同じ

 風呂。

 その単語を聞いて連想するのは蒸気の風呂である。

 まず体が浸かるほどのお湯をつくるのも、運ぶのも大変な労力になるからだ。ゆえに、日常生活では蒸気であかをうかせて落とすか、水で洗うので精いっぱいだ。


 しかし。


『貴族でもこんな贅沢はせんぞ』


 隠は今、湯に浸かっていた。四角く、板で区切られた空間に湯が満たされ、隠が中に入っている。


「狐につつまれたみたい」

『ははっ、言い得て妙じゃな。気持ちはわからんでもないが、これは本物よ』


 おきよに連れてこられたのは、山の中にあるとは思えない立派な屋敷だった。屋敷があっただけでも驚きだったというのに、こんなものまであるとは驚愕である。

 湯に体を浸けられる風呂など聞いたことも見たこともない。しかし、今身を刺激して感覚を取り戻しているのは、まぎれもなくこの風呂のおかげだ。

 両手で湯をすくって、顔にあてる。


「はぁ」


 人生で一番気持ちが良いかもしれない。隠はそう思いながら、心地よさに沈む。


『とろけた顔しおって』

「仕方ないでしょ」

『そんなに良いのか』

「朧も浸かる?」

『どれ』


 ひょいと、感覚が薄れる。体の主導権が朧に移ったからだ。


「この程度……たかが、知れて」


 朧に変わってから数秒。すぐに顔を綻ばせるのがわかった。


「これは……良いな」

『でしょ』


 朧は肩や腕を揉みながら、感嘆の声を漏らす。


「ふぅ、しかし熱いな。もう戻すぞー」


 満足げに湯に浸かっていた朧だったが、数十秒だけ堪能するとそういった。思っていたよりもずっと早く、隠に感覚が戻る。 

 感覚が戻った途端、朧の熱いと言った意味を理解した。


「うっ」


 思いがけず、声を漏らしてしまう。

 体の熱さが倍増していた。風呂に浸かっている間は慣れがあったのだが、朧に体を渡したことでその慣れがなくなったのだろう。急にどっと汗が噴きだしてきた。

 隠は指を組んで腕を伸ばす。そして、すぐさま立ち上がった。


『もう上がるのか』

「熱いんだもの」


 頭の中で指を鳴らす音が響く。


『それな!』

「何その胡乱うろんな言葉遣い」


 というか、音を鳴らすこともできたのか。朧の自由さには呆れる。

 顔を手で扇ぎつつ、隠は脱衣場へ出た。視線を下げ、ぼろを入れていた籠を見る。籠に入れていたぼろはなくなり、代わりに手ぬぐいと着物があった。

 手ぬぐいを拾いあげ、頭からかぶる。片手で頭をふき、籠の中の着物をつまんでみた。普段着ているものより、手に重みが伝わってくる。


「動き辛そうね」

『まぁ争うわけでもなし、耐えるが良い』


 汗の噴き出す体を拭いて、乾かす。

 熱を吐き、しばし涼んでから服を着た。白の上着と、紅の袴であった。ざっと体を動かして着心地を確かめる。元々貴族が着るためのものだからか、違和感があった。


『この後は食事だったか』

「えぇ」


 脱衣場を出ると、廊下であった。廊下ではおきよが、静かに待っている。


「どうだったお風呂は」

「気持ち良かったわ」


 感想を聞いて、花のような笑顔を浮かべる。


「そ。良かった。さ、ついてきて」


 おきよが廊下を進む。隠はその後ろをついていった。

 屋敷は全体的に活力の感じられない、暗い雰囲気を纏っていた。

 手入れは隅々まで行き届いているのは感じられる。しかし、屋敷の、貴族の栄華を表現したような煌びやかな家具や装飾はない。

 空っぽの家、それが屋敷に対して抱く印象だ。


「あなたに憑いているの、鬼なのよね」


 振り返らず、確認するように聞かれる。


「えぇ」

「なら会わせたい人がいるのだけれど、良いかしら?」


 どうやら隠たちやおきよ以外にも人がいるらしい。他に人がいる、ではなく、会わせたいと申し出た辺り何か目的があるのだろう。

 理由なんてものは皆目見当もつかないが、別段断る意味もない。


「構わないわ」

「ありがとう。ま、先に大広間にいるだろうし、どうせ会うんだろうけどね」


 大広間にたどり着く。

 おきよの言う通り、先客がいた。二人だ。

 一人は、強面の男だった。大柄でがっしりとした体つきで、表情が硬く余裕がない。二人目は、その男に寄りかかる少女だ。全身から力が抜けたようで、男に体を任せている。瞳は焦点があっておらず、虚空へ向けていた。

