敵
ぶくぶくぶく。
湯船に息を吹き込んで泡立たせる。
隠は湯に浸かり、今日の疲れを癒していた。
『ひぃーあちこち痛いわ。誰かさんが無茶したせいじゃな』
「生きてるんだからいいじゃない」
愚痴る朧に、隠は頬を膨らませる。
『まさか妖刀を折るとは思わなんだ。狙ってやったじゃろ』
「元々そういう戦い方よ、私は」
相手をあらゆることを理解し、相手の牙を抜き、倒す。いかに相手の武器を奪い、戦い続けられるか。それが隠の戦いだ。何度か打ち合ったあたりで隠は妖刀を折る算段をつけていた。
最善は武器を奪い、己の武器とすることだ。しかし、魔を断つ力を持つ妖刀は、折る方が早いと判断した。
結果ああなったわけである。
「でも、あなたがいなかったら無理だったわ」
『当たり前じゃ。普通の刀で打ち合ってみろ。たちまち折られ斬られ、死ぬ』
「えぇ」
隠は戦いを思い返す。朧も痛みに耐えながら、よく付き合ってくれたものだ。隠だけでも、朧だけでも、あの少年に勝つことはできなかった。
あの後、少年はしばらくの間、おきよが預かると言っていた。今も屋敷にはいる。安全とは言い切れないだろうが、一件落着というやつであろう。
「……本当に終わったのかしら」
『何がだ』
「いろいろよ。あの子、妖を探知できる札を持ってたのに、戦いではそういった類の術は使ってこなかった」
『やつが未熟だったか、誰かから譲り受けた、買いとったんじゃろう。島を襲ったやつも、おきよが見たやつも一人だと言っていた。敵はあやつだけ。お主のは余計な心配というやつじゃ』
「だと良いんだけど」
朧の言うことは正しい。温羅の話と現状を照らし合わせれば仲間がいないことは明白だろう。
しかし、仲間のいない者が敵の数を上回ることがないわけではない。戦で言えば謀反や同盟だ。
果たして少年は仲間がいないのか、それとも「今は」いないだけなのか。少年は捕まってからは一言も話していない。そのため、知らない、わからない。
それゆえに隠は、どうにも不安を拭いきれなかった。
〇
――くそ。くそ。
台所に忍び込み、包丁を抜き取る。
何のため? 決まっている。あの忌々しい鬼どもを皆殺しにするためだ。
自分から何もかも奪って、嘲笑ってくる。あの汚い鬼どもを。
「殺してやる」
絶対に。絶対に。
真っ暗闇な屋敷の中を歩いていく。誰も彼も眠りについた時間だ。
抵抗がないのなら、殺せる。
気配を、足音を消す。そして、部屋に忍び寄る。
まずは一番楽そうな娘と男だ。次に狐、最後にあの女。
武器がないからって拘束もせずにいたことを後悔させてやる。
包丁を握り絞めて、戸に手をかける。
「やめておいたほうがいいわよ」
振り返る。
そこに最悪の人物がいた。
○
確かに少年を拘束はしなかった。与えた部屋に閉じ込めもせず、おきよの言うところでは食事も普通にとらせたらしい。
だからといって少年には何もする気がないだろうなど高をくくっていたわけではない。
暗闇の中で、少年の手の付近が鋭く光る。刃物の類だろう。恐らくは包丁だ。
「あなたが何をしようとするかなんてわかるわ」
少年の後ろを指さす。
「野放しにしてるわけじゃないの。この屋敷の主はあなたが何をしてるかきっちり見てるわ」
ぼっ……と灯りがつく。赤く燃える火が、少年の後ろに浮かび、おきよの顔が現れた。
少年がおきよの姿を確認し、舌打ちをする。
「どうして、僕ばっかり」
責任を押し付ける子どものように、少年は声を荒げた。
「どうして僕ばかりこんな、邪魔されるんだよ! あの鬼は庇われてさぁ! 僕のときは、僕のときはあんなに祈ったのに、助けてほしかったのに助けてくれなかったのに! どうして、どうして鬼なんかがこんな守られるんだよおおぉお!」
床をどんどんと踏みつけながら、少年は表情を大きく歪めて、憎悪の念をあらわにする。
「くそ、くそがっ! 妖なんてみんな死ねば良い! 僕から母さんも父さんも、みんな全部壊したやつらなんて……全員ぶっ殺してやる……!」
堰をきったように、感情が流れ出す。
溺れているようだった。行き場のない悲しみと怒りと苦しみが、混ざって溺れさせている。必死に手を伸ばしても誰も握る者はいない。
隠には少年の身に何があったのか理解することはできない。ただ、己の経験から推し量ることはできる。
きっと妖が憎いのだろう。隠も一歩間違えばそうなっていた。ならなかったのが不思議なほどだ。
同じというつもりはない。だが、少年を責める気は、隠には起こらなかった。
