第5話 炎と石獣の領域 前編
炎と石獣の領域、ここはそう呼ばれていた。
北東から南西にかけて全長は206キロメートル、最大幅107キロメートル。
2千メートル級の山々の連なるこの荒野のような赤茶色の大地には、それぞれの山頂を中心とするように壁に挟まれた溝が麓まで全域に伸びている。
垂直に切り立った壁は専門の道具や技術が無ければ登る事は困難であり、また溝の幅もまちまちだ。
それはさながら巨大な立体迷路であり、そして不気味な芸術作品の様であった。
一方、山の中は迷宮になっていると推測されるが、未だその様子は確認できずにいる。
碧色の祝福に守られし栄光暦217年2月11日。
『魔王の拠点が判明!』
この一報が届くや否や、魔族領に展開中の人類軍は可能な限りの兵力をこの地に集結させた。
北方侵攻軍172万人、東方侵攻軍294万人。
合わせた総軍は466万人にもなる大軍勢であった。
この地が炎と石獣の領域と呼ばれる理由――それは突発的に発生する炎の竜巻と無数に存在する大小様々な形の獣の石像にある。
何の前触れもなく、真っ赤に吹き上がる炎の竜巻。
唸りを上げて高々と巻き起こると、それは溝など無視して縦横無尽に駆け巡る。
不幸にも巻き上げられた人間は人の形をした炭となり、武器や鎧という凶器と共に天から降りそそぐ。
このあまりにも理不尽な自然災害を防ぐ手段は、未だ見つかっていない。
もう一つは無数に存在する大小様々な形の石の獣像。
古代に作られた芸術的な遺物の様なそれは、形は鹿、熊、鳥や魚、更には竜やヒドラなど形は様々。大きさも小石程から十数メートル級まで多種多様。
これらは飾られ、また打ち捨てられ、半ば埋まっている物もある。
一見すれば不気味な立体迷路の世界を彩る謎の石像群。
だがこれらの殆ど、或いは全てが石の魔獣――石獣と呼ばれる魔族であった。
突如として動き出し、または壁から湧き出しては人間を襲い、潰し、喰らう。
食べた人間を燃料にして炎を吹き、その際に吐き出す蒸気は熱や悪臭と共に周囲を白く染めてゆく。
そんな悪夢のような世界の中を、人類軍は進む、進む、進む。
立体迷路のような溝をただひたすらに進軍し、血と汗を流し、仲間の死体を踏み越え、山中への侵入口を目指して進み続ける。
空はでたらめに油絵の具を塗った様な――まるで透明感の無い極彩色の雲に覆われている。
その中に微かに見える小さな渦、その下に必ず魔王がいる。
この世全ての厄災の元凶、憎むべき最悪の敵。それを討伐した時、始めて人類に真の希望と未来が訪れる。
その人類に伝わる伝説を信じ、数百万将兵が死地を進む。魔王討伐、ただそれだけのために。
◇ ◇ ◇
碧色の祝福に守られし栄光暦217年6月9日。
第八次魔族領遠征軍、ティランド連合王国旗下コンセシール商国第三軍。
その指揮官として、リッツェルネール・アルドライドはこの戦いに参加していた。
辺りは厚く蒸気に包まれ白い靄が掛かったよう。そのせいだろうか、酷く熱く息苦しい。
そして山頂から濁流の様に流れてくる真っ赤な血の川は、既に膝にまで達していた。
「全員怯むなよ! ここが正念場だぞ!」
体には襟の高い
鎧の左胸には白い3つの星に、尾を引くように放射状に延びる同じく白い7本の線――コンセシール商国の紋章が刻まれていた。
顔には革のマスクをつけ。上下の軍服は厚い生成りの木綿製。
だがその軍服は、今や血を吸って真っ赤に染め上げられている。
手にした武器が、迫りくるカエルの姿をした石獣に振り下ろされ、その体の一部砕く。
ガコンと音を立てて割れた一部は、生物のそれではなく完全に岩だ。
武器は槍の先端を切り取り取ったような、矩形の塊に柄を付けただけのような簡単な形状。
だがその大きさは槍の先端などではなく、刃渡り2メートル、刀身幅45センチにも及ぶ超重量級の両手剣。
それは華奢な彼の体どころか、そもそも人間には到底扱えぬような武器。
だが青年は、まるで枯れ木の棒を振るかのように軽々と振り回している。
本当に重さが無いのだろうか? 違う、石と金属の凄まじい激突音、そして砕く力。それは紛れもなく、超重量級の武器の証であった。
鞘のようなものは見当たらない。抜き身で持ってきたのか、それともどこかで失ったのか。
腰に巻いたベルトには、予備であろうか2本の片手剣が鞘に収まっている。
手に持つ武器には刀身に、腰の2本には鞘に、それぞれ鎧と同じ紋章が刻まれていた。
周囲にも同じ様な青い鎧に剣や槍などを持つ兵士達。皆一様に若く、最年長でも20代半ばに見える少年少女だ。
だがこの地獄のような戦場に立っても尚、動揺する者はいない。皆、この蟲毒の様な世界で生き抜いてきた、ベテランの兵士達であった。
「残骸かと思ったのにな。これだから魔族領は理解に苦しむよ」
疲労もあり、ため息交じりに呟く。
彼と戦っている石獣――それは頭の八割が欠け、四肢は全て破壊された状態で転がっていた。無残に破壊された太古の遺跡、もしくは石獣の死骸……そうとしか見えなかった。
だがそれは突如として動き出し、進軍してきた兵士たちを吹き飛ばし、潰し、噛み砕き、焼き、容赦無く次々と葬ってゆく。
「まったく全てがでたらめだ……ケイサン! ロッセル! 生きているか?」
だが返事は無い。すでに血の川に沈んだか。
両側の壁と壁との幅は8メートルほどだろうか。戦えるだけの広さがある事だけは幸いだ。だが沈んでいる人間や、千切れた手足。それに付いている鎧の他にも武器や盾、障害物が多数沈んでいる。それらに足を取られたら、一巻の終わりだろう。
岩肌の壁には先人達の血で、人間の跡や手形が悪趣味な壁画のように張り付いている。
――ここで死ねば、僕の血もあの中に加わるのだろうか。それともこの川と共に下り、大地へ還るのか……。
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