フランス菊洋装店

カタバミかたびら

 バシャン!


 天井を突き抜けて、モザイクタイルの噴水に落下した。

 どうしてこんなことになったのか。

 仰向けにひっくり返ったまま見上げた天井には穴一つ傷一つなく、水紋の光が揺れている。

 起き上がろうとしたが、水を吸った衣服が重くて思うように動けない。しばらくジタバタともがいていたが、どうにか起き上がりなんとか噴水から這い出した。途端に吐き気が込み上げてくる。わたしは床に何度も水を吐いた。


 ようやく吐き気がおさまっても寒気がひどく、頭痛は湖の中にいたときほど酷くはなかったが、それでもガンガン割れるようだ。

 早く体を拭いて着替えた方がいい。体の芯まで冷え切っている。まだ三月だ。いや、真夜中を過ぎていれば既に四月だ。どちらにしても濡れ鼠に適した気候ではない。

 歯の根も合わないくらいガタガタ震えながら、鉛のように重い服を脱ごうとして、玄関ドアの小窓が気になった。店の中には誰もいなかったが、外から誰かがのぞくかもしれない。店には明かりがついているから小窓からは丸見えだ。だけど、そんなことを気にしている場合じゃない。とにかく服を脱いで、体を拭くことが先決だ。

 どうにかこうにか服を脱ぎ、オーダー用に陳列された白い布の中から吸収性のある麻のダブルガーゼを借りる。管理人さんに叱られるのは覚悟の上だ。

 その布で体を拭き終わっても寒気はまったく治らなかったけれど、体が軽くなった分気持ちだけは少し落ち着いて、小部屋の給湯室の奥にシャワーがあったことを思い出した。できるなら、温かいシャワーを浴びたい。


 小部屋への扉は開くのだろうか。扉を見ると、その横の硝子の棺の天蓋が僅かに開いている。

 月光の髪の少年はどうしているだろう。まだ湖底にいるのだろうか。それとも戻ってきているのだろうか。

 暖かそうなスライバーニットの布を更に借りて体に巻き付けてから、そっと天蓋の前まで行った。中を覗くと、彼は硝子の棺の中で白い花に飾られた人形のように眠っていた。髪が濡れている。胸元にあったミモザアカシアのリースも、わきにずり落ちていた。枕元のカタバミは元のままだったけれど、花も葉も閉じている。路地に咲いているカタバミをたたむついでに雀はここにも寄ったのだ。



 花の一輪が一瞬、羽撃はばたいた。

 紋黄蝶?



 でも、いくら目を凝らして見返しても、そこにあるのはカタバミの花で蝶ではなかった。

 管理人さんは少年を起こすなと言っていた。わたしはさっきから噴水に落ちて吐いたり、びしょ濡れの服を脱いだりして騒がしくしていたから、彼が目を覚まさなかったことに安堵した。明るい場所でこんなに美しい少年と間近で会話するなんて、できやしない。彼が木苺の森のこぐまだったときとは、わけが違う。



 絶望と怒りと悲しみの炎が燃える翠玉エメラルドの瞳が、わたしの脳裏に蘇る。閉じた瞼の下で、あの瞳が眠っている—— 紋黄蝶がまた羽撃く。違う。やっぱりカタバミの花だ。

 わたしは静かに天蓋を閉めた。



 給湯室の小部屋に通じる扉にはかんぬきが掛かっていた。それで小部屋側からは開かなかったんだ。

 閂を外し、中に入った。真っ先に青猫商会への扉が目に入る。

 青年や天使長はまだいるのだろうか。天使長はともかく、シャワーを浴びているところを青年には気付かれたくない。

 忍び足で青猫側の扉に近付き、耳を押し当てた。物音はしない。

 この扉が開くかどうか試したくもあったが、わたしは裸に布を巻いただけの格好だ。もし開いて、青年がいたら目も当てられない。

 小部屋側からでも閂が掛けられたらいいのにと思ったけれど、付いていないものはは仕方ない。

 洗面所の奥のトイレやシャワーのある部屋は、きっと内側から鍵が掛けられるはずだ。その鍵があの青年に効力があるのかどうかはわからないけれど。


 ともかく気が付かれない方がいい。青年がまだいるとして。

 極力物音を立てないように洗面所に行った。洗面所の戸は内側から鍵が掛けられた。戸棚の開き戸を開けると洗い立てのタオルもある。

 そのタオルを借りてシャワーのある部屋のドアを開け、鍵をかけた。二つの鍵をかけ終えると、少しだけ安心した。

 古いビルなのにシャワーはすぐに熱いお湯が出た。水量もじゅうぶんだ。モワモワと湯気が立ち込める。


 シャワーを最後に浴びてから、どれだけ経ったろう。サリが死んでから、「シャワーを浴びる」なんて言葉は消えてしまった。当たり前の日常は全て消えてしまったのだ。もっとも、それ以前から普通の生活はとっくに壊れていた。それでもまだ壊れたなりに、わたしの周りには毎日の生活があった。それがサリといっしょにみんな消えてしまったのだ。


