こぐまの機械時計

 ぼくが初めて作ったのは、こぐまの形をした機械時計だった。

 親から虐待の限りを尽くされ、誰にも知られずに一人海に沈んでいった幼子おさなごの魂のための機械時計だ。


 ぼくは、この子を自分の身と重ね合わさずにはいられなかった。

 ぼくだっておじいさまに捨てられ、大義名分を盾にアンジュからいいようにおもちゃにされている。地下室の虐待で潰されてしまえば、この子と同じ、誰にも知られず消滅してしまうんだ。そうなれば未だ闇の中のぼくの半身、運命の糸を操る彼女も消えてしまうのかもしれない。おじいさまは消えたぼくらに失望するだろうけれど、それも一瞬だけで新たにぼくらの弟妹を作って弟の方をアンジュに託すだろう。アンジュもぼくのことなど忘れて、新しい少年の翼の芽を摘むだけだ。ぼくといっしょに育ってきたラファエルだって、いずれは硝子の棺の中だ。

 ぼくが存在していたことなんて、誰の記憶にも残らない。

 だから機械時計を作る。ぼくが確かにここにいたという証を作るんだ。



 魂のない人魚の姫は王子の愛を得られず、海の泡になった。だけど陽の光によって空に上り、空の娘となった。三百年の間、人間たちのために良い行いを続けて魂を得るために。魂を得て、彼女の望む神の国に行くために。


 魂のないぼくは、魂を運ぶ機械時計を作る。空の娘の良い行いのように、行き場のない魂たちを救い続けていれば、ぼくだってここではないどこかに行けるかもしれない——行けやしないだろうけれど。

 それでも、ぼくは機械時計を作る。ぼくの代わりに、魂たちが自由になれるように。



 初めて作る機械時計はとても難しかった。失敗ばかり繰り返した。だけど諦めずに何度も何度もやり直し、どうにかこぐまの機械時計を完成させた。

 こぐまの目には藍玉石アクアマリンを選んだ。幼子の魂が沈む海がせめて穏やかであるようにと願いを込めたんだ。

 でき上がったばかりのこぐまを満天星カタバミの葉で磨き上げていると、嬉しさがこみ上げてきた。

 ぼくはこぐまが動くところが見たかった。

 すぐにでもこぐまを動かして、悲しみと苦しみの中に沈む幼子の魂を安息の地に運んであげたかった。


 でも、機械時計のこぐまは動かない。


 ぼくはこぐまを持って、担当の教師を探しに行った。彼には、まだ完成したこぐまを見せていなかったし、すぐに動くようにしてもらいたかった。



 螺旋階段を駆け下りると、教師がちょうど工作室に入ってきた。

 彼は最後に赴任してきた教師で、おじいさまの高弟ということだった。それだからか他の教師たちとは随分違う印象だった。体全体を覆う古風なゆったりとしたローブを着て、授業のとき以外はいつもフードを目深に被っている。

