通り悪魔
狂う町
――愉快だ愉快だ。
狂った姿が。泣き叫ぶ様が。
幸福はまずいが、他人の不幸は蜜の味。
あぁ、今日も不幸が美味い。
〇
それは夜の町を歩いていたときのことだった。
突然、物陰から現れた男が、包丁を持って
襲ってきた男に、隠は驚きもしない。襲われることなど、人生で幾度となくあったからだ。
隠は冷静に、男の手首を掴むとひねり上げ、包丁を奪う。そして、男を背負い、投げた。
「ぐえっ」
地に伏した男の背中を踏み、腕を引く。男を動けなくしてから、包丁を離れた場所へ放った。
隠は軽く、男の容姿を確認し、呟いた。
「……変な人」
『何がじゃ? というかお主、素手でどうにかできるんじゃな』
首をかしげ、呟いた隠に、
「まるで、家から飛び出してきたような格好してる」
男の足元を見ると、裸足だった。服装はどうにも薄着で、寝るときの格好のままらしい。
顔を確認しても、顔色が悪い、やつれているわけではなさそうだ。
『ふむ、人を襲う格好ではないな』
「私、勘違いして投げちゃった?」
『わしらに一直線じゃったぞ。周りに何もないしのう』
「じゃあ、なんで……」
二人が疑問に思っていると、男が出てきたところと同じところから、人が走ってやってきた。手には松明を持っている。
一、二……五人いた。
拘束された男を見るな否や、先頭の人物が叫ぶ。
「いたぞ!」
やってきた人たちが駆け寄り、隠に話しかける。
「嬢ちゃん怪我はなかったか」
「え、えぇ」
「こいつのことはおらたちに任せてくれ」
頷いて、男から離れる。やってきた人たちは男を囲み、抱き上げるとどこかに連れ去っていった。
嵐のような慌ただしさに、全くついていけない。
隠は取り残され……たわけではなく、ひとりだけその場に残った者がいた。
髪は短く、ひげの目立たない若そうな男だった。
「自分はこの町に住んでる絹川と申すものだ。すまんが、この町できみの顔をみたことない。どこの子か教えてもらえるかな」
「私は隠と申します。旅をしている者です」
「きみが? ひとりで?」
「別段、危険はありません。ほら、さっきの人にだって、襲われたけれど平気でしたし」
隠は両手を広げて、どこにも怪我がないことを示す。
絹川と名乗った男は、訝しげに隠を見るだけだった。
「ところで、どうしてさっきの人は襲ってきたのでしょうか」
聞くと、絹川は困ったように頭をかいた。
「町ではよくあるんだ。夜中に発狂して、他人を襲ってしまう人が」
「発狂?」
「そう。突然にね」
『ほう、夜中に発狂』
興味ありげに、朧が呟く。
隠は朧に向けて思念した。
(気になることでも?)
『面白そうじゃ』
単純明快な返答に、隠はため息を吐いた。
面白そう、なんてものは子どもの理屈である。
しかし、絹川は隠のため息を別のものと考えたらしい。
「旅人さん、急ぎではないのなら、うちに泊まるといい。今日はもうおそい」
気を利かせてか、そんな提案をしてきた。
寝床が確保できるのであれば、願ったり叶ったりである。断る理由は特にない。
「……ではお言葉に甘えて」
隠はそれを受け入れて、頭を下げた。
〇
与えられた部屋に横になる。よそ者のための布団など用意されているはずもないゆえ、畳の上に直接であった。
もちろん、野宿よりは良い。
霧が部屋の中に浮かび上がり、やがて髪の長い小僧の姿をとった。顔は丸く、大きく赤い瞳。いたずらっぽい笑みを浮かべた小さな口。男とも女ともとれない平均的な体つき。額には、髪に隠れているものの、小さくされた角がある。
霧鬼朧の本来の姿だ。厄神として畏れられ、封印されていた者とは思えない、可愛らしい姿だった。
朧には肉体がないが、霧を自在に操って一時的に自分の体や、隠の扱う武器をつくるときがある。
どんな仕組みかはわからないが朧いわく「そういう力がある」らしい。何の説明にもなっていないが、隠には理解しなくても良いということなのだろう。
この能力にも限界があり、あまり現実離れしたものや馴染みのないものにはなれないそうだ。
「寝づらくないか? 子守歌でも歌ってやろうか。今なら膝枕もつけてやろう」
目を細めて、提案をする朧。ぽんぽんと、膝を叩く朧を見ながらも、隠は首を振った。
「慣れてるの。知ってるでしょ」
