奇々怪貝

 夜の砂浜で、隠は跪坐姿を取る。


『準備は良いな』

「えぇ」


 感覚は掴んだ。海の上も走ることもできた。残りは、あそこに届くか、届かないか、である。


「言っておくけど、私泳げないわ」

『わしは泳げる。余計なことは考えずとも良い』


 頷く。

 隠は呼吸を整えると、走り出した。少しでも速度が維持できるよう、砂浜で助走をつける。


 風のように速く、軽やかに、走る。


 海にまでたどり着くと、霧が足元に集まった。それは広く薄い板と変わり、隠の足場と化す。そして消え、新たな足場を作る。普通の走り方では沈んでいただろう。朧の教えと、隠が覚えた走法あってのことである。

 水しぶきをあげながら、隠は海の上を走った。裸足で行うよりも、歩幅が広く、白い物体へ着実に近づけているのがわかった。


『よし、いいぞ』


 遠くから見ても、巨大さはわかっていたが、いざ近づいてみると、さらにその大きさを改めて実感できた。至近距離まで行ければ、全体像を把握できないであろうほど大きい。

 近くでも見ても、否、近くであるほど島に見える。

 だんだん、息が苦しくなってきた。脚の熱が、無視できないものになってくる。しかし隠は全力で走り続ける。水面を蹴り、前へ前へ、進み続ける。


 そして。


 やっとの思いで、白い物体にたどり着いた。


「はっ、はぁ、はぁ……」


 勢いあまって数歩進み、そこで膝に手をつく。額から汗が落ち、白い地面に落ちた。


「着いた」


 呼吸を整えながら、頭を上げる。これで終わりではない。むしろここからなのだ。気は引き締めなければならない。


「朧、何かわかる?」

『ふむ。体を貸してもらえんか』

「構わないわ」


 感覚が薄くなり、体の主導権が朧に渡る。朧は屈むと、手や足で地面の感覚を確かめ始めた。


「でかすぎてわかりづらいな」


 それには同意するしかなかった。

 遠目からは円錐状のものに見えたが、近づいてみると平面と区別がつかない。

 朧は拳をつくり、地面を二度叩く。


「ふむ、これは岩や砂ではないな。砕けるやもしれん」

『やってみる。鍬になれる?』

「くわだと。まぁいいが」


 体の主導権が戻り、手に鍬が出現する。隠はそれを両手で持ち、肩で担ぐ。

 そして再び走った。助走をつけて、勢いよく体を屈めると、大きく跳んだ。

 隠の体が空中に浮く。鍬を大きく上に構えた。


 落ちる。空気の抵抗が風となって、隠の体に圧をかける。


 落ちる。鍬を握りしめて、狙いを定める。狙うは当然、先ほどまで足をつけていた地点だ。


 迫る。脚を畳んで、なるべく体を小さくする。


 迫る。衝突する瞬間を狙って、鍬を振り下ろす。


 そして。


 轟音と共に、鍬が叩きつけられた。腕に強い衝撃が伝わって、軽く痺れる。鼓膜が破れるのではないかと思うほど、硬いものを叩いた音が、大きく甲高く響いた。

 白い地面が一瞬沈み、大きな波が起こり、海が荒れる。


 鍬は白い地面にめり込んでいた。周りが軽くひび割れていて、砕けているのが一目でわかる。


 隠は地に足をつけ、鍬を引き抜く。


「まだっ!」


 間髪入れずに、同じ場所へ鍬を叩き込んだ。ひび割れがひどくなり、一部が砕ける。それを鍬で取り除く。


 不格好な穴ができた。隠の膝まですっぱり入ってしまいそうな穴だ。穴の底にまた白いものが見える。


 今まで隠が足をつけていたものとは違う。見るからに柔らかそうで、まるで生き物の肉のようだった。


『これは……』


 隠は、再度鍬を叩きつけた。

 肉を裂いたような感触と共に、青い液体が飛び散る。


 ――ごおおおおおおおおおぉ!


 地面が揺れた。轟音を響かせながら、地面が動く。同時に、周りの海から何かが突き出してきた。


「朧っ! あれは!」

『あぁ。触腕だ』


 吸盤を持った長く白い触腕。それが、島を囲うように何本も湧き上がってくる。まるで、海の柱のようであった。


『となれば、足元のこれは頭……覆ってるのは殻? こやつ、まさか貝かぁ!?』

「朧、いいから刀! 大きいの!」

『お、おう』


 鍬が一瞬で大太刀に切り替わる。隠は大太刀を後ろに向けて構えた。


 薙ぎ払いが、来た。


 触腕が、真正面から、迫ってきた。視界が吸盤で埋め尽くされ、隠の体を叩き落とそうとしてくる。

 隠は一層身を低くしてから、勢いよく大太刀を振り上げる。隠が大太刀そのものになったかのように全身を使って、大きく触腕を斬り裂き、切断した。切断された触腕は、勢いよく後方へ飛んでいき、海へ落ちた。


