時計塔の部屋

 朝食と診察の後、ぼくとラファエルは授業を受けるために別れる。昼食の時間に顔を合わせ、午後の授業が始まるとまた別々だ。



 ぼくらは専用の学舎を一棟ずつ与えられていて、頭文字を取ってM舎とR舎、あるいはネコとウサギと名付けて区別していた。敷地内の他の建物と変わらないいかめしい造りで、外観はM舎もR舎も同じだったが、ネコにだけ時計塔があった。


 M舎に入ることができるのは、ぼくと天使長と教師たちだけだ。館の主のアンジュだって立ち入ることはできない。もっとも自由に出入りできたとしても、アンジュは決して入らないだろう。 

 ぼくの教師たちは、おじいさまの神殿から遣わされている。時計塔以外見た目はR舎と同じでも、内部は全ておじいさまの計らいだ。いくらミモザの館に捨てた子とはいえ、ぼくだっておじいさまの一族であることには違いないんだ。


 アンジュはぼくのことで、おじいさまにひどく腹を立てている。おじいさま手配の目障りなM舎なんて、できることなら敷地内から撤去したいはずだ。ついでにぼくも消してくれたら、どんなにうれしいだろう。



 M舎の玄関扉を開けても、中に何があるのか伺えない。滝のように流れ落ちる白銀の流動体が視界いっぱいに広がっているからだ。流動体にはἙρμῆςヘルメスの文字と伝令使の杖カドゥケウスの紋章が鮮やかに浮かび上がっている。

 この流れには、何人なんびとたりとも触れることはできない。触れたところは真っ黒に腐食し、そこから腐敗が広がってあっという間に全身が崩れ落ちてしまうのだ。たとえ不老不死の身体を得ていたとしても、階層が低いものなら無残な姿に成り果てる。

 この流れが開いて先に進めるのは、M舎に入ることが許されている者だけだ。


 雷水晶ライトニングクォーツの迷路じみた廊下が続くM舎で、ぼくは遠い過去から遥かな未来まで、あらゆる時間のうちにあるものを学んでいった。

 退屈なことの方が多かったけれど、時計塔の真下の部屋だけは気に入っていた。 おじいさまの神殿の一室を模したこの部屋を、勝手に「工作室」と呼んでいた。

 未熟なこどものぼくには未知のもの、手を触れることができないもの、理解できてはいても扱えないものばかりだった。だけど、日毎に色々なものが一つ一つ使えるようになっていくのは、この館で育つぼくの唯一の楽しみだった。



 ラファエルが果実と兎の匂いを漂わせて、ぼくの部屋に忍び込んできた次の日。

 ぼくは初めて工作室から続く時計塔の中に入ることを許された。


 その日、工作室に掛かるArbor philosophicaアルボ・フィロソフィカの額が動き、隠し扉が初めてぼくの前に現れた。

 扉の中には時計塔にある機械時計の部屋へと繋がる螺旋階段が煌めいていた。


 機械時計の授業を担当する新任教師に連れられて上がる階段は、踏むたびに澄んだ美しい音色をたてた。

 螺旋階段を上りきると、そこが機械時計の部屋だ。

 緊張で高鳴る胸を押さえ、ぼくはその部屋に入った。

 機械時計の部屋は工作室より狭かったけれど、一目でここが気に入った。

 これから午前中は今までどおりに授業を受け、午後からはこの部屋で魂たちのために機械時計を作ることになるんだ。



 汚れた魂は往々にして自らの咎が作る地獄に堕ち、いずれは消滅してしまう。

 そして、不運や不幸が重なった魂もまた悲しみや苦しみの重さで動けなくなり、やがては消えてしまう。

 機械時計は、そんな魂たちが消え行くまでの時間を測る時計だ。 

 その中でも、ぼくが作ることになる機械時計は特別なものだ。

 不運や不幸のために本来なら消えてしまうはずの魂を乗せて、期限内ならその魂が望む場所、行くべき場所に運ぶことができる。魂は悲しみの中に消えずにすむんだ。


 魂を運ぶ機械時計はヘルマフロディスとして生を受けたぼくにしか作ることができない。だから、おじいさまから委任された教師たちから徹底的に教育されてきた。つまらない授業ばかりだったけれど、機械時計の部屋に入ることを許される日のためにアンジュからの仕打ちにも耐えずっと我慢し続けてきたんだ。



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