今は昔
死にかけの鬼
――今となってはもう、昔のことだ
選んで粕を掴むとはこの事か。
霧鬼朧は血に濡れた体を引きずりながら、地べたに座り込んだ。暗い倉庫らしき建物の中で、床を血に濡らし、ため息を吐く。いかにもでかい建物に潜り込んでしまったのが悪かったのか。
この体で外を歩けば殺される。獣が寄り付かない、妖も近づかない、整備された人の地であれば幾分か増しだと考えて忍び込んだ。道具を持たぬ人間は弱い。今の朧でもちょいと殺気を出してやれば怯えて逃げるだろう。保身にかけての本能と賢さは人間の良いところだ。
ところがどうだ。よくは知らないが、忍び込んだ屋敷には武器を持った武士がいる。これはまだいい。よくはないが最悪ではない。だが、最悪なことに陰陽師もいた。
陰陽師は人のくせに奇怪な技を数多く使える。熟練したものであれば鬼を相手に出来るであろう。今の朧は駆け出しにも劣るほど弱っている。力の加減は鍛えてきたつもりだ。角を無理やり頭の中にしまい込む術も習得したし、妖気が駄々洩れになって探知される事もほとんどない。
ただ、単純に見つかれば鬼退治の武勲をその者に与える事になってしまう。
見つかる前に逃げればいい。そんな至極当然の事すら朧には出来なかった。
朧が出来るのは人に見つからず、動ける程度に傷が癒える事を願うくらいなものである。ここにたどり着くまでに血を流し過ぎた。
「はぁ、酷いやつに見つかったものじゃの……」
心底うんざりした声で、朧は呟く。
「今度会ったら……いや、二度と会いたくないのう」
片腕を額の上にのせる。
「このまま死んだほうがましかもしれんなぁ」
ぼんやりと天井を見上げながら、倒れる。意識が点いたり消えたり、瞬いていた。
思考はまとも働かず、眠りを求める。体は生存本能を叩き鳴らして起きていようとする。
それゆえか、瞬きしているように思えて実際は気絶を繰り返していたのかもしれない。
「大丈夫ですか」
四度視界が暗転したのちに知らない少女が自分の体をのぞき込んでいた。倉庫の扉が開いており、月明かりが少女の姿を照らしていた。
長い黒髪と創られたかのように整いすぎた顔立ち。金の光を閉じ込めた、月のような瞳と小さな桜色の唇。
「……お主は」
「
今にも掻き消えそうなほど繊細な声だった。
「朧」
鈴音の美しさよりも、朧は己の終わりを感じて目を瞑った。
「朧、ですか。あなたはとても凄い妖なのですね」
「わかるか? まぁ死に損ないだがな」
「えぇ。ここに忍び込める妖なんて初めて見ました。ここは厳重ですから」
「わしも入って後悔しておる。お主に陰陽師でも呼ばれようものなら終わりだ」
「いいえ。呼びません、お約束します」
目を見開く。鈴音を見ると、鈴音は真っすぐこちらを見て頷いた。
「どういうつもりだ」
「恩を売るつもりです」
目を細め、にっこり笑う。
「あなたの命を救います。だから私を守ってください」
「守る?」
「はい」
「いいぞ」
背に腹は代えられない。娘一人を守るくらい容易い。朧は楽観しつつ、了承した。
「して、何から守るんじゃ。妖相手でも陰陽師がいる、わしのなぞいらぬ力じゃろ」
「いえ。人だけでは勝てぬのです。あなたがここに紛れてきたのはきっと天からの贈り物です」
両手を合わせて、鈴音は天井を見る。
朧は嫌な予感がした。
「武勲の為に鬼退治でもする気か」
「武勲の為ではないですが、鬼退治です」
「ならわしの首でも取って満足しておけ」
面倒なことに付き合いたくはない。投げやりに朧は提案してみた。
「鬼なのですか」
「鬼じゃよ」
「角はどうされたのです」
「仕舞いこんでおる」
額を指で叩く。
「ならますますあなたが必要です」
「なぜじゃ」
「鬼が私の命を狙っているからです。猶予もありません。同じ鬼であれば十二分に対抗できるでしょう」
「鬼も上から下まで幅広いぞ?」
「少なくとも倒さなければならない鬼とあなたは上です」
すっかり朧の力を信じ切っている様子で鈴音が断言する。
「ここに忍び込める鬼も、角を隠せる鬼も聞いた事がありません。ぜひ」
「同族を殺せと?」
「仲間意識、あるのですか?」
問われて、思案しつつ目をそらした。
「あまりないな」
「なら」
「……鬼の名を言え」
「はい、
朧は己の不運ぶりに、あきれ果てた。
「お主を守るのはいい。大嶽退治はいやじゃ」
「知り合いですか」
「知り合いではないあんなもの。この傷だって……」
大嶽の事を思い出し、朧は深く、深くため息を吐いた。
「いやじゃ。会いとうない」
「戦いたくない、とは言わないのですね」
真剣な表情で、鈴音は尋ねてくる。
「同じじゃろ」
「いいえ、違います。退治をすると話を持ち掛けているのに、会いたくないとは筋が通りません。その言葉が選ばれた理由は重要です」
鈴音の珍しい物言いに、朧は面食らってしまう。
「は、はぁ。そうか?」
「はい。戦えないわけではない、ということですから」
「無理。会わん」
「ではわけを話します。聞いてくれますか?」
「今は聞くと話すしか出来んしのう」
「ならまず、実践します」
……何を?