 シャワーカーテンから、顔だけ出した。

 異変はない。

 換気扇を回して、タオルで体を拭った。

 なんだか生まれ変わった気分だ。頭痛は残っていたけれど、体が温まった分、だいぶ楽になった。


 乳飲み猫だったサリを土砂降りの水溜りから助け出したあと、ぬるま湯に入れて低体温から救った。あのときのサリも、今のわたしみたいな気分だったのだろうか。そうだったらいい。そうであってほしい。


 使ったタオルはあとから洗って乾かすことにして、布を再び体に巻きつけ、洗面所に戻った。

 鏡に映ったわたしの姿は、なんだか古代の巫女がタイムリープしてきたようだった。

 恐る恐る鍵を開けて給湯室に出たが、誰もいなかった。青猫商会側の扉も静まり返っている。

 隅のゴミ箱に可燃ゴミの袋がかけてあった。中にゴミは入っていない。これを借りよう。使ったタオルと濡れた衣類を入れるんだ。ゴミに出すためじゃない。コインランドリーに持っていって洗濯するんだ。


 相変わらずの忍び足で、フランス菊洋装店に戻って扉に閂をかけた。

 改めて見ると、床はひどい状態だった。掃除道具を見付けて、きれいにした方がいい。掃除をしたからといって怒られ具合が変わるとは思わないけれど。

 それにコインランドリーにも今すぐ行きたい。でも、わたしは裸同然だしお財布にはコインランドリー代も残っていない。ジャムとパンのお釣りの硬貨でさえ、木苺の森で使ってしまった。

 そうだ。空っぽのお財布が入っているトートバッグは青猫商会に置いたままだ。トートバッグを取りに行かなければならない。あのバッグには、管理人さんから保存しておくようにと渡された編み図が入っている。トートバッグを取りに青年のところに行くのなら、コインランドリー以上にこんな格好じゃ無理だ。


 仕方がない。クロゼットに陳列してある洋服を借りることにした。

 始めから服を借りればよかった。体を拭くのだって、小部屋の洗面所に直行していればタオルがあったんだ。高価なオーダー用の布を二枚も台無しにして弁償せずにすんだのに。わたしのやることといったら相変わらずこんなだ。


 溜め息交じりに、スタンドネックのゆったりしたシャツと揃いのボトムを選ぶ。ストンとしたジェンダーレスのデザインだ。

 クロゼットの引き出しを開けたら男性用も女性用もどちらの下着も揃っていた。取り敢えず、これも借りなきゃ。管理人さんから叱責と共に請求される金額が重く伸し掛かって、前たてのボタンを掛ける手も止まる。オーダー用の上等な布二枚、セットアップの服に下着。あと靴下と靴も借りなければならない。今日の日給で到底足りるはずもない。ここでアルバイトを続けることになっても、当分はタダ働きだ。でも、くよくよ思いわずらっても仕方がない。今は目の前のことだけ考えよう。あとのことは、あとのことだ。自分に言い聞かせて、やっとボタンを掛け終った。


 重要なのは仏蘭西菊洋装店に負債を作ってしまったことだ。ただ働きが続くにしろ、この店で働かせてもらうしかない。

 わたしとしてはレースの苺を編んで仕事をしたつもりなのだけれど、それで機械時計のこぐまが動くようになったかどうかはわからない。

 もしトートバッグの中に機械時計のこぐまがあるのなら、レースの苺が香箱に入らなくて動かなかったことになる。それなら、苺をほどいてもう一度編み直せばいい。一本の糸に戻して、やり直せるのが編み物の良いところだ。それくらいはすぐにできる。問題なのは、砂時計の時間だ。それは青年に頼んでみよう。彼だって、こぐまの魂がかかっているのだもの、融通を利かせてくれるだろう。もし砂時計を動かして時間を戻してくれなかったら、今度は本当に蹴っ飛ばしてやるだけだ。

 掃除はその後だ。朝までにはなんとかなる、きっと。

 彼と顔を合わせるのは憂鬱極まりないけれど、機械時計のこぐまのためだ。それに、もう、ちゃんと服を着ているんだ。覚悟を決めて給湯室の小部屋に戻った。

 一つ深呼吸をして、青猫商会側の扉をノックする。


「にゃお」


 天使長の声がした。

 もう一度、ノックする。


「にゃお」


 また、天使長が返事をした。青年はどうしたのだろう。もう、いないのだろうか。

 扉を開けようとしたが、相変わらずびくともしなかった。


「にゃおにゃお」


 天使長が何か言っている。わたしには「路地を回って玄関から入っておいで」と言っているように聞こえた。

 彼がいるのなら玄関のドアは開くだろうし、もう帰ってしまったのならドアには鍵が掛かっているはずだ。

 仕方がない。天使長がああ言っているんだ。青猫商会の玄関まで行ってドアが開くかどうか試してみるしかない。

 ふと脳裏に、初めて会ったときの青年のいたずらっぽい笑顔が浮かんだ。ずっとあの笑顔のままでいてくれたら、わたしだってこうまで彼を警戒して鬱陶うっとおしくはならなかっただろうに。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る