 とは言っても、その姿はまだ若く青年といってもいいほどで、年格好はアンジュと同じくらいだった。温和で背が高く、青みがかった黒橡くろつるばみ色の瞳をしていた。


 彼はこぐまを受け取ると、めつすがめつ確認してから合格点をつけてくれた。

 ぼくは教師がこぐまの評価をくだす間ももどかしく、どうしたらこの機械時計を動かすことができるのかと尋ねた。


 彼はいつも通りの落ち着いた声で答えた。

「ミシェルさま。この機械時計には動力がありません。動力のない機械時計が動くはずはないのです。この機械時計に必要な動力が何かはわかっていますね」


「はい…… ぼくの半身ペアが編み上げた運命の糸です」

「そうです。ミシェルさまがミシェルさまとの対である処女おとめと出会い、彼女がこの幼子の運命の糸を編み上げるまではこの機械時計は動きません」


「……本当に動くかどうか、試すことも?」

 諦めきれないぼくは小さな声で尋ねた。


「機械時計が一度しか動かないことは、最初に学んだはずですよ」

「…… はい」

「仮に動かすことができたとして、今、動かしてしまったら?」

「…… 将来動力ができたときには、もう動きません」

「そうです」

「先生」

「質問ですか」

「はい。もし、この幼子の魂が消える時間になっても、ぼくが彼女に出会えなかったらどうなるのですか」


 教師は一瞬くらい目をしたが、すぐにいつもの穏やかな表情で答えた。

「幼子の魂は消滅し永遠の苦しみに変わり果て、こぐまの機械時計は幼子の地獄に変わります」


 ぼくの機械時計が、地獄に変わる? まさか、そんな……。

 驚きのあまり声すら出なかった。教師も黙ったままでいた。


 やっとぼくは絞り出すような声で教師に尋ねた。

「幼子の魂は消えてしまうのですか。大罪を犯した魂と同じように」


「消えはしません。永遠の苦しみに変わった魂は消えることも叶わないのです。動くことのない機械時計の中で、苦しみが終わりもなく続くということです。この宇宙の終わりが来て、新しい宇宙が初まったとしても苦しみは残り続けるのです」


 最悪の呪いじゃないか。それなら、ぼくの機械時計なんてなかった方が良かったんじゃないか。己の業が作る地獄に落ちて消えるならまだしも、ぼくの作った機械時計が地獄に変わり永遠の劫火に焼かれるだなんて……。

 

「それと、もうひとつ。ミシェルさまが知っておくべきことがあります」

 教師はぼくを見下ろし、静かに続けた。

「たとえ出会えたとしても、ミシェルさまの半身おとめが時間内に運命の糸を見つけ正しく編みあげることができなければ、結果は同じです。運命の糸を編む力が彼女にないのであれば、ミシェルさまの機械時計もなんの役に立たないのですから。お二人に割り当てられた魂は残酷な末路を迎えるしかないのです」



 ぼくの半身が何もできない役立たずかもしれないなんて考えたこともなかった。

 ぼくはもう一人のぼくである彼女に初めて強い不安と疑念を持った。いや、これまで彼女に期待しすぎていたのかもしれない。彼女だって、ぼくの片割れなんだもの。何もできなくて当たり前なんだ。こうまで穢され、汚れたぼくなんだもの。その片割れの女が清らかで真っ当な処女おとめのはずはないじゃないか。


 でも、嫌だ、そんなのだめだ。こんなに苦労して初めて完成させた機械時計が地獄に変わるなんて嫌だ。ぼくらのせいで、悲しむ魂たちが今以上の、今とは比べ物にならない苦しみを背負わされるなんて、そんなこと絶対に絶対にだめだ。



「ミシェルさまがヘルメスの血から創り出されたものであるならば、過度の期待も不安も抱くものではありません。この世には無駄ということはありません。無用も有用も、その場でそう見えるだけのことです。全ては絡みあい、長い時間の中を流れていくだけなのです。どこでなにがどう繋がり結びついているのかは、もしかしたら、あなたのおじいさまでさえご存知ないのかもしれません。だけれど、時間はそうして流れていくものです」


「……それなら」

 この屈辱に満ちた日々も、いつかは意味があるものに変わるのか…… だけど、それは結局は意味がないのと同じことなのか……。どうして、ぼくはこんな宿命を背負ってしまったのか…… この宿命から、どうしたら逃れられるのか…… 逃れる方法があるとするならば、それはこの宿命に押し潰されて消えてしまうことだけなのか……。


 ぼくは教師に尋ねたかったけれど、あとからあとから涙が溢れて何も言えなくなってしまった。

 彼はぼくをそっと抱き寄せた。

 教師がその暖かい胸にぼくが顔を埋めて泣くことを許してくれたのは、後にも先にもこのとき一回限りのことだった。 




 その夜、ぼくは一睡もできなかった。

 機械時計の教師の前で涙と共に溢れ出した激情が、ずっと鎮まらないままだった。

 夜の診察のとき医師のオーレ・ルゲイエは、ぼくの興奮状態を察して、いつもとはちがう薬を三種類処方してくれた。瞼にさす眠りのミルクも増やしてくれた。

 それでも眠れなかった。

 不安が押し寄せる夜はいつも枕元にいてくれるアルが、今夜に限ってどこにもいない。

 いっそのことラファエルの部屋に忍んで行こうかと思った。ラファエルがぼくを迎え入れ眠らせてくれるのはわかっていたけれど、結局は思い止まった。

 ラファエルだって、半身の処女おとめを持つ身だ。ラファエルなら、ぼくのように彼女に疑念を抱くことは無いのかもしれない。だけど、もし、この不安をラファエルにまで伝染させてしまったなら、ぼくはもっと辛くなってしまう。不安はまるで感染症のように、ぼくらの間を伝わっていくのだもの。




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