山が寝静まり、隠も眠りきったころ。

 朧は、起き上がった。

 気の鍛錬をするために体を借りるのだが、今日は別の目的もあった。鍛錬はいつもより軽く、早めに終わらせてしまう。

 そうして、与えられた部屋の襖を開けて廊下へ出た。

 隠や温羅の部屋、風呂に厠、そして大広間は廊下ひとつで行き来できるようになっている。


「……あ」

「あ」


 朧が大広間に向けて廊下を歩いていると、温羅とばったり出くわした。


「おいっす」


 手をあげて声をかける。温羅は頭を下げた。


「隠のほうでいいのか」

「いや、朧じゃ」

「そうか。こんな夜中にどうした」

「おきよに用があってな。お主は」

「厠から戻るとこだ」


 大きくあくびが出る。


「おきよなら外にいる」

「昼もおらんかったか?」

「事情は知らないが、夜もほとんど外だ」

「そうか。ところで」


 投げかける視線に、温羅は首をかしげる。


「どうした」

「温羅という名前、元々お主のものではないだろう」


 目が見開かれる。温羅は隠すわけでもなく、頷いた。


「これは俺が婿入りにもらった名だ。鬼としての、な」

「やはりな」


 男が羅で女が鬼、だったか……と朧はひとり呟く。


「やっぱり鬼だとわかるのか」

「うん? あぁ、まあな。人間らしからぬ名だしのう」


 それにしても。


「人間が鬼の婿入りか。嫁は死んだのか」


 返ってきたのは否定だった。

 となれば答えは一つしかない。


「阿鬼だ」


 そう。阿鬼だ。外見だけなら歳が離れているように思えるが、まぁ十くらいの差は珍しくもない。それに、朧とて生きていた年数と見た目はかみ合っていない。気にすることではないだろう。