 二人の前には足つきのお盆に食事が用意されていた。もう一つ、前に人のいないお盆があり、そちらの食事は隠のものらしかった。


「おきよさん、その人は」


 穏やかで、芯のある声が響く。男の声であった。少女の肩に手を回し、身を固める。


「こちら、えーっと」


 視線が助けを求めてくる。そこで、おきよの名前は聞いたが、自分は名乗っていないことを思い出した。

 隠は一歩前に出て息を吸う。そして、呼気に合わせて、名乗った。


「隠よ。旅をしているの」

「だそうよ。少なくとも今日は泊めるから仲良くするように」

温羅うらだ。こっちは阿鬼あきという。よろしく頼む」


 温羅が頭を下げたので、隠も礼を返した。


「隠、もう朧のほうもお願い」


 おきよの言葉に、温羅が首をかしげる。


『わしもか』

「らしいわよ」

『あいわかった』


 白い霧が、大広間を漂った。やがて霧は、隠の隣に集まり始める。

 その様子を、温羅は眉をひそめて見ていた。おきよのほうは感心したような声を漏らす。


「こんなもんで良いかの」


 霧の中に影ができ、やがて色をつけて形が成った。

 艶やかな髪を振り、角のはえた小僧が出てきた。朧の本来の姿だ。


「わしは朧、霧の鬼じゃ。よろしく」


 片手をあげ、朧が言う。温羅は信じられないようなものを目にしたように、あんぐりと口を開けていた。


「鬼、だと」

「鬼じゃ。この状態はあまり長く続かぬゆえ、普段は隠の中におる。体がないのでな」


 両手を腰にあて、胸を張る。朧を知らぬ者からすれば、子どもが背伸びしているようにしか見えない。

 しかし、温羅は立ち上がると、朧の前まで歩み寄る。

 そして、両の拳を床に叩きつけ、次には額をつけた。


「……へ?」


 胸を張ったまま、顔だけが唖然とする。朧の困惑も最もである。

 温羅は朧に土下座をしていたのだ。


「あんたに、頼みがある……!」







 無言で食事を済ませ、温羅と阿鬼と向かい合う。

 今、隠の体は朧が使っている。温羅と話をするためだ。


「俺たちは保青という島に住んでいたんだ。鬼の住む島で、みんな平和に暮らしていた」


 温羅は目を伏せて、阿鬼の頭を撫でる。阿鬼のほうは何の反応もせず、ただ膝枕の上でぼんやりしていた。

 食事のときも、阿鬼の様子は同じであった。口へ食料が運ばれれば食べるものの、手を動かしたりなぞは一切しない。ゆえに温羅が食べさせていた。


「阿鬼は島の娘で、俺は流れ者だった。俺は鬼じゃないんだが、島の鬼たちはみんな俺を歓迎してくれて家族のように親しくしてくれたんだ」

「ほう」


 隠と朧の関係同様、人間だ鬼だといってすぐさま争いになるわけではない。中には共存する者もいる。珍しくはあるが、おかしい話ではない。


「だがある日、何もかも壊されたんだ。やつに」

「やつとは」

「妖刀を持った男だ。保青の鬼たちは平和主義だ、戦うすべを持たず、一方的だった」


 温羅が拳を握りしめる。


「阿鬼は角を斬り落とされて……殺される直前でなんとか助けられた」


 唇を歪めて体を震わせ、感情をあらわにする。


「俺はその後……阿鬼を抱えて、逃げるので手一杯だった」


 話は断片的ではあるものの、暮らしていた場所を奪われたのだ。どれほど苦しく、悔しい出来事かは想像に難くない。深く刻まれた温羅の眉間のしわも、それを物語っていた。


「お主らがどうしてここにいるか、そこの娘がなぜぼっとしておるのかはわかった。で、頼みというのはなんじゃ」

「阿鬼の角を治してほしい。治せないのならその手段を。あとは鬼の住処も教えてもらいたい」


 朧は唸る。何を言われるかはある程度予想できていたが、実際にきてみると眉をひそめるしかなかった。


「まず角に関してだが、今のわしじゃ治せん。方法も知っておるがあきらめたほうが良い」

「なぜだ」

「他の鬼の角を移植する必要があるからだ。それと移植するだけの技術を持った医者もいる。わかるじゃろ?」

『どういうこと?』

「鬼から角を奪えば今の娘のようになる。自ら屍のようになりたいなぞ誰が願う? よしんばいたとして、移植は誰がするんじゃ」


 阿鬼を助けるために死ねと言っているようなものである。二つ返事で引き受けてもらえるような軽いものではない。

 よそ者であればなおさらであろう。


「しかしまぁ、随分残酷なことをするやつだな。その妖刀の男は」


 それに性質も悪い。

 鬼を殺すだけであれば首をはねるのが手っ取り早いであろう。わざわざ角を斬り落としたのは、遊び以外ない。

 敵が凶悪であれば角を折るなども戦法に入るかもしれない。だが、妖刀の男がしていたのは虐殺だ。戦法は必要ない。


「とにかくだ、わしの言いたい意味はわかったな?」


 温羅が強く頷く。


「鬼の住処のほうはどうなんだ。旅をしようにも、常に命がけだ。そんなものにいつまでも阿鬼を付き合わせられない。阿鬼だけでも安全な場所にいてほしいんだ」

「……さっき保青の島と言ったよな」

「あぁ」

「すまんが、わしが確実に言えるのはそこくらいなもんじゃ。もうないんじゃろ?」


 朧が封印されていた期間のほうが長い。保青の島は鬼の住む場所として知っていたが、他は盗賊の穴倉のようなものばかりで、とても残っているとは思えないものばかりだった。


「……そうか」


 温羅は力なく俯いた。


「力になれんですまんな」


 同族が悲劇に遭うのは胸が痛む。助けてやりたいのは山々だった。

 だができもせず、知りもしないことをどうすることもできなかった。

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