憑かれる

 なばりが村に戻ってくると誰もが驚いた。仕事を放り投げて駆け寄り、逃げてきたのかと責めにきた。しかし、怒りに染まっていた顔は、すぐに消え失せた。


「呪いにかかったやつのとこへ案内せい。手遅れになる前にはやくな」


 村から出ていく前では想像もできない、その口調、態度。村人たちはそろって呆気にとられた。


 話をしているのはもちろん、隠ではない。隠に憑依した、厄神――霧鬼のほうである。隠のほうは意識があるだけで、体のほうは全て霧鬼の思うままだった。感覚的には夢に近い。

 長い時を拘束され続けた霧鬼のことだ。憑依されればこうなることはわかっていた。


 それでも憑依を許したのは、隠との会話での間抜け具合や、邪気のなさから、村人を襲うことはないと思ったからだ。


 霧鬼は村人に案内され、呪いのかかっている男の部屋へ向かう。


「しゃばの空気はうまいのう……しゃばってなんじゃっけ。なぁ娘よ」


 道中、霧鬼は隠に話しかけてきた。

 隠は返事をしなかった。否、やり方がわからなかった。

 それからは無言で村を歩き続け、男の部屋につく。

 案内人に扉を開けてもらう。案内人が先に中へ入ろうとすると、霧鬼は呼び止めた。


「あーお主は外に出ててくれ。すぐに終わる。用があれば呼ぶゆえ、しばし外におってくれ」


 案内人にそう言いつけ、自分だけ中に入る。

 男は部屋で寝ていた。

 頬はこけ、隈はでき、とても健康とは言い難い状況だ。

 霧鬼は座ると、男の腹のあたりを触る。腹が膨らんでいることが、隠にも微妙な感覚で伝わってきた。


 男は己の体を触られたためか、目を開くと、隠……正確には霧鬼を見た。


「あ、あんたは」

「お主、辛いじゃろう。すぐにとは言えんが、楽にはしてやる」


 霧鬼がそういうと、男はただでさえ青い顔をさらに真っ青にした。


「まさかおれを殺しに」

「あ、いや、殺さんよ? すまん言葉が悪かったの」


 厄神と畏れられていたとは思えないほど、柔らかい態度だった。


「……さて、娘よ。体を返すぞ」


 体を返す?


 驚く間もなく、忘れていた呼吸が、重さが、五感が、急に蘇った。

 隠は、襲い来る感覚の群れに、倒れそうになった。だが、床に手をついてなんとか持ちこたえる。


『わし、ちょいと霧になるからの』


 虚空から霧鬼の声がした。男が驚かないのを見ると、どうやら隠だけに聞こえるらしい。

 しばらく待つと、部屋の中が白いもやで包まれ始めた。霧鬼が霧になったのだろうか。


「な、なんだ」


 男が戸惑うが何かできるはずもない。


『うーん、見るのならやはり腹の中じゃの』


 部屋が霧で包まれる中、霧鬼がぶつぶつ独り言をこぼす。

 隠は何をやっているかさっぱりだったため、静かに待つことにした。

 やがて、声がした。


『おい娘。桶を持ってこさせろ』

「……桶? なんのために」

『呪いとやら吐かせる』


 隠は霧鬼の指示に従い、部屋を出て、案内人から桶を持ってくるように頼んだ。

 少しもしないうちに、慌てた様子で案内人が桶を持ってくる。それを受け取って、隠は部屋に戻る。


「とってきたわ」

『男を下向きに起こせ。肩を貸して体を支えてやれ』


 隠は素直に従った。男の腕をつかみ、肩を貸してやる。そうして顔が下を向くように、少しだけ起こした。


『男にわしを吸わせて吐かせるからの。いろいろ覚悟しておけ』


 頷く。

 間近で男の顔を観察していると、なんとなくだが、霧が男の鼻から吸われているのが見えた。

 やがて。


「ぐえっ」


 霧を吸っていた男がえづく。隠は慌てて用意していた桶を、男の下に置いた。

 男は最初、口元を抑えて吐き気をこらえているようだったが、


「こちらにどうぞ」


 と、隠が言うと安心したらしい。すぐに手を離した。そして桶に向かって、吐いた。

 食べ物の残骸は見られず、ただ胃液だけが流れて落ちていく。

 なんとも言えない臭いが、隠の鼻孔を刺激した。

 しかし、隠はふと、小さな黒い物体が落ちていくのを見た。目を凝らして、落ちたものを確認する。


「く……も……?」


 蜘蛛だった。指のつま先ほどもない小さな蜘蛛が数匹、胃液の上に浮かんでいた。


『ひー、ふー、みー、よー……もう良いな』


 霧の中から霧鬼の声がした。


「はぁ……はぁ、なんじゃあ? こりゃ」


 吐き気が収まったらしい男が呟く。


「なぁ、お前さんこれは」


 男の疑問に答えることができず、隠は視線を霧の中へ向ける。すると、霧鬼がすぐに答えた。


『この蜘蛛どもが食ったものを全部横取りしてたんじゃよ。この様子じゃ餓死させた後、その死体も喰ってたんじゃろ』


 霧鬼の言ったとおりの説明を男にする。


「気色の悪い……」


 男の反応は最もだった。隠も、こんな蜘蛛が体の中にいたらと思うと、気持ちが悪くなる。

 しかし、男が感じたのはそれだけではなかったらしい。しばらく蜘蛛を見た後、大声で泣きだした。


「これで、たらふく食えるんだな」


 それは「満腹」を忘れずに済んだことへの喜びだった。


『さて、他のやつの蜘蛛も出してやるかのう』


 それからは、村は大騒ぎになった。

 空腹に悩まされていた村人は全員、その蜘蛛を腹の中で飼っていた。

 吐き出された蜘蛛はまとめて、火で燃やして、殺した。

 翌日、ようやく「腹がふくれる」ことを思い出した村人たちが歓喜の涙を流した。

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