「正直ほっとしたんだ」

「そりゃ嫁が生きとったんじゃからな」

「いや、そうじゃない」


 俯いて、温羅は首を振る。


「俺は誰も守れなかった。阿鬼の大事な家族も。親戚も。だから、阿鬼が今の状態でいることに少し安堵してるんだ」

「なぜじゃ」

「後が怖いだろう? 憎しみに駆られるのか、発狂してしまうのか、俺が責められるのか。どうなるかわからない。ただ、確実に言えるのは」

「お主の愛した阿鬼ではなくなる、か?」

「そこは変わらない。変わらないが、俺が守れなかったものをまざまざと見せつけられているようで、な」


 拳を握りしめる。


「きっと、この上なく辛いだろう」


 温羅に何ら責任はない。

 全ては襲ったほうの責だ。温羅は一人救えただけでも御の字のはずだ。しかし、生き残ってしまったものの性なのか、良い方に考えられない、思われない。


「……仇、討ちたいかの」


 青い瞳がこちらに向けられる。光には怒りと困惑が混じっていた。


「わからない。俺はただ阿鬼と話をしたいだけなんだ。以前のように、のんびり、話がしたい。怖いが、それ以上に戻りたいんだあの頃に」

「そうか」


 痛々しい笑みを浮かべて、温羅は手をあげる。


「すまないな。こんな、気分の悪いことを」

「いや。語らせたのはわしじゃ。気にせんで良い」

「吐き出せて少し気分が良くなったよ。ありがとう」

「おう、ぐっすり眠ると良い」


 頷いて、温羅は自分の部屋へ戻っていく。

 朧はその場を後にした。そして、大広間を通って外に出る。

 屋敷の外に別段特徴はない。山の木々に囲まれており、庭と呼べるものもない。上ってきた石階段のある空間から、月が覗いているくらいだ。


「良い月じゃな」


 朧は空を見上げながら、声をかけた。

 階段のところに、おきよが座っていたからだ。


「あらこんばんは。隠は?」

「寝とるからわしが体を使っておる。隣、座っても」

「どうぞ」


 行儀よく座るおきよの隣で、朧は脚を投げ出すようにして座った。


「どうしてわしらをここに?」

「どうしてって、困っていそうだったから。普段からしているのよ? 困った旅人をもてなすの。山で長いこと生きてると寂しいでしょ。だから孤独を埋めるためでもあるわ」

「独りはすさまじく退屈じゃからな」

「えぇ、本当に」


 朧も途方もないときを独りで生き続けた。狂うわけではないが、関わりが恋しいときはいくらでもあった。ゆえに隠と出会ったときは、嬉しかった。

 ゆえにおきよの気持ちがわからないわけではない。


「しかし、正確ではない言葉を信じろというのは虫が良すぎるのではないかの」


 三角の耳が垂れた。細くなった赤い瞳が、朧を映す。


「それは、なぜ?」

「客人を持てなしているわりには別のことばかりを気にしてるではないか」


 朧が気になっていたのはそれだった。本当に人と関わりたいだけであれば、朧が隠にするような無駄話をするだろう。しかし、おきよは何かしら目的があるような行動ばかりだ。


「急かすようにわしらと温羅たちを会わせたのもそうよ」

「力になりたいのよ」


 誤魔化すな。

 朧は無言で返した。しばし見つめ合っていたが、おきよがため息を吐く。


「……うろちょろしてるやつがいるの」


 どうやら観念したらしい。おきよが話し始めた。


「妖刀の男について、容姿は聞いた?」


 首を振る。

 朧が詳しく問わなかったこともあるが、妖刀を持つ以外の特徴は聞かされていない。


「髪を後ろに縛っていて、とても鬼を殺せそうにない細身……世にいう美少年らしいわ」

「ほーん。で、そいつがいると」


 頷かれる。


「あの子。呪術にも心得があるみたいね。山の麓の木々に札を張り付けてる」

「どういう効果だ」

「出ようとした妖を探知、追跡する術式」

「ふむ。となるとわしらも対象か」

「そうよ。だからここに招いたの。あのまま出ようとしたら斬られていたわ」


 要はかくまったというわけだ。


「温羅たちには旅に必要なものをそろえてあげるからしばらくここにいなさいと言ってあるの」

「なぜ妖刀の男のことを言わない」


 おきよは表情をくもらせた。苦い思いを噛みしめるように、唇をゆがめる。


「……人間って、何をするかわからないじゃない」


 水に重い石を沈めたような、胸へと深く入り込む言葉であった。

 それだけおきよの声に憂いがあったからか、朧にも経験があったからか……おそらく両方であった。


「本当のこと言って、無茶されたら困るわ」

「じゃな」

「隠には言わないでね。できれば、隠にも留まってもらうから。旅にいるものは本当に用意するわ」


 朧は笑って返す。


「留まるというのはいつまでかの」

「相手があきらめるまで……きっともう少しすれば終わるわ」

「そうか。確認するがうろついてるのは一人か?」

「え? 一人ね。温羅から聞いたのも一人だったわ」

「わかった」


 立ち上がる。尻を手で叩いて砂埃を払った。


「では、そろそろ寝る。隠の体だしのう」

「そう。おやすみなさい」

「おやすみ」


 そうして、朧は屋敷の中に戻った。


『――ということが、昨夜あったんじゃ』

「馬鹿なの」


 起きて早々、罵倒された。

 外では小鳥が爽やかな朝を歌っている。


「言うなって言われたのになんで私に言ったの」

『約束しとらんよ』

「断ってないじゃない」

『了承もしとらん。笑っただけ』


 ため息が漏れた。


「あなたにお願い事なんてしないことにするわ」

『はっきり答えを求められれば答えるぞ』

「いちいち神経使ってられないわよ。ほんと」


 額に手を当てられる。

 しかし、朧としてはこれからが本番である。

 何も理由もなく他人に探りを入れたり、隠に事情を話したわけではない。もちろん、行動したからには行動したなりの理由がある。


『それで、だな。隠』

「なに」

『妖刀を持った男を殺してほしいんだが、良いかの』

「……は?」

『殺してほしいからお主に話したんじゃ』


 あまりに予想外な話だったのか、隠がきょとんとする。


『なんじゃ、意外か』

「えぇ」

『わしだって人間に味方してるわけではないんじゃぞ。妖が人を滅ぼすのなら妖の敵になる。人が妖を滅ぼすのなら人の敵になる』

「妖刀の男は敵ってこと」

『平たく言えば』

「わかったわ」

『へ? 良いのか』


 今度は朧がきょとんとするはめになった。


「人を殺すなんて今更よ」


 そうだった。隠は戦場を生き抜いてきた身。人を殺してなかったわけではない。


『だが、嫌気がさしたのではないのか』

「えぇ。でも、戦う意味はあるわ」


 迷いのない真っすぐな瞳だった。隠は自分の手の平を見て、握りしめる。


「やりましょう」

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