朧に憑依されてからというもの、己の時間を何もかも共有している。食事、睡眠、果ては水浴びまで、全てだ。裸体を見られることもある。もとよりそれは考えていなかったわけではない。朧は女の姿にもなれるが、男だ。しかし、男に裸体を見られるというのは、隠にとって恥じらうものではなかった。戦いにおいてそのような恥じらいは大きな隙となる。ゆえに、羞恥がわきあがらないように訓練されていた。初めて裸をさらしたとき、朧は心底残念そうに「反応なしとはつまらんのう」と愚痴をこぼしていた。
閑話休題。
つまり、時間を共有しているために、隠が、畳の上で眠ることは何ら問題がないことであるということを、朧は十分知っていた。それでもたまに、朧は何かしら提案してくる。提案されるたび、隠は断る。必要性を感じないからだ。
「それに、枕になってくれたって、体が朝までもたないでしょ」
朧が己の体を維持していられるのは、せいぜい一刻(一日を四十八で分けたときの数え方)程度である。
「維持できなくなったらそっと頭をおろしてやるゆえ」
「いらないわ」
「なんじゃ、可愛げがないのう」
つまらなそうに、朧はあぐらをかき、膝を立てて手に顎をのせた。
「朧、さっきのって妖の仕業?」
さっきのとは、もちろん隠を襲った、発狂した男のことである。
「まだわからぬな。ただ、ここの人間の手慣れようから、頻度は異常なんじゃろうし、自然なものではないな」
「知ってる? どんな妖か」
「いくつか候補はある」
「斬れる?」
「大して強くはなさそうだからの、斬れるじゃろ」
隠は二度、妖を斬ったことがある。一度目は朧と出会う前。二度目は出会った後にである。
ここの人たちが困っているのであれば、今回も斬ろうと思っていた。
「――ところで、人はなぜ狂うと思う」
朧が唐突に問いを投げてきた。隠は首をかしげる。
「妖のせいじゃないの」
「こういう表現はおかしいが、普通の発狂の話じゃ」
「何か違うの」
朧はため息を吐いた。わざとらしく頭を抱える。その様子に少し苛立ちを覚えた。
「違う違う。人間に起りえないことを妖は引っ張りだせん。お主、気が狂いそうになったときはないか」
「……あるわ」
思い出したくもない記憶がちらつき、投げ捨てるように答えた。
「どういうときじゃ」
促されるまま、思考して、頭の中で火花が散った。いいようのない自責の念と怒りが体に沸き起こってくる。
「……あぁ、すまん。無理せんでいい。所詮、与太話じゃからの」
隠の様子を見かねてか、朧が申し訳なさそうに言った。言われて、沸き起こる感情の渦を遮断する。無理に掘り起こされたわけではないため、落ち着くことは難しくなかった。
「鮮明に思い出そうとせんでいいんじゃ。軽くでいいし、簡潔でいい。自分と周りに対してどういう想いだったのか、という話じゃ」
今度は記憶を掘り起こさず、隠は答えた。
「どうでも良くなったわ。何もかもなくなればいいって」
「己の限界を超えればそうなる。体力的でも、心のほうでも、許容を超えれば壊れる」
「でも私、狂ってなんてないわ」
「わしがいるからじゃな」
「関係ないわ」
「わししょんぼり」
朧は項垂れるが、罪悪感など塵ほどもわかなかった。ただの演技なのはわかりきっている。その証拠に、朧はすぐにそれをやめた。
「……ま、マシな壊れ方じゃったんだろう。お主が弱者を気遣い、守ろうと思う。それができる程度だったか、それを思い込まされる壊れ方だったのか。気の狂った人間にもはや自他のことなぞ頭にはなくなってしまっているだろうよ。目立たぬが耐え切れずに自害するものも、あれは狂うと言えよう。己が壊れ、自他の価値が喪失し、耐え切れぬものが発狂する。もう何が好きだったとか嫌いだったとかもうどうでもよくなるんじゃろうな」
言われてみると、狂うというのは存外異常ではないのかもしれない。朧の話を聞いて、そんな感想を抱いた。
しばし沈黙が流れる。
やがて、隠はあくびを漏らした。わざとではない。少しだけ頭を使って、疲れただけである。
朧は優しげな表情を浮かべた。
「寝るか」
頷く。
「おやすみ、隠」
心地の良い声音だった。
「ええ、おやすみ」
瞼を閉じる。力を抜き、意識を薄める。
「……狂ってない、か」
眠りに落ちる中、そんな呟きが聞こえた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます