拍子抜け
ひどい、臭いがした。
朧は隠の体を借りて、外に出た。とっくに人々は寝静まり、海が波を弾き鳴らしている。隠の意識は眠っているのか、何の反応もない。
岩場を降り、海岸まで行ってみる。臭いはますますひどくなり、思わず鼻を摘まんだ。
肉の腐った臭いだ。
流されてきたのか、その物体は波打ち際に横たわっていた。
白く、腐った肉塊だ。隠の体よりも、この村の船よりも大きい。原型はないが、おそらく鯨であろう。
朧は鯨の死骸に近づく。ひどい悪臭であったが、我慢しながらも両手で触れる。押してみると、ぐちゃりと手が沈んだ。朧は慌てて手を引き抜く。
「砂の上で終わりは悲しい、か」
朧は大きく息を吸い、意識を集中させた。そうして、死骸を押して動かす。
気だ。正確に言えば、気を元に変換した妖力で、だ。
気を扱うというのは、単純に気をぶつけたりすることではない。気から自然治癒の力に、気から体力に、そういった「本来別の力になるはずだったもの」を無理やり別の力に変えるのである。
この気を作り替える術で、朧は人の身にはない妖の力を一時的に作り出したのだ。もちろん、人の体に影響がないよう、扱っている。
朧は静かに鯨を押す。
まるで大きな板で押し出されたように、鯨の死骸は海に帰っていく。
「もうこちらに戻ってくるな。仲間と共に、静かに眠るがいい」
徐々に海に沈んでいく死骸を見送りながら、朧は呟いた。
死骸が海に沈み切った後、朧は自分の手に鼻を近づける。
「くちゃい」
屈んで、海水に手を入れる。
「臭い、落ちるかのう」
ばしゃばしゃと、音を立てて手をこする。臭いが取れるとは思わないが、気休めにはなる……と思いたかった。
――と。
細長いものが、手首に絡みついてきた。
「うん?」
違和感を覚えた朧は、手を持ち上げる。朧の腕には、蛸が絡みついていた。頭には三日月を横にしたような傷……見覚えがある。
「なんだ、お主。恩返しでもしに来たのか」
ゆっくり腕を下ろし、海に戻す。それだけで、蛸は手から離れた。触腕は全てそろっているようで、ねじ切れたような跡はない。
「随分回復が早いな、こやつ」
手を振って、水を切り、臭いを確認する。
なかった。
腐臭などそう簡単になくなるものではない。朧は蛸に目を向ける。
「お主がやってくれたのか」
蛸に問いかけるが、無論答えが得られるはずもない。蛸はただ、触腕を一本こちらに伸ばすだけだった。
「もしそうであるなら、ありがとうな。助かった」
朧が礼を言うと、蛸は体を海に向けた。そして、海に消えていった。
〇
翌日。
起きてみると、全身が痛かった。
『どうした』
眉を潜めたからか、朧が聞いてくる。
「痛いの」
『どこが』
「全身」
『筋肉痛じゃな』
頷く。久方ぶりに体を酷使したのだ。体が痛まないわけがない。筋肉痛も最後になったのはいつだっただろうか。昔を懐かしむように、隠は手を握ったり開いたりした。
「でもどうして腕が一番痛いのかしら。足だと思うのだけれど」
『さてな。知らぬうちに腕に負担をかけたのやもしれん』
「そうかしら……」
疑問を拭いきれないが、事実なっているのは確かだ。隠はあまり気にしないことにした。気にしても仕方ない。
朝食を済ませ、水の上を走るための格好に着替える。といっても、服を脱いで布を巻きつけるだけだ。食料の余裕は、あまりなくなっていた。今日できなければ限界と言ったところか。
とはいえ、進歩はないに等しい。海の上を走れるようにはなれそうになかった。
砂浜に立ち、隠は白状する。
「無理よ。どうしても、無理」
『もう少しじゃ。がんばってくれ』
「何がもう少しよ。一歩踏み出したらもう沈むのよ。少しも何もないわ。跳んだほうがよっぽど遠くまで行くわ」
『届くのか、あの白いのに』
「届かないけど」
苛立って砂を蹴る。
こんなもの、無意味だ。こんな時間、無意味だ。頭をかきむしる。
『なら走れ。一歩できればあとは行ける。やり方を把握しろ。全てはそれだ』
「できないわ」
『できる。物も人も海で浮かぶ。走れる』
「軽いから、動かないからよ」
『然り。だがそれだけではないのだ。速ければいい。わしが要求するのは速さと細かい動作だ。思い切りが足りん。玉砕覚悟で行け』
「簡単に言って……」
隠は跪坐姿をとる。大きく息を吸う。
『お主は要領がいい。教えたことは二回もすればものにしていた。二回で十分なことを二日もかけたのだ』
「それはけなしてるの」
『褒めている』
いいか、と朧は続ける。
『そろそろ頭を切り替えろ。できるできないなぞ後で考えろ。斬るときと同じだ。中身を空にしろ。お主はもっと速い』
言われるがまま、中身を切り替える。余計な感情を、思考を捨てる。
脳裏に浮かぶのは戦場。海なぞ見えてなかった。見えているのはあの、白い物体だ。
考えるのはひとつだけ。
あれを、斬る。
「……ふっ!」
砂を蹴って、駆け出す。
無駄を削ぎ落して、体が自動的に動く。斬るための計画を刻む。
頼りにするのは感覚だ。感覚だけを鋭くする。
海へ一歩入る。
海面に足が触れた瞬間、「地面」だと知覚した。
十歩。まだ地面だ。
三十歩。沈まない。まだ先に行ける。
五十。わずかにぬかるみに足が取られた。問題はない。
百。足が地面に嵌る。一歩一歩着実に沈んでいくのがわかる。
……気が付けば、肩までほとんど、海に沈んでいた。いつもならば、膝までしか浸かってないところで足を止めていた。
隠は目を閉じて、深呼吸する。そうして、感情と思考を拾う。感覚を思い出し、結果を自覚した。
「朧。できたわ」
『あぁ、できたな。八十あたりか』
「いえ、五十よ」
沈まずに完璧に海を走れたのはたった五十歩だった。そのあとは少しずつ沈み始め、百歩目にはもう沈み切った。朧が沈みはじめを感じられたのが八十であったのだろう。
「でも」
隠は白い物体を見る。
海の上を走ってたどり着くには、まだはるか遠い先だった。
「届かないわ」
やり方さえわかれば歩数は増やせる。二倍、三倍くらいにはできるだろう。ただ、どれほど歩数を増やせたところで、百、二百増えた程度では距離が伸びない。
水面に対し、足を垂直に叩きつける。早く、細かく足を動かす。これがいけない。一歩の歩幅が狭いのだ。
『いや、自力であそこに行くのは無理よ』
「……へ?」
『だいたい、海の上を走り続けるには人間の重さに対して足が小さすぎる。走れただけ凄いわ』
朧のとんでもない発言に、思わず頭が真っ白になる。
「だって走るしかないって、あなた」
『走るしかない。自力で走るだけなら、わしが体を使えば済む。ただ、この身ひとつでは、体力が持たぬ、途中で沈む。だからお主にやらせた』
もったいつけるように朧が言う。
「つまり?」
『わしが足場に変わる。武器と同じ要領で、水の上をより走りやすいようにな』
「……もっと早く言って」
額に手を当てて、隠はため息を吐いた。それを初めに知っていれば、いくらか気が楽であったろうに。
隠は砂浜へ体を向けて、戻っていった。
決着は、今夜になるだろう。
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