おきよ

 その日の天気は、生憎の雨だった。山の中を通過しているため、人里にたどり着くのは随分先になるだろう。


 雨は冷える。笠をかぶっているとはいえ、足は濡れる。そこから、体温が少しずつ奪われていくのだ。


 小雨であれば気にならないが、ついていないことに今日は大雨であった。おかげで地面がぬかるんで足をとられることも少なくない。


『山小屋でもあれば良いの』

「そうね」


 歩き始めてからだいぶ経つが、雨宿りできそうなところはどこにも見当たらない。人工物も獣道の隅に、地蔵がひとつ、ぽつんといる程度だ。こうなれば、黙って足を動かすほかない。


「くちゅんっ」


 体が冷えたのか、くしゃみが出た。身を震わせ、隠は身を擦る。気がついてみれば手足の感覚がほぼなくなっていた。指の先が、ぴりぴりと痛む。


『このままじゃ風邪引くぞ』

「急いだほうが良さそうね」


 早足になって地蔵の横を通りすぎ――

 ――ちりんと、鈴の音を聞いた。


 隠はすぐさま、足を止める。


『……どうした』

「いえ、鈴の音しなかった?」

『してないと思うが』


 首をかしげる。確かに鈴の音がしたはずだが。

 疑問を感じつつ、あたりに視線を動かす。

 そうして先ほど通り過ぎた地蔵に目を向けた。

 ……そして一瞬、理解が遅れた。

 人がいたからである。否、人のような何かだ。


『……ほう』


 華やかな赤い着物を身にまとい、束ねられた髪は金色で、肌の白い女性。特に目を引くのは頭にある二つの尖った耳と、後ろにある筆のような尾だろう。

 それが、地蔵の代わりとばかりに佇んでいた。明らかの人の容姿ではない。


「妖?」


 半歩下がり、警戒を強める。

 伏せられていた目がこちらを向く。朧と同じような赤い瞳であった。


「そんな、身を固めなくとも良いでしょう?」


 水のように澄んだ声。艶やかな微笑みと共に、女性は言う。


「雨宿り、していくかい。寒いでしょう。温かいご飯も用意するわ」


 手を振り、指し示すところに階段があった。隠がさっき見たときにはないものだった。


「怖い顔しないで。ほら」

「……朧」


 どうしたらいいかわからず、朧に判断を求める。


『大丈夫じゃろ。ついていってみ』


 ためらいもなくそう言われたので、女性についていくことにした。隠が頷いたのを確認すると、彼女はすうっと歩き出す。そして、階段を上り始めた彼女の後ろを、隠は歩く。

 からん、からんと。彼女が履いている下駄が、石段を鳴らす。雨の中にも関わらず、ほんの少し、梅の香りがした。


「もう片方いるでしょ? 妖かしら」


 振り返らず、問いが降ってくる。

 それは、隠にとって、これ以上ないほど衝撃的な言葉であった。


「朧が、わかるの」

「へぇ、朧っていうのかい」


 隠と朧が出会ってからそう短くない時間が経っている。しかし、朧の存在がわかる者なぞほとんどいなかった。いないのだと、隠は勝手に思っていた。しかし、どうやらそうではないらしい。


「やけに親しそうな呼び方じゃない」


 とはいえ物言いからして声まで聞こえるわけではないらしい。声が聞こえるのであれば、朧に話しかけるであろう。感じる、または見えると考えるのが妥当か。


「どんな妖なの?」

「……親しくはないけど、私に憑依した鬼よ」

『いや、そこそこは親しいじゃろ』


 茶々が入るが無視する。


「憑依? そりゃ珍しいね。人と妖が一つの体に共生だなんて」

「いろいろあって」

「そ。あなたとも話したいけど、朧とやらにも興味があるわ。話したりできるのかしら」

「できるわ」

「良かった。なら、後でじっくりお話しできそうね」


 階段を上りきり、女性が振り返る。天を突くような耳が、ぴくぴくと動いた。


「まずはお風呂。それから着替えを済ませちゃいましょう……あぁそうそう。名前言ってなかったわね」


 目を細めて、女性は名を告げる。


「おきよ。それが私の名よ」


 おきよの表情は、どこか嬉しそうであった。

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