朧が疑問を口にする前に、鈴音の手が朧の傷口に触れた。
「あ、がっ?」
朧の体が跳ねる。体の底から気が沸き上がってきた。火の山が噴火するように、気の奔流が体を突き抜けていく。朧は直感で沸き上がってきた気を操作し、自然治癒にまわす。
みるみる内に傷口が塞がっていく。
「もういいですね」
鈴音が手を離す。朧は完全に傷が塞がった事に驚きつつも、立ち上がった。
「なんだ、これは」
「私の体質です。妖にとってはとても良い栄養になるようで。喰らおうとする妖も少なくありません」
「いいのか、それを話して。わしがお主を喰うかもしれぬぞ」
「言葉にしたという事はする気がないのでしょう? その言葉を発した理由はとても大事です。あなたはあまり人に敵意を抱いていない」
「……ここが厳重なのはお主を守る為、か」
「はい。大嶽は私の魂を狙っています。私の魂を喰らえばより強い力を手に入れられると」
妖は魂を喰える。魂を喰う事で、そこに刻まれた力を己に取り込む事が出来る。
朧に少し触れただけで死にかけの体を元通りに出来るほどの気、力を得られるのだ。己の物にできればどれほど強力かは想像に難くない。
「あれ以上かぁ……うんざりじゃの。つうかいらんじゃろあやつ」
「何か言いました?」
「いや。続けてくれ」
「数日前、大嶽がやってきました。その時は痛み分けでした。
「ならそやつがおればいいじゃろう」
鈴音は首を振った。
「大嶽は私たちを舐めていたのです。本来の力を発揮できる武器を持っていませんでした。それを持って戻ってくると言ったのです」
「あぁ。それで」
「法玄は迎え撃つ準備をしています。しかしそれでも勝てるかどうかはわかりません。私は思いました、あれくらい強い妖が味方になってくれれば、と」
「わしか」
「はい、あなたです」
鈴音は笑顔を浮かべる。月が二つあるようだった。
「大嶽が来るまで、何日かわかるか」
「あと二日ほどです。本人が宣言しましたから」
「そうか。残りで出来そうな事はないか」
「太刀打ちできるのは法玄くらいで、法玄次第です」
「……勝てぬな」
「なぜわかるのです」
朧は白状した。
「わしはそやつに負けてここにおるからだ。お主のおかげで尻尾を巻いて逃げられる」
「戦ったのですか、どんな感じでしたか」
詰め寄って鈴音が鼻先まで来る。朧は後退りしながら、両手を上げる。
「まず氷が剣となって雨のように降る」
「はい」
「でたらめな分身も使う」
「はい」
「あとは」
朧が言葉を続けようとしたところで、外に轟音が響き渡った。まるで雷でも落ちたかのような。
「なんですっ?」
鈴音は外に駆け出し、朧はそれに続く。
「……あー」
天に鬼がいた。
屋敷を覆うようにして浮かんだ黒雲。そこに映し出されるように大きな鬼の顔が、現れていた。
黒い肌に、短く切りそろえられた金色の髪。細い金の瞳はあざ笑うかのように凛凛と輝き、歯を見せて笑う姿は楽しげであった。天を突くように伸びた角は、朧と同じように額から二本伸びている。
『起きろ、人間ども』
口が裂けるほどに口の端を吊り上げ、低く声を響かせる。
「大嶽……」
胸に手を当て、きゅっと握りしめる鈴音。朧はかばうように立ち、天をあきれた表情で眺めていた。
ばたばたと物音が響き、屋敷中の人間が起きては空を見る。そして、叫び声を上げる者もいれば、腰を抜かす者、怒号を浴びせる者など様々であった。
『一日だ、一日猶予を延ばしてやる。つまり後三日だ』
黒雲の中に指が三本映る。
『貴様らの姫を奪ってやろう。我の更なる力の為にな』
