決着
隠は体を動かそうとする。だが、凍り付いたようにびくともしない。
まるで金縛りにかかったような……否、本当に金縛りであるのだろう。
目の前の少年も同じようだった。石にされたように身じろぎ一つしない。
視線を動かす。隠の右前方、木の後ろから、人影が二つ現れた。
おきよと温羅だった。
隠は、体を動かそうとした。何度も繰り返しているうちに、なぜ体が動かないのかがわかった。
全身の筋肉という筋肉が異常に緊張してしまっているのだ。無意識のうちに筋肉が強張り固まっている。
となれば意識的に緊張を解けば良いだけのこと。
「……すぅ、はぁ」
隠は呼吸を整えて、余計な力を抜いていく。緊張して強張った体を緩め、脱力を意識する。感覚がはっきりし始めると、指先が動くか試してみた。わずかながら動いた。何度も何度も繰り返して、己の体を取り戻していく。
しばらく経たないうちに、体は自由を得た。
「なるほど」
相手の首筋から、ゆっくり刀を降ろす。そして、おきよを見る。
「まさか、こんなあっさり抜け出すとはね。意外と強い妖なのかしら、朧って」
「いえ、朧ではないけれど」
おきよが目を見開く。
「まさか隠?」
頷く。
『おい隠』
「少し霧に戻ってて」
『はいよ』
刀が霧散する。
「見ての通り、武器が朧。戦うのは私。ところで、どうして止めたの」
「その子を殺すのはあなたが決めることじゃないからよ」
怒気をはらんだ声で、おきよが言う。隠はちらりと、温羅を見た。
「殺してもいい?」
「……その前に聞かせてくれ。なんで戦ったんだ」
首を傾げる。
元々少年を殺してほしいと言ったのは朧だ。隠が答えるのは筋違いというものだろう。
「朧」
名を呼ぶと、隠の前で霧が収束する。そうして武器ではなく、いつもの小僧の姿を取った。
髪を振り乱し、隠に視線を向ける。
「わしが言えば良いんだな」
「そうよ。私も知りたかったし」
先ほど朧に聞こうとしていたことはこれだった。どうして突然、少年を殺してほしいなどと言ったのか。
「――なに。簡単な話よ」
目を閉じて、思い返すように語る。
「平和主義の島に、どこぞのはぐれ鬼も世話になったというだけの話だ」
世話になった……それはきっと、保清の島のことだろう。そしてはぐれ鬼が誰かは言うまでもない。
封印から脱したときから、隠は朧と時を共にしている。鬼の島にたどり着いた覚えはない。ならば、封印される前、おそらく気の遠くなるほどの前になる。
「正直そこのやつらの顔も名前も思い出せん。だがな、同胞を殺されたと知って、怒りを抱かぬ者はおらぬだろう」
淡々と話しているような様子ではあったが、実際その声には静かな怒りと殺意が含まれているのがわかった。
腑に落ちたらしく温羅は頷く。
「……そうか、あんたも」
「しかし昔の話じゃ。確かにわしがこいつを殺すのは、筋が通らぬかもな」
朧は霧になると、今度は刀として地面に突き刺さった。朧の言いたいことは、すぐに理解できた。
「温羅、あなたが決めなさい。私も朧もそれに従うわ。刀を抜いて殺しても良い。殺さなくても良い。あなたの自由よ」
ごくり、と。唾を呑む音がした。温羅はゆっくりと刀を引き抜き、迷いつつも、少年に近づいた。
刀を握りしめ、少年の上に立つ。
「こいつが、こいつが阿鬼を。みんなを……」
刀を握る手は震えていた。
少年を生かしたところで、温羅に得は何一つない。ただ、良心との戦いであろう。温羅はその場で、刀を振り下ろそうとはしなかった。
しばらく温羅は悩んでいた。
隠もおきよも黙ってその様子を見る。
少年の目元から涙があふれた。金縛りから抜け出せず、命乞いすらできないのであろう。ただ、その目には怒りの色も窺えた。
温羅は刀を振り上げて、そして、静かに下ろした。首を振り、少年に背を向ける。
「俺にはまだ殺せない」
それが、温羅の結論であった。
「そ」
特に異論をはさむつもりはない。殺さぬと決まったのならやめるまで。
ただ、朧はそうではなかったらしい。刀から小僧に戻ると、温羅を睨む。
「許すのか」
温羅は首を振った。
「許しはしない。だが、こいつを殺して阿鬼が良くなるわけじゃない。阿鬼もきっと、殺すのを望んでいるわけじゃないはずだ」
握りしめた拳を見ながら、温羅は語る。自身の衝動を抑え込んでいるのか、その拳は震えていた。
「……そうか。もしもの話だが、阿鬼が殺すことを望んでいたらどうするつもりだ」
「そのときは」
温羅は決意に満ちた瞳で朧を見ると、強く拳を前に出した。
「地の果てまででも追いかけて、殺す」
唇を歪め、語る。
「阿鬼は、俺の、優しいところを好いていると。そう言ったんだ」
怒りをかみ殺すように、心を叫ばせる。
「彼女が俺の心を好いているのなら、俺は復讐心に駆られてはならないんだ。もちろん、彼女が望むなら俺は鬼になろう」
だからこそ今は殺さない。
妻が狂っていないのなら、夫も己を保たなければならない。妻が狂ったのなら、夫も狂ってやろう。
なぜなら。
「俺は、阿鬼の夫だからな」
強い覚悟が伝わってきた。
阿鬼がこれをどう思うのか、感じるのか、わかる日が来るとは限らない。だが、それでも温羅は阿鬼の望む男であろうとするだろう。
「ならこいつについては任せる。わしらはどうしようか、のう、隠」
「とりあえず戻ってきなさい。旅の道具、必要でしょ」
「おきよの言う通りね。許してもらえるのなら、甘えましょう」
隠の言に、朧が頷く。
「では戻ろうか」
こうして、隠と朧の戦いが終わった。
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