 大きな水音ともに飛沫が上がり、雨のように降る。


 隠は髪を振り乱し、地面を見下ろす。


「軽くなったでしょ?」


 頭が起き上がる。板をひっくり返すように、頭が海と直角になり、海面へ向かっていく。

 隠は急いで頭から離れ、自ら海に飛び降りた。勢いよく海面に当たれば、それは硬い板となる。海面と頭。挟まれれば、たちまち隠の体は潰れてしまうだろう。それを避けるために自ら海中に飛び込む算段であった。


「ただの刀にして!」


 朧に武器を切り替えるように指示を出し、海に落ちた。

 海に潜り、目を開ける。

 己の目を疑った。

 大きく丸い黒いものが、隠の前方にあった。


 それが辛うじて眼だとわかったのは、瞳が動いて隠の全身を映し出したからである。


 下に目を向けると、蠢く触腕の影で埋め尽くされている。飛び出ている貝殻らしきものを考えても、巨大なのはわかっていたが、規格外の大きさに驚愕するしかない。島のような貝殻なぞ、あれにとっては笠のようなものだった。


 ――ぐごおおおおおおお!


 海全体が震動する。

 下から触腕が伸びあがってきた。考えるまでもなく、隠を狙っている。先で押されただけでも、隠は蚊のように潰れてしまうだろう。それほどでかいのだ。

 隠は頭を下にして、刀を逆手に持つ。そうして、触腕の先、その側面に刀を刺した。

 触腕に痛みはないのか、朧の刀を気にする様子もなく海を上り、そして出る。


「かはっ」


 天高く、触腕が掲げられていた。

 隠は触腕に足をつける。そして、走った。

 先から根元に向けて、螺旋状に走る。それで斬った。後ろから次々と、青い液体が噴き出す。

 触腕が動くよりも速く。液体が落ちてくるよりも速く。風のように、青い線で螺旋を描く。


「朧、槍!」

『お、おう』


 海面まであと少し、というところで刀から手を放す。刀が霧に変わり、槍となって隠の両手に現れた。

 吸盤を、蹴る。

 海面すれすれのところで、隠は跳んだ。目をこらし、確認をする。あの貝の目の位置だ。

 隠は右手で槍を持つ。体の右全体を引き絞り、左手で狙いをつける。

 投げた。

 当たったか確認する間もなく、海に落ちる。


『隠』


 朧の声が珍しく震えていた。


『槍は当たった。だが怒らせたぞ、あれは』


 次の瞬間、隠の体は吸い込まれた。まるで、渦に巻き込まれたように、体全体が海の底へ引っ張られる。

 海の底で、貝は口を開けていた。触腕の集まったところに、大きな穴が開いており、鳥の嘴のようなものがついている。


『食われる!』


 戦慄が走った。

 隠は思考を巡らせる。


 逃げ場なし。しがみつけるもの、なし。対抗手段、なし。


 触腕であれば刃が通る。水中でなければ、避けられる。だが、隠が今引きずり込まれようとしているのは「開いた口」という空間だ。朧に槍をつくってもらったところで、隠の間合いに口はない。

 翼がないものが大きな穴に落ちるとき、何もできないのと同じだ。

 みるみる内に、口に吸い込まれていく。


(あ、無理だ)


 隠はすぐにあきらめた。抵抗をせず、身を任せる。願うのは口内で押しつぶされるでもなく、嘴に身を裂かれるわけでもなく、体内に入ることくらいである。


『……むっ!』


 触腕が視界を埋め尽くす。

 それならば、と。隠は刀を朧に要求する。


『待て。あれは違う』


 ……違う?


 冗談じゃない。あんな巨大な触腕があの貝のものでなくてなんだというのだ。もう一匹いるとでも言うのか。


『あれは』


 触腕が迫る。やがて触腕にぶつかった。勢いがなかったおかげで、大事には至らなかった。それからゆっくりと触腕が動く。

 少しずつ、少しずつ。隠を気遣うように動き、そして、海上に押し上げた。


「……これは?」


 触腕が、隠の大地となっていた。


『これは、あいつの触腕ではない』

「だから何よ」

『これはな』


 前方。

 海面が盛り上がった。そして、二つの影が浮かび上がる。弾けたように海面が割れ、姿を現した。

 片方は、隠が戦っていた貝だった。白い体に貝殻。体の半分は海上に出ている。

 否、出されている。

 その貝の体に、触腕がまとわりついていた。

 向かい合うように、巨大な蛸がいる。


衣蛸ころもだこ、だ』

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