海走り

 夜の海は美しかった。


 鏡のごとく、夜空をその身に閉じ込め、煌めいている。

 海岸で、隠はこめかみを抑えていた。いつもとは違い、衣服の補修のための布を継ぎはぎして、体に巻いている。腹も腿もむき出しで、布で隠せているのは胸まわりや脚の付け根近くなど、ごく一部のみ。最低限だ。


「良いか。大事なのは速度だ」


 いつもの小僧の姿をとった朧が、隠のそばで腕を組んでいた。


「ほらやる気を出せ。妖の体も、気もいらぬ。完璧ではないか」

「本気で言ってるの?」


 あどけない顔で、首を傾げられた。

 夜風に当たるだけならどれほどよかっただろうか。隠は今、朧の酔狂に付き合わされようとしている。


 海の上を、走らされるわけである。

 当然、水の上は地面ではない。足を入れれば沈むのが道理というものだ。隠も人間だ。例外ではない。海に落ちれば濡れる。海水は普通の水ではない。塩水だ。服が使い物にならなくなるかもしれない。それゆえの、この裸に近い格好であった。


 脂肪の少ない体で良かった。使う布がいくらか少なくて済む。


「全力で走る。速く、ひたすら速くだ。単純明快、これほど楽なことはない。いざ、いざ」

「はぁ」


 隠は姿勢を低くする。前傾姿勢を取り、走り出した。両手は体にかかる力に逆らわず、後ろへ。砂を蹴って海へ突進していく。

 ほどなくして海に入った。

 己の出せる全速力であったが、やはり海の上を走ることなどできず、浅瀬から足を海に漬け、そのまま海に突っ込んでいくだけとなった。


 下半身が海に沈んだところで足を止め、振り返る。これ以上走っても溺れ死ぬだけである。結局、水しぶきをあげながら海に入っただけだった。


「遅い。もっと細かく足を動かせ」


 朧のところまで戻ると、そんなことを言われた。


「走り方が悪い」

「走り方って、言われても」

「いいか、足は垂直に海面に叩きつけろ。細かく蹴り続けろ。足が沈む前に海面を蹴れば浮いてられる」


 めちゃくちゃな理論にあきれるしかなかった。


「できるわけないでしょ」


 隠が抗議する。こんなもの、雲をつかむようなものだ。


「できる。村を救うつもりならこれしかない。船は遅いから沈められるのだ。速ければ問題ないはずだ」

「無茶よ。あなた、もっと頭の良い人だと思ってたけど」

「何を言っておるんだ。わしは鬼よ。ほらもう一度だ」


 そういう問題ではない。心で訴えながら、もう一度走ることにした。

 結果は同じだった。

 変わったことがあるとすれば、海面に足を叩きつける感覚が強くなったくらいだろうか。


「あなたがやればいいじゃない」

「わしでは意味がない。お主がやるんじゃ」

「もっと他に手段はないの」

「ない」


 朧は断言した。

「お主の跳躍で届く距離か? 空は飛べるか? 速い船があるか? ないなら走るしかあるまい。少し進歩したぞ、頑張るんじゃ」


 拳を突き上げる。子どもがやっていれば微笑ましい姿だったが、無理難題を押し付けた鬼だと思うと殺意さえわく。


「最初は屈んだほうが良いかもしれぬな」


 朧が手本を見せるらしく座る。右足を前にし、立て、左足は後ろに伸ばし、両手を広く前に置いた。腰を頭とほぼ変わらない高さに。見たことのない……跪坐姿きざすがたになるのだろうか……そんな体勢だ。

 そして、朧は後ろ足で強く地面を蹴ると、そのまま走った。さほど走らず、すぐに止まって戻ってくる。


「やってみろ」


 隠は朧の動きを思い出しながら、同じ跪坐姿を取った。

 そして、思い切り地面を蹴り、


「はぶっ!?」


 足を滑らせて、顔から砂に突き刺さった。


 口の中に砂が入り、急いで吐き出す。鼻を抑えながら、朧を睨んだ。

 朧は目をそらした。肩が小刻みに震えている。


「すまん。後ろ足のところに軽く穴を掘って滑らぬようにするのだ。忘れていた……ぶふっ」


 砂を掴んで投げた。朧は頭から砂を浴びる。


「……斬られたいの」

「いや、不可抗力というやつじゃ。許せ」

「それは間抜けな説明不足のことかしら。それとも、笑ったこと」

「両方じゃ。すまん」


 頭を下げてきたので、仕方なく許すことにする。非常に不本意だが。

 結局、一時いっとき(一日の十二に分けたときの数え方)の間、走らされた。

 海の上は走れなかった。







 あれから二日経った。

 羞恥心に近い、むずかゆい感情が、隠を悩ませていた。


 理由は簡単だ。村の人々の目である。


 砂浜から海に向かって一直線に走り、海に沈み、また走る。そんな娘がいるからだ。

 少し前のことだ。こんなことをしているから、疑問に思ったのだろう。村人がひとり、隠に話しかけてきたことがあった。


「何をしているんだ」

「……海の上を走るのです」


 自分でも馬鹿馬鹿しいことを口にした自覚はある。だが、あのときの憐れむような目は、さすがにきついものがあった。


 話を聞いた村人が知り合いに話したのか、見物しに来た者の目は珍獣でも見るかのように嘲りを含んだものばかりだ。


 これがもし、隠が本当にできることを、相手が信じておらず侮っていたのであれば気にも留めないだろう。しかし、隠自身できるか疑っているもので、しかも、朧の考えだ。


『もう少しだ。速度だけ意識しろ。小刻みに速く、ひたすらにだ』


 朧は隠を褒めるときもあったが、隠には微妙な感覚の違いがわかるだけで、海に沈む結果は変わらない。数歩でも海の上を走れれば実感もできただろうが、一歩目から沈んでいる。


『練習はできれば夜だけにしたいのだが、時間がかかりすぎるのでな。人の目は我慢しろ』

「うるさい」


 疲れ切った体を投げ出し、浅瀬に身を沈める。顔だけ海から出し、空を眺めた。熱のこもった体に、海の冷たさは最適だった。

 今、隠の胸中にあるのは無駄な疲労感に無駄な虚無感だ。これほど虚しい挑戦もない。


『しかしまぁ、よくここまでするな』


 しみじみと、朧が呟く。


「あなたが言ったんじゃない」

『わしが言っただけで、ここまでやるからよ』

「今すぐ出てきなさい。斬るわ」

『嬉しいんじゃよ? これしかないからか、わしを信じてるかはわからんが、愚直にやってくれていることが』

「これしかないからよ。これもあなたが言ったんじゃない」

『そうだな。わしが言ったな』


 楽しげに、朧は笑った。


『好きだぞ。お主のそういうわかりやすいところ』

「私はあなたを嫌いになりそうだわ」

『ははっ、少しは冗談がうまくなったのではないか? ……冗談よな?』


 視線を動かす。

 二日経っても、白い物体は微動だにせず、海の上に佇んでいる。


『おーい、返事してくれぬと不安になるんじゃが』

「もう少し、やりましょうか」


 隠は立ち上がる。

 白い物体に向けて手を伸ばし、虚空を掴んだ。

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