通る
――面白くない。面白くない。
止められる。抑えられる。
悲鳴が聞こえない、つまらない。味がない。
……あ。
あいつはよさそうだ。
〇
次の夜、隠はに発狂の正体を掴むべく、町の中を徘徊していた。絹川の家には昼までお世話になり、食料を分けてもらっている。代わりに半分以上の仕事を、隠が手伝った。
朧は、霧になっていた。だが、いつもの霧とは違い、黒い霧だった。闇夜に溶け込んだ霧は、朧の存在を気づかれにくくし、さらには非常時には隠の体を覆い隠すことができる。
松明がなくとも、隠は暗がりを見ることができた。目が慣れたというのもあるが、朧に憑依されてから、目だけではなく身体能力が少し上がっている実感がある。
警戒しながら町を進むが、特に騒ぎはない。そろそろ、隠が昨夜、発狂した男に襲われた時刻になる。
歩いていると、足が何かに引っかかった。木の根でも絡みついているかのように、固い何かが、右足に纏わりつく。無理に引っ張ってはずそうとするが、はずせない。
『見つけた』
隠が足に絡みつくものと格闘している間に、朧が言った。
「どこ」
『捕まえるから待っていろ』
そういって、朧はどこかに消えた。
いくらやっても解放されない足。隠は疑問に思って、自身の足を見る。
途端、頭が理解するのを拒否した。
腕だった。腕だけではない。人の上半身。目が黒く塗りつぶされた、子どもの上半身が地面から生えていた。そして、隠の足に抱き着いている。
それだけではない。
脚に絡みついている子どもを、隠は知っていた。
「……どう、して」
口をおさえる。嫌な記憶が沸き起こる。その場から離れようとするが、右足にいる子どもがそれを許さない。
否。
いつの間にか左足も同じようになっていた。子どもだ。
これも知っていた。
手が、生えてくる。
三人の目の子ども。それに続いて二人の若い男。誰もが瞳を黒く塗りつぶされ、泥のような涙を流している。
「あ、あ……やっ」
隠は固まって動けなかった。
拘束されて、という単純な話もあるが、隠を最も縛っていたのは湧き出てくる人々だった。
自分に纏わりついてくる人物は、誰も彼も知っている人ばかりであったから。
理解できなかった。ここにいるはずがない。なぜならば、隠の記憶が正しければ、全員。
全員、死んだ者だ。
最後に、手が首に伸びてきた。
また別の、袈裟を着た、男性の手だった。
喉が締まる。隠は抵抗しない。いや、できない。
「お、しょう、さま」
当然、知っている。
自分が守れなかった者たちだ。己が戦わなかったために、死んだ者たちだ。
仕事に励み、笑い合い、食事を共にし、できればこのまま平和に過ごしていたいと、そう願っていた日々の。
空気の流れが止まる。
「……みん、な」
自分は怨まれているのだろうか?
そんな疑問が、隠の中に浮上する。
隠は目を瞑る。
朧に助けを求めれば、この状況をどうにかできるかもしれない。だが、隠はしなかった。
至極単純、ここで死ぬのもまた良いのかもしれないと考えていたからだ。
故に、迫ってくる苦しみを許容した。
先ほどまで混乱していた心を落ち着け、静かに苦しみを受ける。
今まで人を散々殺してきた身だ。別段、生に執着もない。自分が殺されることで、死者が溜飲を下げるのであれば、構わない。
罰を受けられることに、安堵さえ感じる。
――殺して。
音のない言葉を呟く。
しかし、首を絞める力は段々と弱まっていった。足に絡みついていた力も同様だ。
いつしか呼吸を止めていたのは、自分自身であることに気付く。ゆっくり呼吸を再開すると、難なく空気が入ってきて、肺を満たした。
瞼を開く。
おかしなことに、隠以外、誰もいなかった。さっきまでいた、亡霊のようなものたちはどこにもいない。
どうやら、ただの幻だっただらしい。
隠はその場に蹲り、にじみ出てきた記憶に煩悶した。
〇
――面白くない。
もっともっと狂うと思っていたのに。あんなに隙間だらけだったのに。
今では嘘みたいに塞がっている。
味がない。ないないない。
仕方がない。他の……へぶっ!?
