獣
聞こえる。
狂乱の呼吸が、己の肉を喰らわんと駆けている。草木が揺れ、暗闇の中で光が走る。
息遣いを耳にするたび、人間の本能が警笛を鳴らした。やつにとって、自分は食い物でしかない。そこらの兎と同じだ。
逃げれば当然、死あるのみ。怖気づくのは致命傷となる。だが、恐怖は欠けてはならない。やつの動きに対処できるのは、恐怖心だ。
呼吸が乱れる。汗が頬を伝う。
「ふぅー、ふぅー」
手には何もない。大事なのは相手の虚をつくことだ。刃をちらつかせれば、相手はいくらでも対応してみせるだろう。
額の汗を拭う。
それが合図だった。
暗闇が襲ってきた。悪寒が走った瞬間、反射で動く。
己を覆う影、握る大太刀。
あとはどちらか速いか、至極単純な勝負のみ。
鮮血が舞い、一瞬にして全てが終わった。
〇
巨大な狼であった。
喉から腹まで、大きく切り裂かれて絶命している。半端に開かれた口でさえも、人の頭から胸あたりまでを容易に噛みちぎれるであろう。それほど大きかった。
隠は残心をやめ、顎の汗を腕で拭う。その背中は、引き裂かれ、四つの傷ができていた。
『後ろ足で蹴られただけに見えたが』
「しっかり爪でえぐられたわ。仲間はいた?」
『おらぬな。傷は深いのか』
「浅いわ」
大太刀を握り直す。
「こんなに大きなもの持ち帰れないわ」
『そうさな。やはり首だろうな』
元々、これは依頼であった。村から食料と金をわけてもらう代わりに、人を襲う獣を退治するというものだ。
依頼をこなしたかどうか、無論証拠がいる。
「ごめんなさい」
隠は謝りながら、大太刀を振り下ろす。隠の技量と、朧の大太刀の質の良さが相まって、狼の首から上は、簡単に体と切り離された。
――が。
ぐるりと、目玉が動き、隠を睨んだ。
『まずい! 離れろ!』
朧が叫ぶより早く、後ろに飛びのく。
その瞬間、信じられないことが起こった。狼の首だけが隠のほうを向き、襲い掛かってきたのだ。宙に浮かび、こちらに突進してくる。
隠は大太刀を振るう。隠の一撃は狼をすり抜け、意味をなさない。
咆哮を上げながら、狼が噛みついてくる。隠は左肩をまるごと、狼に喰われた。
「ぐっ」
『ちっ、無理だったか』
狼の首はすぐに消え去った。隠は肩を喰いちぎられることもなく、血も流れない。
しかし、隠の手元から大太刀が落ち、右腕がだらんと垂れた。遅れて右脚が崩れ、座り込む。
「これ、は」
感覚が、なくなっていた。首から下、右半身の感覚がほとんどない。さらには背中の傷が、灼けるように痛い。
『見ろ』
朧に促され、狼の死体を見る。先ほどまで、隠を襲っていた首。それが、切断されたときと変わらぬ位置にあった。
『今のは実体のない、呪いだ。しかも、かなり強いな』
「どうして、狼が」
『さてな。元々、人間を憎んでいたのか、あるいは……いや。普通はあり得ぬことだ。それよりも今はこの呪いをどうにかせねばならん』
朧の言う通りであった。この動かない右半身をどうにかしなければ、ここを動くことすらままならない。
『わしがどうにかする。待っておれ』
呪いに対する手段でも持っているのか、朧は自信に満ちた声で言った。隠はどうにもできないので、待つしかない。
『ほい』
骨の折れたような音がした。同時に、右腕が跳ね上がる。
「あ、がっ」
激痛が、隠の中を駆け巡った。棒で、体の芯を貫かれたかのようであった。さすがの隠も、これには悶える。地に額をつけ、歯を食いしばる。
やがて、右半身の感覚が戻ってきた。それに伴って、痛みが引いていく。
「はっ、はっ……」
『よし終わったぞ』
体を起こす。先ほどのまでの激痛は、もう消えていた。
隠は己の右手を握ったり開いたりして感触を確かめる。どうやら大丈夫そうだった。
『痣は我慢しろ。そのうち治る』
「痣ってどこに」
『肩じゃよ。肩』
隠は立ち上がり、己の衣服をはだけさせる。
『いや、そんな躊躇なく脱ぐな』
「体に問題がないかが重要よ。四の五の言ってられないわ」
見てみると、なるほど確かに右肩から胸元にかけて赤黒く変色していた。指で押してみると、鈍い痛みが走る。軽く肩を回してみても、同じだった。支障があるほどではない。見た目こそ派手だが、ひどくはないだろう。
服を着なおす。
「問題ないわ」
命を奪ったのだ。恨みを買い、呪いを受けた。朧がいたから解呪されたとはいえ、受けた傷は正当なものである。痕が残ろうと構わない。
「戻りましょうか」
『おう』
狼の頭を掴み、村へ歩き出す。
穢れを避けるように、月は雲に隠れていた。
夜はまだ、長い。
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