喰らう蜷

 海岸にたこがいた。


 なばりがそれに気づいたのは、波打ち際を歩いていたからである。片手に履き物をぶらさげて、裸足で歩いていた。

 裸足のまま、蛸へ近づく。

 砂浜の上で、蛸は弱っていた。体は砂にまみれ、乾いてしまっている。足か腕の何本かはねじ切られたように欠けており、頭には三日月を横にしたような傷があった。海へ戻る気力は残っていないようで、体が少しうごめくのみだった。

 隠は蛸を抱きかかえる。履き物はその場に置いて、海に向かう。


『食うのか』

「いえ、海に帰すの」


 蛸を海に入れ、砂を洗い落としてやる。手を放すと、蛸は体を膨らませてから海へ帰っていった。


『食わんのか……』


 残念そうに朧が言う。蛸が好きなのだろうか。


『どうして助けたんだ』

「せっかく海を泳げるのに、砂の上で終わりだなんて、悲しいじゃない」

『食うのに抵抗はないんじゃな』

「釣りあげたら食べるわ」


 潮風が吹く。

 風が隠の髪を撫で、海の匂いが鼻を刺激する。隠は目を瞑った。耳にかかった髪を、少しかきあげる。


「海って気持ちが良いのね」

『そうさな。初めてか』

「いえ。でも、こんなに穏やかなのは、初めて」


 隠が思い出すのは、戦場としての海であった。この場には隠と朧以外、誰もいない。静かで、心の休まる場所だった。


『こうしているとまるで娘のようだな』

「いきなり何よ」

『普段のお主より、ずっと良い顔をしておる』

「そ」


 朧が少し嬉しそうだった。

 今自分は、どんな顔をしているのだろうか。隠はそう思いながら、右耳あたりの髪をいじる。


『邪魔か』

「そうね。邪魔になってきたわ」


 朧と初めて出会ったころは短かった髪も、今では肩のあたりまでのびていた。


『長いのも良いがのう』

「鬱陶しいもの。あとで切ってくれる」

『おう。任された』


 前髪がのび過ぎたときは、朧がいい具合に切ってくれた。

 以前、小刀を使ってばっさり切ろうとしたとき、朧が慌てて引き留めたのを覚えている。


 ――待て待て。思い切りが良すぎる。そんなにざっくりやったら、前が禿げてるみたいになるではないか。


 邪魔でなければ良かったのだが、朧がそういってやりたがるので任せていた。

 隠は海を出て、履き物を拾う。

 今日のうちには、村か町か、たどり着けるだろう。







「あんたに食いもんを分ける余裕は、どこのうちにもねえよ」


 隠が漁村にたどり着いて早々、そんなことを言われた。

 海のほうを見る。村からは岩場、砂浜、海と続いていた。海の上には立派な船がいくつも並んでいる。隠は船を指さして首を傾げた。


「漁をしているのではないのですか。働きますから、少しばかり分けていただきたいのです」


 村人は首を振った。


「今、漁はしてねえんだ。あれを見てくれ」


 村人が、船より奥、遠くのほうを指さす。

 異様な物体がそこにあった。

 海から角が生えたかのように、海面から斜めに、尖った物体が突き出している。それが、船の進路を妨害するかのように存在していた。


「島ではないのですか」


 円錐状の物体は遠くにあるにも関わらず、はっきり形が確認できる。そのため隠は、島だと思っていた。しかし、村人は首を振る。


「違う。ついこの間、突然現れたんだ。近づくと、船が沈められる。迂回しても、変な波に流されて、あそこに引きずり込まれる。若いもんが二人死んじまったもんで、みんな脅えて漁に出れないのよ」