『まるで、子どもの駄々だな』
朧が憐れみを持って呟く。嘲笑うでもなく、ただそこに至ってしまったことへの、虚しさのようなものが伝わってきた。
「そうね、子どもの駄々だわ」
隠はぼそりと、朧に同意したつもりであった。しかし、この場においては、言ってはならぬことであった。
少年の耳に届いたからだ。
少年は怒りに全身を震わせた。
「僕を、僕をそんな目で見るな」
光がこちらを向く。
「僕を笑うなぁあああ!」
少年が突撃してきた。刃物を真っすぐこちらに向けて、憎悪をむき出しにしたのだ。
その行動は純粋で、あまりにも遅い。
こんなもの、隠にとっては何の問題もない。
――ないのだが。
隠は両手を広げた。そしてそのまま、突っ込んできた少年を受け入れる。
どん、という衝撃の後。やや遅れて、痛みが滲みだす。
『……隠?』
腹が尋常じゃなく熱かった。歯を食いしばって、熱を押し込める。
「隠、何してるのよ!?」
おきよが悲鳴を上げる。駆け寄ろうとするおきよを、隠は首を振って止める。
平気だ。致命傷ではない。
隠は広げた両手で少年を抱きしめた。背中をさすり、頭を撫でる。
「え?」
少年が目を大きく見開いて、隠の顔を覗き込んでくる。
「満足した?」
「え、え……?」
「ごめんなさいね。あなたは悪くなかったの。運がなかっただけ」
強く、強く抱きしめる。
深く、深く刃が突き刺さる。
「……ごぼっ」
底から火が噴きだしてきて、吐き出す。
「そう、運がなかったの。その場に、あなたのお母さんもお父さんも助けられる人が、いなかったの。ごめんなさい、そこにいられなくて」
視界がかすむ。足の感覚がおぼろげになる。
大丈夫だ。慣れている。まだ起きてられる。
「ごめんなさい。痛かったのよね、苦しかったのよね、辛かったのよね。私にはわからないけど、きっと……そうだと思うの。でも」
妖だって、悪い奴ばかりではない。
手に力が入らなくなると、少年が隠から離れる。
泣き出しそうな顔になっていた。力を振り絞って、少年の頬に手で触れる。
「ここの妖は殺させないわ。あなたから全てを奪ったのは、違うやつだから。斬るのはもっと違うやつのはずだから。だから、ここであなたに斬られるのは、私だけで」
斬られていいのは、自分だけだ。
そこまで言って、尻餅をついた。刺されたところに手を当てると、べったり血がつく。
「隠!」
おきよが駆け寄ってきた。心配そうに覗き込んでくる。
肩を軽く揺らされるが、気分が悪くなるだけだった。
「隠! しっかりして! 今治療するから」
「そんな、大げさな」
「何ばかなこと言ってんの。大ごとなのよ!」
叩かれそうな勢いで怒鳴られる。
『隠』
「なに、朧」
『疲れたじゃろ』
「うん」
『なら寝ろ。傷はわしとおきよでどうにかする。起きたら、話をしよう』
あぁ、それはありがたい。今朧に長ったらしい話をされると、とても面倒くさい。
お言葉に甘えて寝てしまおう。
隠は瞳を閉じる。
そして、闇に溶けるように、意識を虚無に溶かしていった。
〇
どうして、こうなったのか。
わからない。望んでいたはずだ。だから刺したはずだ。
なのに。
「隠! 隠!」
狐の妖が、必死に女の体を揺すっている。自分が刺した相手だ。
重傷に違いない。死んでほしかった。望みは叶った。
――ごめんなさい、そこにいられなくて。
なのに、どうしてこんなに胸が痛い。心臓がきつく紐で縛り上げられみたいに、ひどく苦しいのはなぜなのか。
「ち、違う」
頭を抱えて座り込む。
避けられたはずだ。自分は悪くない。悪いのは避けなかったあの女だ。
隣で、戸の開く音がした。思わずそちらに目を向ける。
鬼の娘を連れていた男だった。男も起きていたのか、倒れている女を一瞥し、己を見下ろす。
静かな怒りが、瞳の奥で燃えていた。
背中からぞわぞわと恐怖がわいてくる。
「ぼ、僕が悪いんじゃない。あいつがあいつが、悪いんだ。あいつが」
首を激しく振る。自分は悪くない、悪くない、悪くない。
男は動かない。動かないのが怖かった。
「あんたは、何と戦ってるんだ?」
「……へ?」
「何をそんなに怯えてるか知らないが、ここにあんたの敵はいないはずだ」
それだけ言うと、男は部屋を出て、女のほうへ近寄った。
動けない。
どこもかしこも、とてつもなく遠くに思えて、動く気力が起きなかった。
そして、そのまましばらく、放心したままでいた。
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