回鬼の一撃
衣蛸が貝を捕えていた。
貝に勝るとも劣らない巨躯を使って、貝を押さえつけている。貝は暴れようとするが、衣蛸の触腕がそうはさせない。
「味方でいいの、この蛸」
『賢いからな』
よくわからない返しだった。
隠の足場になっていた触腕が動き、衣蛸の頭が近づく。そうするうちに、貝の触腕が一本、衣蛸に迫ってきた。
『あの貝のほうが触腕が多いらしいな』
「なら斬るわ」
跳んだ。
迫る触腕に向けて、跳ぶ。隠は両手で構え、朧は無言で武器を用意した。
先ほどと同じ大太刀だ。
地上で人や素早い動物などを相手にするには非合理ではある。だが、空中で、しかもあの大きな触腕を斬るのであればこれ以上に最適なものはない。
「ふっ」
軽い呼気と共に、大きく体を回す。こまのように身を回転させて、白い触腕を斬った。斬り離された触腕が、海に落ちる。
大太刀が消え、隠は自由を失う。しかし、隠の落ちる先に、衣蛸の触腕があった。両手両足を前に出し、衣蛸の触腕に着地する。
味方かどうかは確証がないが、少なくとも敵ではないだろう。
衣蛸の登場によって、戦況は変わった。とはいえ、有利とは言い難い。
なぜなら衣蛸はあの貝を押さえつけているだけで攻撃に転じることができていないからだ。隠が貝の触腕を切断しなければ、衣蛸は一方的に攻撃されていただろう。
隠が攻撃すれば良いが、やれることは限られている。触腕は斬れても、その後が続かない。本体を傷つけるには、動きに制限がありすぎる。
巨体が二体争っているということは海は大荒れである。海を走っても、大波に呑まれて終わってしまうだろう。槍や斧を投げてみようにも、武器が小さすぎる。
「朧」
『なんだ』
「あれの目を潰せるくらい大きな斧とか」
『無理じゃ』
「知ってた」
決定打がない。隠の身体能力が人並外れていようが、限度がある。
『……あいわかった。ようはやつを仕留められればいいのだな』
「えぇ」
『よし。わしがやろう』
「……え?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。今まで戦う役目は隠が負っていた。朧が武器になることができるというのもあるが、朧ひとりでは戦うことができないはずと思っていたからだ。
『あれこれ聞いてる暇はないぞ。任せるか、任せないか。はよせい』
「わかった。任せるわ」
『本当に早いな!?』
「あなたが言ったんじゃない。早くして」
『任された』
普段戦わない朧が戦うと言ったのだ。無策で挑むわけではないだろう。
体の感覚が薄まり、朧が主導権を握る。
「よし。では行くとするか」
触腕の上を走る。
軽い助走をつけてから、衣蛸の頭へ跳び乗った。そして、這いつくばる。
「衣蛸や! わしがやつをどうにかする。お主は顔を引っ張り出せ」
衣蛸はそれを聞いてか、先ほどまで隠を乗せていた触腕を、貝殻に絡ませる。そうして引っ張った。貝のほうは頭を揺らして、抵抗する。
朧は、立ち上がり、大きく息をした。
「こぉぉ……」
繰り返す。
左半身を後ろへ。右半身を前へ。
左腕を引き、右腕を、左拳の周囲をかき混ぜるように動かす。左拳に何かを巻き付けるように。
「すうぅ……」
呼吸が何のものか、隠は知っている。朧が毎日繰り返していた、気の呼吸だ。それを練り上げて、何かしようとしている。
朧もまだまだ戦いには使い物にならないと言っていた。だが、衣蛸が貝を抑えている今、それに賭けるだけの意味があるのだろう。
――熱い。
気が付けば、全身が燃え上がるように熱を帯びていた。特にひどいのが、頭だった。額の二か所が、熱された鉄でも刺し込まれたように熱い。
まるで、角があるように。
風が、吹いた。台風の目であるかのように、風が、朧を囲む。左の拳と、右腕の間に、小さな紫電が幾重も走る。空気を割き、極小の雷鳴を響かせる。
衣蛸に引っ張られ、貝の体が海から出る。目の前に、顔があった。
いかのように左右に大きな目玉がある、白い顔。表情は読み取れないが、せわしなく目玉を動かしている。焦っているのだろうか。
朧の口の端が、吊り上がる。
「鬼の一撃、思い知れ」
朧は左拳を前に突き出した。正拳を、あろうことか虚空へ放ったのである。
目前で突如、円形の雲ができたかと思うと、風がそれを裂き、即座に蹴散らした。同時に、奥の貝の両目の間――眉間と言っていいのだろうか――が大きくへこんだ。
空気が爆発したような、凄まじい音が響く。貝の背後の海が、巨大な水柱を上げた。
ぐるり、と。
貝の黒目が回って、上を向く。次の瞬間には貝の体の色は白から青へ切り替わり、白目を剥く。
どれほど絶大な威力であったか、想像に難くない。
力をなくした貝が、衣蛸に体中に触腕を絡みつけられ、海にゆっくり沈んでいく。
「ふぅ」
朧は脱力し、膝をつく。頭上から、弾けた海水が雨のように降ってくる。
そこで、視界が廻ったかと思えば、朧は倒れていた。
『もう動けん』
頭の中でそう声が響く。
『なんでしゃべらないの』
『声を出す気力すらない』
どういうことか。
体の主導権を取り戻す。瞬間、なるほどその意味がわかった。尋常ではない熱が体にこもっており、指一本すら動かせない。耳は水中にいるかのようで音が鈍くなっており、目はかすんで、白く染まっている。
「けほっ」
呼吸をするので精いっぱい――どころか、意識が……もたなかった。
ぶちんと、意識が切れた。
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