「力を求めて何になるのやら」
朧の呟きは天には届かない。
『せいぜいあがくがいい人間ども』
高笑いと共に、黒雲が晴れていく。
好き勝手言って、好き勝手去っていった。
「朧」
「なんじゃ姫さん」
「鈴音でお願いします」
「何でも良いわ。なんじゃ鈴音」
「あなた、大嶽と戦って、何をしましたか?」
「何って」
「あの大嶽が三日に延ばした意味と、あなたが戦ったという事実。これを考えれば答えはひとつしかありません」
「わしが何かやらかしたと」
「はい」
期待のこもった眼差しと声で、肯定が返ってくる。
「知らん」
「……えぇ」
「やつの気まぐれじゃろ」
あくびをして、踵を返す。
「どこへ」
「外に出る。こんな騒ぎではわしは長居できぬしな」
「私を守ってくださるのでは?」
「あぁ、良いぞ。ほれ」
朧は鈴音に手を伸ばす。
「どういうつもりですか」
「お主を攫って遠くへ連れていく。大嶽に喰われずに済むじゃろ」
「だめです。他の方たちが」
「わしには関係ない話じゃ。選べ。わしと共に逃げるか、ここで大嶽に殺されるかじゃ」
「選びません」
決意に満ちた瞳で、鈴音は朧の手を握った。
「お願いします。私を守ってください。私と、ここの人たちを」
「それは約束しとらん」
「姫!」
今度は矢のような鋭い声が飛んできた。
声のした方向へ目を向けると、白い装束を身にまとった男性が駆け込んでくる。
「離れてください! おのれ大嶽の手のものか」
男性は腕を払い、紙を飛ばしてくる。朧は鈴音から手を離し、男性と向き合った。
紙は燃えたかと思うと一瞬にして影を巨大にし、犬の顔となって襲い掛かってきた。大口を開けて迫る犬に、朧は片手を上げる。
「伏せ」
眉間に人差し指を叩きつけて、犬の頭を地面に落とす。そして、難なく足で踏み、消し去った。
「くっ、妖が」
「待ってください法玄。この者は敵ではありません」
「味方でもないがな」
「ややこしい事言わないでください」
朧は前に出る鈴音の後ろに下がり、「だそうだ」と男性に笑ってみせる。
「姫。何を言ってるんです、そいつが何者かわかっているのですか」
「大嶽と同じ鬼です。わかっています」
「ならなぜ」
「この方に私を守っていただきます」
「なりませぬ。危険です」
「あなたの力で式神にできませんか?」
「式神は妖の同意があるか、従えさせる必要があります。鬼ほどになると難しいでしょう」
「式神にはさすがにならんぞ」
命を助けられたに等しいが、朧は鈴音に従う気はなかった。世の中には「死んだ方がまし」という便利な言葉がある。
「わしがするのは鈴音を守るという一点のみじゃ。大嶽とは戦わぬぞ」
「私はここから離れません。大嶽と戦う事になります、絶対に」
「さぁどうだかな」
人間の娘一人くらい、朧はいくらでも好きなようにできる。言葉に従う必要はないのだ。眠っているところを攫って、こんな場所とおさらばすれば良い。
「なりませぬ。鬼との口約束なぞ」
「いいえ。この方は大丈夫です」
きりのない問答に、あくびが漏れる。
「わしはどうすればいいんじゃ? 寝たいんじゃが」
「鬼の寝床などない」
「そうか。なら外で適当に寝かせてもらう」
「待ってください。まだ」
「わしを戦わせたければまずここの人間から説得することだな。残り三日。わしももしかしたら気が向くかもしれん。会いたければ霧を探せ」
朧はそれだけ残し、霧となって屋敷の外へ出た。
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