「食料は」

「海岸で取れないこともないが、漁ができないからうんと少ない。家族を食わせるので手一杯よ」

「そうですか」


 隠は礼を言い、その場を立ち去ろうとした。すると、村人が呼び止める。


「今日はもう遅い。夜は危険だろう? 空き家がひとつある。そこを使うといい。他のものに話とく」


 と、今度は空き家を指さされた。

 隠は改めて礼を告げ、空き家で一夜を過ごすことにした。海岸沿いの、小屋に近い見た目の家だった。

 家の中は何もなかった。ただ、最近誰かが使っていたのか、手入れをしているのか、綺麗だった。

 隠はとりあえず荷物を置き、腰かけた。


「朧、あれってあやかし?」

『ほぼ確実にそうだろう。何かはわからん』

「随分特徴的だけど」

『とはいえあんな尖った外観を持つものなど知らぬ。衣蛸ころもだこやら海坊主やら、でかいものは聞いたことはあるが、しかしな』


 衣蛸も海坊主も、名前からして丸みを帯びていそうな名前だ。あれとは無関係だろう。


「あなたにもわからないことがあるのね」

『わしとて妖に精通してるわけではない』

「ふぅん」


 適当に相槌を打って、話を打ち切る。

 村の人が困っているのであればなんとかしたいが、どうにもならなそうであった。

 朧の知ってる妖であれば対処も考えられたかもしれない。しかし、知らない。さらにはあの物体が存在している場所も悪い。

 海は人間の生きる場ではない。


「あそこまで行ければ、いいのだけれど」


 端的に言えば、足場がほしかった。島と見間違うほどの巨大な物体だ。たどり着ければ立派な足場だろう。問題はそこに着くまでの話である。


『船は無理じゃろな。近づけば引きずり込まれて終わりだろう』


 隠は別に魚ではない。技術も力も、陸で戦えばこそである。船を沈められれば、海の藻屑だ。


「霧になってあそこまでいけないの」

『無理だ。わしの体があれば行けるが、わしの魂はお主のもの。お主から離れすぎれば進めなくなる』


 詰みに近かった。


『どうにかするつもりか』

「できれば。どうせ、あなただって面白そうだとか思ってるんでしょ」

『わしのことがわかってきたようで何よりじゃ』


 少し声が弾んでいた。相変わらず、喜怒哀楽がわかりやすい妖だ。


「もし朧に体があったら、どうするの」

『うん』

「あそこまでどう行くかってこと」


 ちょっとした思い付きだった。

 強い妖だった(今でも強いと言うが、欠片も信じていない)朧だ。朧が体を取り戻したとしたら、あの物体までたどり着く手段くらいあるのではないだろうかと、思ったのだ。

 架空の話だが、手段の浮かばぬ現状。与太だとしても聞いてみる価値はあるかもしれない。


『そうさな。まず、さっきも言ったが、霧になって行けるな』

「私にはできないの」

『できなくはないが人ではなくなるぞ』

「構わないわ」

『わしが構う。お主はあれじゃな。後先考えなさすぎじゃ』


 予想通りの返答に、隠はうんざりした。妖のくせに人の体に気を使いすぎだと思う。


「他にはないの」

『海の上を歩く。気であれこれやってな』

「私にもできるじゃない」


 気とはあらゆる力の根源と呼ばれる概念のようなものだ。

 その気を扱えるように、朧がよく「体作り」をしている。隠自身はできないが、朧が体を使えばできるはずだ。


『死ぬ気でやればできるな。十歩進んで海の底じゃ』

「意味ないわ」

『ないな』


 朧が習得に二十年、三十年費やしたというだけあって、ろくに使い物にならないらしい。以前ほど習得に時間はかからないと話していたため、もしかしたらとも思ったが、そんなおいしい話があるわけがなかった。


『あとは空飛んだり、単純に跳躍でも届くな』


 頭を抱えたくなるほどの話ばかりであった。隠にできれば苦労はない。


『一番楽しいのが海の上を走るやつじゃな……うん? 海を、走る……走るか……』


 海の上を走るというものが、どれほど人にとって無茶なことであるか、想像に難くない。非現実的な例に変わりなかったはずだが、朧はなぜ唸り始める。

 朧は無理強いはしない。物事をよく考える。だが、ときどき嘘みたいなことを言い出すのだ。

 隠は、物凄くいやな予感がした。


『そうじゃ。走ればいいな!』


 何言ってんだこのあほうは。

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