第9話 日課のこと

 夕食後は、アパートから徒歩五分の銭湯に行くのが篁家の日課。

 たまには夕食前や一人で行くこともあるけれど、大体は食器を片付けた後に二人で出掛ける。

 番台の前で別れて三十分。

 大きい湯船をしっかり堪能した一花は、備え付けのドライヤーで入念に髪を乾かしてから脱衣所を出る。下駄箱の前にはすでにリクトが立っていた。


「お待たせしました」


「俺も今出たところだ」


 会話だけだと恋人同士のようだが、スウェット姿の小柄な女子高生と鴨居によく頭をぶつける全身甲冑の異世界人が並ぶ姿は、とてもチグハグだ。


「リクトさん、今日は何を飲みます? わたしはフルーツ牛乳」


「俺はコーヒー牛乳だな」


 番台で小銭を渡して、牛乳瓶のぎっしり並んだ冷蔵庫を開ける。

 風呂上がりの瓶牛乳は元々一花のルーティーンの一つで、必然的にリクトも巻き込まれた。


「一花殿はセツヤクチューの割に、瓶牛乳これは欠かさないのだな」


「苦しい日々にこそ、潤いは必要です。謂わば必要経費です」


「ヒツヨーケーヒか」


 リクトは日々、本国では聞き慣れない言葉を吸収していく。

 銭湯の建物外に設置されている休憩用ベンチに座り、瓶牛乳を一本空にする時間分だけ火照った身体を冷ましていると、


「おう、青のにーちゃん。もう帰るのかい?」


 威勢のいい声で中年男性が話しかけてきた。あれは確か、商店街の魚屋の大将だ。


「うむ、本日もいい湯だった。佐々木殿は今からで?」


「おうよ。一日の終わりはやっぱ熱い風呂だよな」


 どうやらリクトには銭湯仲間ができていたようだ。


「そうだ、青のにーちゃん、今度ウチの草野球チームに来ねぇか? イセカイじゃあ毎日剣を振ってたんだろ? それをバットに持ち替えてみねぇか?」


「俺は叩くより斬る方が性に合う」


「そう言うなよ。青のにーちゃんはいいカラダしてっから野球のユニフォームが絶対似合うのに。嬢ちゃんもそう思うよな?」


 いきなり話を振られて、一花は曖昧に笑って返す。

 ……一緒に暮らし始めてしばらく経つが、一花は未だリクトの素顔を見たことがない。銭湯に入る時は流石に脱いでいるようだが、出た時には完全武装なので、結局見る機会がないのだ。


「次の日曜、隣町チームと試合があるんだ。だからどうしても若い戦力が欲しくて……」


 話が長引きそうになった時、吹き抜けた夜風に一花が小さくくしゃみをしたので、リクトはベンチを立った。


「今日はこれで失礼する。佐々木殿、また銭湯で」


 大股で歩き出したリクトに、一花は急いでついていく。角を曲がってすぐに、重戦士は歩調を緩めた。


「一花殿、寒くないか? 風邪を引いたのでは?」


 心配そうな声のリクトに一花は「ううん」と首を振る。


「ちょっと鼻がむずむずしただけ」


「それなら、タイミングのいいくしゃみだった」


 功労を称えるリクトに、一花は笑ってしまう。


 帰りの道は街灯が少ない。一人の時は不安に感じていた暗がりも、重戦士がいれば怖くない。


(リクトさんは、『青』くて『いい体』で『若い』、か……)


 一花が先程の魚屋大将から仕入れた情報を頭の中で反芻していると、空を見上げたリクトはポツリと呟いた。


「月が綺麗だな」


 ドキンと心臓が跳ねる。それは、異世界人のリクトが深い意味を持って口にした言葉ではないと思うが。一花がなんと答えようか迷っていると、


「今日は一つしかないのか」


「……は?」


 追撃の言葉に、一花は思わず素っ頓狂な声を上げた。


「なんですか? 一つしかないって?」


「月だ。今は一つしか出ない時期なのか?」


「今日も明日も何年先も、地球の月は一つだけです」


「なんと! それは寂しいな」


 驚く異世界人に、地球人は苦笑する。


「寂しいも賑やかもないですよ、これがこの世界の『普通』ですから。トツエルデは違うんですか?」


「機嫌がいい日は五個くらい昇る」


「……機嫌?」


 誰の機嫌で天体の状況が変わるというのだ。


「まさか、太陽も複数あるんですか?」


 一応確認してみると、


「太陽は一つだ」


 そこは同じなんだ、と地球人が共感を覚えた、瞬間。


「たまに燃え尽きて生まれ変わるが」


 ……やっぱり異世界だった。


「世の中には、わたしの知らないことがいっぱいあるんですね」


「一花殿的には、俺の世界は『世の外』の話だろう」


 取り留めのない話をしながら、いつものように帰路についた。



「リクトさーん、電気消しますよ」


「おう」


 午後十一時は、たかむら家の消灯時間。他にやることがある時は、各自で手元スタンドを使うのが共同生活でのルールだ。

 一間しかないから、寝る時だけプライベート空間をカーテンで仕切る。

 暗がりの中、あまり騒がしくしないようにと遠慮がちに鎧を脱ぐ金属音が聞こえる。

 今、カーテンを捲ればリクトの素顔が見られるのだろうが……一花にそれをするつもりはない。

 ――初めてこの家に来た時、リクトは部屋の隅に座って、盾で自身を隠すようにして甲冑姿のまま寝ていた。

 それがやっと鎧を脱いで布団で横になるようになったのだ。警戒心を揺り戻すようなことはしたくない。


「おやすみなさい、リクトさん」


「おやすみ、一花殿」


 今の生活が大事だから、余計な詮索はしない。

 そう決めている一花だったが――


(……何が『青』なんだろ?)


 ――たまに考え出すと、眠れない夜もあるのだった。

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