二本のパキラ

 外に出ると、路地に人影はなく静まり返っている。真夜中の匂いだ。既に日付が変って、三月から四月になっているのかもしれない。

 そういえば仏蘭西菊洋装店には鏡だけでなく、時計もなかった。青猫商会にも時計はなく、作業机にあの砂時計があっただけだ。青年は腕時計もしていなかった。


 玄関は開けたままでもいいだろう。どうせすぐに戻ってくるのだし、戸締りをしたくても鍵がどこにあるのかわからない。


 路地を歩きながら、空を見上げた。

 湖の空と同じ月が掛かっている。街の空は晴れていても、星はあまり見えない。その代わり足元に目を落とせば、月明かりの下でカタバミの花が至るところで眠っている。


 カタバミは中国では「満天星」という名で呼ばれていると、管理人さんが教えてくれた。

 建物のわずかの隙間や舗装の割れ目に降りてきた星が、カタバミの花になって眠っているのかもしれない。その中には、紋黄蝶も紛れ込んいるはずだ。



 裾が夜風でひるがえる。さすがに、生乾きの髪で外に出るのは肌寒い。せっかく温まった体が冷えてしまう。わたしは足を早めた。路地のどこかにサリがまだ隠れているかもしれないと注意だけは怠らなかった。だけど猫にも兎にも人間にも会わずに、青猫商会の玄関に着いてしまった。

 最初に訪れたときにあった血溜まり—— 青年に言わせればブラックベリーのジャム—— は、きれいに洗い流されていた。


 玄関灯にも窓にも明かりが灯っている。彼はまだ中にいるんだ。

 インターホンを押そうとして、思い止まった。やっぱり中のようすをうかがってからにしよう。玄関をそっと開けると作業場のドアも開いていて、天使長が顔を出している。


「にゃおぉ」

「しっ!」


 思わず人差し指を口に当てた。


「にゃおぉぉ」


 天使長はさらに大きな声で「入っておいで」と鳴いた。 

 玄関ドアは開けたままにして、わたしは恐る恐る中に入った。


 からだった植木鉢に新しくパキラが植えられて、応接室のパキラが二本になっている。並んだ二本のパキラは同じ形をしていた。絡み合った幹の上に翼の形の茂葉しげりば

 何かに似ていると気になっていたけれど、そうだ、この形はカドゥケウスだ。


 カドゥケウスはヘルメスの杖。

 二匹の蛇が杖の柄に巻き付き、頭部には二枚の翼。神々の伝令使であり、冥界へ向かう魂の導き手ヘルメスが持つ杖だ。


 二本になったパキラを見ていると、天使長が「早くおいで」と足に擦り寄ってきた。深呼吸をひとつして、天使長の後に付いて作業場に入った。立ち眩みがするほど、ネクタルの濃厚な香りが籠っている。


 青年は作業机に突っ伏して眠っていた。ネクタルの硝子瓶が二本になっている。一本は空。もう一本も、ほとんど残っていない。あれからずっと飲んでいたんだ。

 作業机には砂の落ち切った砂時計が、木苺の森から戻って来ていた。その砂時計と彼の間には分解された真鍮製の小さな部品が散らばっている……。



 機械時計のこぐま!?



 全身の力が抜け、わたしはその場に座り込んだ。機械時計は、あの子の魂が望む場所に連れて行けなかったのだ。時間切れで間に合わなかった。あるいはレースの苺がサイズ違いで、機械時計が動かなかった。

 ああ、どうしよう—— 覚悟して青猫商会に来たとはいえ、目の前に分解された部品を突きつけられると、体の震えが止まらなくなった。あまりの自分の無力さに涙さえ出てこない。



 だめだ。

 ここで諦めてはだめだ。



 爪が食い込むほど両手を握りしめた。助けてあげると言ったじゃないか。だいじょうぶとあの子に幾度も繰り返したじゃないか。諦めるものか。諦めてたまるものか。そのために、わたしは彼のところまで来たんだ。


 気力を絞って立ち上がり、眠る青年の傍まで行った。だけど、いくら探してもレースの苺は見当たらない。あの苺がなければ、編み直すことはできない。それに、こぐまは既に解体されてしまっているのだ。


 彼の前にサリのハンドタオルがあった。わたしはサリに縋るようにハンドタオルに手を伸ばした。


 急に青年が上体を起こし、わたしの手首を掴んだ。

 黒橡くろつるばみ色の瞳が、わたしを見上げている。


 底のない暗闇の瞳の中には、ぽっかりと不知夜月いざよいづきが浮かんでいた。その月はわたし。彼の瞳に映るわたし—— 青年の目の中のわたしが瞬きもせずに見詰め返してくる。



 違う。

 これはわたしではない。

 彼の瞳に住むどこかの誰かだ。



 目を逸らさなくては。このままでは湖の中のように絡め取られてしまう。でも、蛇に射竦められた獲物のように動けない。目を逸らすことが叶わない。

 青年に引き寄せられ、わたしは彼の膝に倒れ込んだ。青年はわたしの髪にくちづけをした。木苺の森に行く直前に、わたしを抱きしめキスしたときと同じように。あれは、幻覚だった。ならば、これも幻覚だ。幻覚であるはずだ。

 目眩が蘇り、また頭痛がひどくなった。

 身動きできないまま、作業机の上に押し倒された。彼の指がわたしの服のボタンを外していく。下着を剥がされ、青年の体が重く覆い被さってくる。写真立てが倒れる音がした。背中に真鍮の部品が当たってひどく痛い。


 わたしはその痛みだけに、意識を集中させた。



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