げて笑った。
「それは貴女の仕事だと思って頑張るしかないね。医師長殿の言うことを聞くのが元気になる一番の近道だ」
頑張るんだよと酷なことを言うがその目はどこまでも優しかった。
イルの頭をポンポンとやって、ゼファーは慌ただしいが……と腰を上げる。
「すまないがまだ残った仕事があってね、この辺で失礼するよ。
そっちの侯爵殿は今日は予定無しだから、話し相手でも小間使いでもなんでも頼むといい」
ガヴィは「おい」とゼファーをにらんだが、席を立ちはしなかった。
「………」
「………」
ゼファーが去ると、二人の間に沈黙が降りた。
事件前は口を開けばポンポンと軽口が飛び交っていたはずなのだが、ガヴィの見たことのない表情を見た後だとなんとなく気まずい。
(ガ、ガヴィと今まで何話してたっけ……?!
なんか喋ってよーー!)
考えれば考えるほど適当な会話が思い浮かばない。
沈黙を先に破ったのはガヴィの方だった。
「……怪我、もう大丈夫なのかよ」
イルの方を見ずに話しかける。
「う、うん。
お医者様が怪我自体はもう何とも無いって」
あとはちゃんとしっかり食べて、血を作ればいいって言われたよ! と、とかく明るい声を出す。
「……ガヴィ、私が寝てる時お見舞いに来てくれたんでしょ? 王妃様が教えてくれたの。
……あの、ありがとね?」
ガヴィの視線がゆっくりとイルに重なる。
「……おう。
ただ……お前、もうあれやるなよ」
「え?」
唐突に言われたことが理解できずに聞き返す。
「
思いがけず真摯な瞳で言われて、イルは解ったと返事をしようとしたが、少し考えてから返事を返した。
「あの時は、夢中で……何で出来たのか今でもよく解ってないんだけど。
でも、時間が巻き戻っても、王子や王妃様が助かるんだったら、……またやると思う」
「でも……ガヴィは、心配してくれてるんだよね? だから、そんなことにならないようには気をつける」
ガヴィは渋い顔をして目を閉じるとハァーーっと長い息を吐いた。
「……解った。
そもそも、もうおんなじ状況にならねえように俺が気をつければいいだけの話だな」
それでいい。と言われてイルは思わずうんと返事をしたけど、どういうこと? と内心首を捻ったが、もうガヴィにそれを聞ける雰囲気ではなかった。
「で? お前なんか欲しいもんとかある?」
寝てるばっかじゃ暇だろ、とガヴィが気を利かせて聞いてくれる。
ガヴィがそんな事を聞いてくれるとは思わずイルは慌てて考えた。
だがこれと言って欲しい物が思い浮かばない。
「えっと、王妃様や実は陛下にも本の差し入れとか頂いて、特に物には困ってないんだよね」
そうだなあ、うーん、と悩んで、
「物は要らないけど、早く外に出たいな」
おひさまの光浴びたい、と笑うイルに、ガヴィは不思議そうに返した。
「出ればいいじゃねえか。この部屋庭ついてんだろ」
ガヴィの言う通りで、この来賓用の部屋には専用の小さな庭が部屋続きでついており、部屋から直接庭に出られる仕様になっている。
出ようと思えばすぐに出られるのだ。
「あ。でも、お医者様が……まだ立ちくらみがあるから歩き回るなって……」
「……歩かなきゃいいんだろ?」
「え?」
どういう意味? とガヴィに聞き返そうと思った時には、イルは既にガヴィに抱えられていた。
「ちょ! ガ、ガヴィ!!」
「コラ! 暴れんな。
片腕だけでイルを抱えあげ、相変わらずほっせーな。ホラ、これ羽織っとけ、と置いてあったブランケットを器用に片手で寝台から取って渡される。
「ガ、ガヴィ……これ、なんか凄く恥ずかしいんだけど……」
ガヴィは何も気にしてない様で、変に意識している自分が余計に恥ずかしかった。
「陽に当たるのは、血液作る為にもいいと思うぜ。全然苦じゃないからしっかり掴まっとけ」
そう言って、ん、と
ゆっくりとした足取りで部屋のドアから庭に出る。
イルは久しぶりの外の眩しさに目を細めた。
イルが寝ている間に、外の陽気はすっかり春で、ポカポカとした光と色とりどりの花で溢れていた。
耳をすませば小鳥の声、遠くに微かな日常の人の気配。
髪をすいていく暖かな風が心地良かった。
イルはほぅ、と息を吐いた。
「ガヴィ、有難う。やっぱり凄く気持ちいいね!」
嬉しそうに礼を言うイルに、ガヴィはやっといつもの顔で唇の端を持ち上げた。
イルはガヴィの菫色の瞳が自分を見て笑うと、なんだか胸が忙しくなるのだった。
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