〇
捕まえた。
『くそっ離せ! 離せぇ!』
「おうおう、良く動くのう。面倒じゃから動くな動くな」
家の屋根の上。
朧は己の本来の姿で、発狂の原因を捕まえていた。
青い炎。空中に浮かぶそれを、掴んで離さない。朧の記憶が正しければ、この妖は「通り悪魔」「通り者」などと呼ばれている類だったはずだ。
「よくもまぁ、わしの可愛い憑依先に手を出しおってからに」
『生きるためにやってんだ、何か文句あるか!』
「生きるため?」
朧は首をかしげる。通り悪魔に関しては名前と姿、人を発狂させるくらいしか知らなかった。
妖も食事をする。朧も肉体があるときは食事がなければならなかったし、過去に倒した女郎蜘蛛も子どもを育てるために人を喰うし、喰わせる。
今は隠の食がそのまま朧の食にもなるため食事はいらない。長年封印されていたが、そのころは、食事を必要としない存在に入れられていたため、不要だった。
生きていくために必要なものは、魂が依存する器によって異なる。
通り悪魔もこの炎の体を維持するために何かしら必要なのであろう。
『俺は感情を喰って生きてるんだ。何も悪いことじゃないだろう』
「感情ねぇ。ならわざわざ発狂させる必要もなかろう」
『幸福なんてもんはまずくてまずくて喰えたもんじゃねえ。あんなもん毒だ、調子が悪くなっちまう』
「なるほど」
つまり、不幸が美味いから喰いたいのか。
わざわざ狂気を引っ張り出して、無理やりに悲劇を作り上げることで、自分の好物であるものを摂っていたわけだ。
この炎の体で、他の動物のように生きたり、人間のように趣味や仕事を持ったりなどは難しいだろう。
通り悪魔には食事こそが仕事であり、生きる術であり、娯楽であるのだろう。
「はた迷惑なやつじゃの。死人も出るかもしれんのに」
通り悪魔と遭遇するのは初めてだが、もっと狡猾な印象を抱いていた。そのため、朧は少し落胆した。最初は面白そうと思っていた発狂の真相も、なんとも味気ないというか、情けないものである。
なんだかこう、くだらなくてこのまま握りつぶしてしまいたいくらいだ。
力を入れると、通り悪魔は抵抗を強めた。
『いやだ、死にたくない! だいたい俺は人の狂気を引っ張り上げてるだけで、その後人間がどうしようが知ったことじゃねえ! 中にはあの娘みたいに心を鎮めて惑わされねえやつだっていたし、普通のやつはそもそも乱す余地がねえし。狂うやつは狂うべくして狂い、死ぬやつは死ぬべくして死に、殺すやつは殺すべくして殺すんだ。全てはそいつの心次第。俺はそいつや巻き込まれたやつらの感情を食って美味いだのまずいだのを楽しんでるだけだ』
ということは通り悪魔に他人の感情や考えを操る術はないようだ。そも、できるのであれば狂気を引っ張りだす力なぞ使わないだろう。
通り悪魔のせいで不幸になる者がいるかもしれないが、過去に屠った妖怪のように、世を乱すような力を持ち合わせてもいなければ考えもない。
「では契約を交わそう」
『なんだ』
「この町には手を出すな。出ていけ。それでわしは見なかったことにしてやろう」
『簡単じゃないか! わかったわかった出ていく! ここは味が薄くなってきて飽き飽きしていたところだ。ちょうどいい』
「そりゃ願ったり叶ったりじゃ。あぁ、助言しておくが加減をしておかぬと捕まえてくるやつが出てくるぞ。死にたくなければ、ほどほどにしておけ」
『おう、肝に銘じておくぜ』
こんな体に肝なぞあるのだろうかと、どうでもいいことが頭に浮かんだ。まぁ、言葉のあやというやつであろう。
朧は簡単に手を離す。すると通り悪魔は元気よく飛び、虚空に消え去ろうとした。
「そうじゃ」
しかし一度、通り悪魔を呼び止める。
朧は笑みを浮かべ、明るく言った。
「次また隠に手を出してみろ。今度は殺すからの」
決意も何もない。そこらの塵を蹴とばすような感覚で、朧は言った。青い炎のからが、大げさにゆらぐ。
『は、はひ。わ、わかった。もうおたくの娘さんには手は出し、出しません。じゃ、じゃあな! さよなら』
しどろもどろになりながら、通り悪魔は空に消えていった。
ため息を吐き、朧は自分の体を霧に戻す。
そうして、隠のところに戻った。
隠は蹲って震えていた。
朧が戻ってきたのを感じたのか、隠は口を開く。
「妖は」
声はか細く、力が感じられなかった。
『捕まえた』
「どこ」
『逃がした』
説明しろ、と沈黙で訴えてくる。
『大したやつではなかったからの。それに生きるためにやっていたことのようじゃったし。ここを出ていくことを条件に逃がした』
「そう」
『納得したか』
「……ここの人は苦しまずに済むんでしょ」
『あぁ。ところで、大丈夫か』
「うるさい」
怒りがこもっていた。
『何があった。詳細に言わんでもいい』
「たぶん、幻を見せられた」
どうやら狂気を引っ張り上げられた人間は、幻覚を見せられるらしい。通り悪魔の言っていた発狂するかしないかは、見せられる幻覚に、どう対処するかで変わってくるのだろう。
『今も見ているか』
「いえ、消えたわ。消えたけど……」
『言わんでいい』
朧は自分の体を形作り、隠の隣に座った。そして、隠の小さな背中を擦り始める。いやがられると思ったが、特に拒否はされなかった。
根掘り葉掘り聞くのはきっと野暮であろう。これから、ゆっくり、ゆっくり知っていけばいい。
黙って背中を擦り続ける。
「……ありがと」
やがて震えが収まると、隠は呟いた。背中を擦っていた手を離し、朧は霧に戻る。
「平気か?」
「少しは。早くここを出ましょう。長居はしたくないわ」
疲れたように、隠はゆらりと立ち上がる。
『わしが代わろうか』
「大丈夫。体を動かしているほうが、気が紛れるわ」
『そうか。ならさっさと行くとしよう』
静かな夜。隠と朧は歩き出す。
そうして、誰にも知られず、旅人は町からいなくなった。
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